天の鳥笛、笛吹連、笛吹神社

「象乃布江」=  『天之鳥笛』か?
西日本新聞の福岡版に掲載された、謎呼ぶラッパ形土器は、古事記記載の『天之鳥笛』だった との報告が、児島宮歴研会よりある。

出典  http://9009.teacup.com/cojimagu/bbs/539

また、同研究会より、須恵器は朝鮮半島の、のぼり窯の陶工によって作られたという説が間違いとの研究報告がある。作り方がちがっているとの報告のようです。

日本では夜須でウガヤが、祭祀をしていた事が号筒の発見で、判明した。これは、相当に古い時代のようです。
  
常陸風土記の天ノ鳥笛

『常陸国風土記』行方郡の条には、東垂の荒賊を平定するために派遣された建借間の命が、国栖を攻撃したが、国栖は堡(とりで)に立て籠って防衛するので、計略を用いて誘き出し、皆殺しにしたという説話がある。そこには、琴・笛・杵が、次のような場面に登場する。

俄にして建借間の命、大きに権議を起し、敢死之士を校*閲し、山阿に伏せ隠し、賊を滅す器を造り備へ、厳しく海渚に餝(かざ)り、舟を連ね筏(いかだ)を編み、雲の盖(きぬがさ)を飛し、虹の旌を張り、天之鳥琴・天之鳥笛、波に随ひ潮を逐ひ、杵を鳴らし曲を唱ひ、七日七夜、遊び楽しみ歌ひ舞ひき。時に賊党、盛りなる音楽を聞き、房を挙げて男女、悉尽に出で来、浜を傾け歓び咲(わら)へり。建借間の命、騎士をして堡を閇(と)ぢしめ、後より襲撃し、尽に種属を囚へ、一時に焚き滅しき

天の鳥笛については、塚本哲三・物集高見・武田祐吉・植松安・植木直一郎・鵜殿正元らが、「天之鳥笙」と、笛を笙に改訂している。しかし、誰も、その根拠を開陳していない。

天岩屋にて天鈿女命(アマノウズメ)が天香山の竹を採りその竹に孔を明けて吹いたともいうが真偽は不明。

(笛吹神社)葛木坐火雷神社
笛吹神社と呼ばれているのか
元は火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祀る火雷神社と、朝廷の笛吹きをつと めた笛吹連(むらじ)たちの氏神で、一族の祖神である天香山命(あめのかぐやまのみこと)を祀る笛吹神社の2社があったのが1つになった説があり、今も地名として残っているという。現在もその笛吹連の子孫である持田家が祭祀を受け継ぎ奉仕。今は85代目となっている。

由緒
当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられていますが詳かでありません。然しながら神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の10年に四道将軍を置かれ大彦命を北陸に御差遣され給うた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)この軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返されて天皇にこのことを報告し、建埴安彦を討ち果たす事を奏上せられた。このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わされてこれを討滅された。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。天皇は大いに櫂子の戦効を嘉賞し給うて天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を賜る。この夜天皇のおん夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社にお祭りになったと伝えられています。当社を笛吹神社と申すのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。延喜式神名帳あるいは特選神名帳・三代実録等の古い記録にあります。  全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

本殿の北西斜め後方には「笛吹神社古墳」が存在し、一族の祖の古墳と伝えられている。また古墳関連で神社の別説が―。当初は本殿がなく、この山をご神体としていたのではないかとの説もあるとか。古墳と神社の深いかかわりに古代の歴史の息吹を感じる。

物部氏は早くから在地の勢力化した氏族だからこっちの線も有力である。笛を吹くことは葬式でも行われた。
「枚方(ひらかた) 笛吹き上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る(紀98)」
という歌は、どうか。
530年(古墳時代)に近江臣毛野の遺骸を迎えた妻が
「ひらかたゆ 笛吹きの上る 近江のや 毛野の若子い 笛吹き上る」と歌った。哀しい歌です。

これが「ひらかた」の地名が出た始めです

古代に笛吹連という姓氏があったことは、『新撰姓氏録』河内神別に「笛吹連(一本に「笛吹」)」があげられ、「火明命の後なり」という記事があることから確かめられる。同書で火明命の後ということは尾張連一族の意であり、『旧事本紀』天孫本紀の尾張氏系譜には、火明命の六世孫、「建多乎利命 笛連、若犬甘連等祖」と記される。

社伝によると建多乎利の子の「櫂子(かじこ)」が崇神朝の建埴安彦の乱で活躍し、天磐笛を賞賜されて笛吹連の祖となったとされる。その櫂子の子孫が持田氏で、現宮司は第八五代だと伝える。「櫂子」という名がどこまで信拠できるか不明だが(カジは舟の梶、あるいは木の枝の意か)、その通称が「笛連王」として伝えられた可能性もないでもない(古代の名前としては奇妙だが、後世に名づけられた通称なら、ないとはいえない)。また、「櫂子」が建多乎利の子であったのなら、イトコにあたる大海媛が崇神天皇妃であったと伝えるから、建埴安彦の乱に関与したことはありうるという。

出典 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/fuefuki1.htm
尾張には部姓の笛吹氏が二例見える。山田郡両村郷の笛吹部少足(天平勝宝二年四月「仕丁送文」)と尾張国人の笛吹部高継(『三代実録』貞観二年五月)である。ほかの地方には現在のところ見当たらないから、笛吹部と尾張国との深い関係が窺われる。これも、小縫の子孫が尾張国造で、大縫の子孫が笛吹部だったという背景を傍証するものかもしれない

鳥羽天皇の天永元年(1110)から鎌倉中期・亀山天皇の弘長二年(1262)という期間にすぎないが、そこには笛の演奏者としては笛氏の者は見えず、小部氏(多臣一族の小子部連末裔か)や大神氏が笛の楽器を担当している。