天語歌

天語歌
阿波国の阿曇系の海人部によって伝承されたとされる「天(海人)語歌」は、「纏向の日代の宮は…」で始まるが、これは12代景行天皇の宮殿のことである
安曇連百足 :穂高見命の9世孫
「風土記」によれば、「肥前国~松浦郡・値嘉の郷~」に、息長氏系の12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場し、値嘉島へ偵察に出るなど活躍を見せる。

下記の説があります。

一般的に「天語歌」は「海人語歌」の意味に解釈されているが、私は記紀で明確に区別している国神系の歌が「神語歌」、天神系の歌が「天語歌」であり、海人系(鵜伽耶)の歌が「海人語歌」であったのではないかと思う。なぜなら古今伝授の秘伝「三木三鳥」や、三種の神器、『日本書紀』などによると、海人族は神木の上枝、中枝、下枝に呪物を懸ける招魂儀礼、三柱の海神の誕生や禊ぎの仕方を「底」「中」「下」の三段階に分ける発想などをことあるごとに語られているように感じるのである。

そして、この「天語歌」とされる三首の歌謡の中で三重の采女の歌は「海人語歌」ではないかと思われる。
本来この歌の「纏向の日代の宮」は景行天皇の皇居であり景行天皇への讃歌であったのが、雄略天皇の物語に採用されたのである。
そして本来この歌謡を伝承していたのは、阿波国の安曇系の海人部であろうと述べている。

安曇氏は「綿津見神」を斎祀る海人系氏族で、北九州はじめ瀬戸内海沿岸地域、伯耆、さらに信濃方面にも分布するが、その本拠は筑前国糟谷郡安曇郷および志珂郷あたりで志加(志賀)海神社の「綿津見神」を斎祀る海人系氏族である。
『肥前国風土記』によると、安曇連百足(ももたり)が景行天皇の西国巡幸に従って海人を帰属させたというが、景行天皇は『日本書紀』によると襲国の隼人を平定した天皇である。ということは隼人や安曇連の服属が景行天皇のころとされていて、その景行天皇をたたえた寿歌が安曇氏の宮廷への服属儀礼歌として
奏されたと考えられる。

<古事記 下巻 雄略天皇 六より>

纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
八百土よし い築きの宮
真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
こしもあやかしこし 高光る日の御子
事の語る言も 是をば 
(一〇〇・伊勢国の三重の采女)

<現代語訳>
纏向の日代の宮は、朝日の照り輝く宮、夕日の光り輝く宮
竹の根が充分に張っている宮、木の根が長く延びている宮
(八百土よし)築き固めた宮でございます。
(真木さく)桧つくりの宮殿の、新嘗の儀式をとり行う御殿に生い立つ、枝葉のよく茂った欅の枝は、
上の枝は天を覆っており、中の枝は東の国を覆っており、下の枝は田舎を覆っています。
そして上の枝の枝先は、(ありきぬの)三重の采女が捧げ持っている
立派な盃に浮んだ脂のように、落ちて浸り漂い、おのころ島のように浮んでいます。
これこそなんとも畏れ多いことでございます。 (高光る)日の御子よ、
事の語り言として、このことを申し上げます。

倭のこの武市に 小高る市のつかさ
新嘗屋に生い立てる 葉広のゆつ真椿
その葉の広りいまし その花の照りいます
高光る日の御子に 豊御酒献らせ
事の語り言も 是をば 
(一〇一・大后)

<現代語訳>
大和のこの小高い所にある市に、小高くなっている市の丘。
そこの新嘗の御殿に生い立っている、葉の広い神聖な椿よ。
その葉の様に心広くいらっしゃり、その花の様にお顔が照り輝いていらっしゃる
(高光る)日の御子に、めでたいお酒を差し上げて下さい。
事の語り言として、このことを申し上げます。

ももしきの大宮人は 鶉鳥 領巾とりかけて
鶺鴒 尾行き合へ 庭雀 うずすまり居て
今日もかも 酒むづくらし 高光る日の宮人
事の語り言も 是をば (一〇二・天皇)

<現代語訳>
(ももしきの)大宮人は、ウズラのように首に領巾をかけて、
セキレイのように、長い裾を交えて行き交い、
庭雀のように、うずくまり集まって、
今日はまあ、酒に浸っているらしい。
(高光る)日の宮の宮人たちは。
事の語り言として、このことを申し上げる。