元住吉神社、本住吉神社、住吉大社

住吉3神を祀る神社は、博多、神戸、大阪の3所にある。
創設の由緒から、どの神社が始まりか考えてみた。

博多の住吉神社
祭神 底筒男命、中筒男命、表筒男命
例祭 十月十三日
 社地は昔の那の津の川口にあり、社前の池はその川口の名残である。
 この社はもと筑前国一の宮で、全国二千社をこえる住吉神社の 宗社である。昔から御祭神は、伊弉諾尊の禊祓の伝説から、厄除、 開運や航海安全の神として知られ、漁業関係者等の信仰があつく、 「住吉丸」という船の多い事もそのためである。
 現在の本殿は、筑前国黒田長政が元和九年(西暦一六二三年) に再建したもので、仏教渡来前の古代建築様式を伝える「住吉造」 として国の重要文化財に指定されており、檜皮葺きで直線型の独特 の屋根である。
 なお、夏越祭(七月三十日、三十一日)、相撲会(十月十二日、 十三日)、歩射祭(十一月七日)の神事がある。
-境内案内-

 住吉大神をお祀りする神社が全国に二千百二十九社ありますが、当社は住吉の最初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されております。
由緒
『日本書紀』に、黄泉から戻った伊弉諾尊が、紫日向小橘之檍原にて禊祓されて生じた神の中に、底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神がおられる。
また、仲哀天皇の死後、神功皇后が新羅へ遠征する時、「和魂は王の身の命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導くだろうとの神の教えがあり、依網吾彦男垂見に祀らせたとある。
社伝によると、当地は「紫日向小橘之檍原」の古跡であり、神功皇后が祀られたのが当社であって、当社は日本第一の住吉宮であるという。
一説には、那珂川町の現人神社が当社の元宮であるといい、海岸線の移動とともに、現在地へ遷ったというが、確証はなさそうだ。珂川の上流と河口部という位置関係から、なんらかの関連はあったのだろうが。

神戸の住吉神社
住吉三神を主祭神にしている神社は 神戸市東灘区の本住吉神社と兵庫県明石市魚住町の住吉神社がある。

神戸市垂水区の海神社は 綿津見神社とも書き 御祭神に底・中・表綿津見神を祀っている

綿津見が奉斎する神社が住吉神社か?
綿津見とは、何か?

大阪の住吉大社
 大阪市住吉区に 住吉大社がある。
その北側の中央区に 安曇族のゆかりの地といわれる安堂寺町がある。この安堂寺町は 日本書紀巻第二十五の孝徳天皇の項に 「白雉4年(653年)に 孝徳天皇が安曇寺で病に臥す僧の旻を見舞った」と出てくる安曇寺の地名が その後 安堂寺に変わり 現在 中央区に 安堂寺町・安堂寺橋の地名として残っているのだ。 
旻(?~653年) 608年遣隋使の小野妹子に随行して隋へ渡り 祥瑞思想を学んだ僧で 白雉が献上されたことを祥瑞だと評して それまでの大化を白雉に改元された。旻は安曇寺で学問を教えていた

住吉を奉斎するのは、安曇族か?

阿曇(安曇)氏
阿曇(あづみ)は「アマツミ」つまり「海人津見」の転訛だそうで、「ツミ」は綿津見神と同じで、「住み」の意味であるとか、「つ」は助詞で、「み」は「美」で美称であるとか言われるが、当に「海人」を名にし負う氏族である。
律令制下、代々、内膳司(うちのかしわでのつかさ)の長官を勤めた。宮内省に属し、天皇の食事の調理・試食をつかさどった。長官は二人で奉膳(ぶうぜん)といい、安曇・高橋(8代孝元天皇の皇子、四道将軍大彦尊を祖とする。阿倍氏、膳氏と同族)の両氏の者が任ぜられ、他氏が長官の場合は内膳正(ないぜんのかみ・ないぜんのしよう)を称した。

志賀海神社によれば
日向の橘(たちばな)の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族(しんえいあずみ
ぞく)によって奉斎(ほうさい)されている。
左 仲津綿津神(なかつわたつみ)
中 底津綿津見神(そこつわたつみ)
右 表津綿津見神(うはつわたつみ)
筒男命と呼び方が異なっている?

綿津見神わたつみのかみ
別名
少童命:わたつみのみこと
海神:わたつみ
海童:わたつみ
和多都美神/和多津見神:わたつみのかみ
綿摘神:わたつみのかみ
大海津見神/大海津美神:おおわたつみのかみ
上津綿津見・表少童:うわつわたつみ
中津綿津見・中少童:なかつわたつみ
底津綿津見・底少童:そこつわたつみ
志賀神:しかのかみ
豊玉彦命/豊玉毘古命
和多津見豊玉彦命
「わたつみ」とは、海の神霊を意味する普通名詞。ワタ=海。

伊邪那岐神が死の国の穢(けがれ)を祓うため、筑紫日向の橘の小門の阿波岐腹で禊(みそぎ)した時、 水底で滌ぎ給うたときに底津綿津見神、中程で滌き給うたときに中津綿津見神、水の上で滌がれたときに上津綿津見神が化生した。
上記の禊において、同時期に化生した神直日神・大直日神・伊豆能売神(あるいは八十枉津日神)と、表筒男命・中筒男命・底筒男命を合わせて九柱の神を祓いの神とする場合がある。

対馬の住吉神社
 対馬には住吉神社が三社ある。対馬の美津島町鴨居瀬にある住吉神社は 由緒によると 創建は神武天皇の時代で 神功皇后のとき住吉神社と称し 祭神に底・中・表筒男命を祀っている。 現在 同町の鶏知にある住吉神社は この鴨居瀬から遷ったとされたとなっているが 筒男命は祀っていない。
 また 対馬市厳原にある住吉神社も 御祭神に底・中・表筒男命を祀っているが 創建が何時の時代かはわからない。

壱岐の住吉神社
 住吉神社は 壱岐市芦辺町住吉東触にあって 御祭神に底・中・表筒男命を祀る。創建が 三韓征伐に赴いた神功皇后が帰路に寄ったときとされている式内社である。

「摂津の垂水」も二ヶ所ある。神戸市の垂水区と、大阪府吹田市の垂水神社だ。

筑前の住吉神社(福岡市博多区)の南東に犬養(犬飼)村があり 安曇野でも住吉神社の南東に 犬養氏が出た犬甘島という地名がある

阿曇連百足(あずみのむらじももたり)
穂高見命の9世孫にあたる。
「風土記」によれば、「肥前国~松浦郡・値嘉の郷~」に、息長氏系の12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場し、値嘉島へ偵察に出るなど活躍を見せる。
阿波国の阿曇系の海人部によって伝承されたとされる「天(海人)語歌」は、「纏向の日代の宮は…」で始まるが、これは12代景行天皇の宮殿のことである。景行天皇は「書紀」によれば、襲国の隼人を平定した天皇であり、「海幸山幸」の神話によるところの、阿曇氏(綿津見豊玉彦命・海神)が、隼人(海幸彦・火照命)を天孫(山幸・火遠理命)に服従させる手助けをする物語と、景行天皇の「御付人」として、百足が隼人の平定に協力する姿は見事に合致する。海神は百足を象徴した姿なのか?
「播磨国風土記~揖保の郡・石海の里~」にも、36代孝徳天皇朝に、「阿曇連百足がこの里に生えた百枝の稲を天皇に献上し、天皇が、それならばその里に田を作るがよいと、石見の人夫達を召して開墾させたので、この野の名を百便(ももたり)、村の名を石海(いわみ)という。」とあるが、時代的に、斉明~天智朝に、我が国と新羅・百済間をたびたび往復したという、阿曇連頬垂(つらたり)の誤記であろう。

阿曇磯良(あづみのいそら)
神功皇后に従属した、志賀島の海人。
民間伝承では、豊玉毘売命の子。磯良神を磯武良(いそたけら)と表記する神社があるが、記紀神話の豊玉毘売命の子、鵜葺草葺不合命の名には、「日子波限建(ひこなぎさたけ)」という名が冠されることがあり、渚(なぎさ)は要するに「磯」であるので、磯良と鵜葺草葺不合命は同一人物という説もある。
それにしても磯武良(いそたけら)とは、あまりにも紀伊坐大神、五十猛命(いそたけるのみこと・大屋毘古命)に、音がにていないか? 言うまでもなく、漢字は万葉仮名つまり当て字で、音が同じなら同じ神としてもいい訳である。五十猛命は素戔嗚尊の御子で、父神とともに新羅の曾尸茂梨(そしもり・牛頭の意味という。韓国慶尚道の牛頭山、江原道春川の牛頭山などの説がある。)に天降り、更に埴土の舟に乗って出雲国簸の川上にある鳥上の峯に到ったとある。そして、天上から持ち帰った樹木の種子を日本全土に蒔き、紀伊国に鎮座されたという。

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