任那、5-6世紀、倭5王

高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。太祖の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。 宋書

『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。


451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇に比定される)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた。  宋書

462年 宋の孝武帝は倭王済の子、興を安東将軍倭国王とする。 宋書

雄略天皇五年(461年)四月条 東城王の弟の軍君、大和へ。武寧王生まれる
百済の加須利君(第二十四代百済東城王在位479-501)は弟の軍君に『汝は日本やまとに行って天皇に仕えなさい』と言った。軍君は答えて言った。『君の命に叛くことはできません。願わくば、君の婦人を頂いて、それから遣わしてください』
加須利君は、これによって孕んだ婦人を軍君に嫁がせて言った。『私の子を孕んだ婦はすでに臨月になっている。もし行路で産まれたならば、できれば母子を、どこからであろうと、速やかに百済に送らせなさい』
軍君こにきしは、こうして日本に遣わされた。六月一日孕んだ婦は、王の言ったように、筑紫の各羅島かからしま(佐賀県東松浦鎮西町加羅島か)で子を産んだ。これによって、この子を名付けて嶋君と言った。それで軍君は、母と子を一つの船に乗せて、百済に送った。

武寧王の墓誌
1971年にソウル南方125キロの公州市(かっての百済王都熊津)の発掘した宋山里古墳群から、墓誌に斯麻王の名が刻まれた墓誌が出てきて、この墳墓が斯麻王(武寧王)のもの

寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳癸卯年五月丙戊朔七日壬辰崩到

この文に書かれる癸卯年は523年にあたることが、推測できるのだ。この墓誌には斯麻王という「斯麻」という文字が使われていることに注目。「斯麻」は、日本語の「島」の音表記で、韓国語ではない。

大明六年(462年)安東将軍・倭国王 興 こう

宋書・倭国伝の世祖(第四代孝武帝454~464年在位)大明六年(462年)の条より
世祖は言う。 『倭王の世子(世継ぎ)興については、倭国が累代、我が国に忠であり、属国を外海に作り、状況変化にも国境を保持し、恭しく貢ぎを納めている辺地の仕事を新たに継いだ。よろしく、安東将軍・倭国王の称号を授けるべきである』と。興が死んで弟、武が立ち、自らを使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称した。

雄略七年(463年)吉備上道臣田狭を任那の国使とし妻の稚媛を奪う

 吉備上道臣田狭が、雄略の御殿の近くに侍っていて、さかんに、妻の稚媛について『天下の美人でも、俺の婦におよぶものはおるまい。にこやかで明るく輝き、きわだって愛らしい。化粧の必要もなく、久しい世にもたぐいまれな抜群の美女だ』と友に語った。天皇はこれに耳を傾けて、心中喜んだ。稚媛わかひめを求めて女御にしようと思われて、夫の田狭を任じて[任那の国使]とされた。それからしばらくして稚媛を天皇は召し入れた。田狭と稚媛の間には兄君と弟君の二人の子がいた。田狭は任那で天皇に妻を奪われたことを知り、敵対する新羅に援助を求めて接近した。
天皇は田狭臣の子である弟君と吉備海部直赤尾とに命じた。『あなたは、行って新羅を討て』と言われた。
その時、西漢才技こうちのあやのてひとがお傍にいて進み出『彼らよりもっと適任な者が韓国からくににはたくさんおります。召し出して使うべきです』と言った。
天皇は群臣に言われた。「それでは歓因知利を弟君らに添えて百済に遣わして書を下して優れた者を献上させよう」と。弟君は命を受けて、衆を率いて百済に行った。そこの国つ神が老女に化けて道に現れた。弟君はこの先が長いか短いかを尋ねた。老女は答えて言った。「もう一日・・・(江戸時代中期の書紀研究書である日本書紀通証に一月とある)・もう一月歩いて、やっと着くでしょう」弟君は道が遠いと思い新羅を討たずに帰った。
戻った弟君は、百済から提供された新来の工人とともに百済もよりの大島に集めて風待ちという理由をつけて長く逗留すること幾月にも及んだ。

任那の国司、田狭は子の弟君が新羅を討とうとせずに戻ったことを喜んで、任那から百済近辺の大島に秘かに使いを出した。そして伝えた。

「お前の親方は何の理由があって私を討つのだろうか。伝え聞けば、天皇は私の妻を奪って、すでに子供を作ったという。今に禍が身に及ぶ事は明らかだ。わが子たるお前は百済に留まって日本に帰るな。自分も任那に留まって日本に帰らない」

弟君の妻の樟姫は国を思う心が強く、君臣の義を重んじた。そこで、夫の謀叛の心を憎んで、ついには夫を殺し、寝室の中に隠し埋めたあと、海部直赤尾と共に、百済が提供した手先仕事の工人を率いて大島に滞在した。天皇は弟君が亡くなった事を知って、二人の従者を使わして、新羅討伐を実行するよう命じた。

その翌年、雄略天皇八年(464年)二月に身狭村主青・檜隅民使博徳を呉国(宋国)に遣わした。雄略天皇が位に着かれてから、この年に至るまで、新羅がそむいて貢ぎを奉らないこと八年に及んだ。しかるに天皇の心を恐れて高句麗と親しくするようになった。これによって高句麗の王は精兵百人を送って新羅を守らせた。
しばらくのあと、高句麗の軍士の一人が少しのあいだ国に帰った。この時に新羅人をもって馬飼(馬係)とした。国に向かう途上で高句麗軍士が秘かに言った。『お前の国が、我が国に破られることは遠い日のことではあるまい』と。馬飼はそれを聞いて、偽って腹を病むふりをして、主人にわざと遅れて、ついには国に逃げ帰って、軍士が言ったことを伝えた。ここに新羅の王は、高句麗が新羅併合の意図を隠しながら、新羅を守っていることを知り、使いを走らせて国人に告げて言った。

『人よ家内に養う鶏の雄鶏を殺せ』と。(新羅語の鶏を意味する発音タークが高句麗の軍隊を意味する高句麗語ターに似ているのである。つまり高句麗兵を殺せと暗喩しているのだ)国人はその意を知り、国中にいる高句麗人をことごとく殺した。

ここに生き残った高句麗人が一人いた。隙を見て新羅から逃れることが出来て、高句麗に逃げ帰り事細かく報告した。高句麗の王は、その伝聞により軍兵を発動させて築足流城つくそくのさし(今の大邸か)に兵を集めたて歌い舞い、楽を奏して騒いだ。

新羅の王は高句麗の兵が四面に歌い舞うのを聞いて、高句麗の兵の全てが新羅の国に入った事を知った。それで、人を任那の王のもとに使わして言った。

『高句麗の王が我が国を討とうとしている。今や新羅はつるされた軍旗のように高句麗によって思いのまま打ち振られ、国が危ういことは積み重ねた卵の様です。このさき私どもの命の長さ短さは考えることも出来ません。伏して、救援を日本府(日本国の韓地の拠点)の将軍にお願いしたい』と。


雄略七年(四六三)吉備田狭を「任那国司」に飛ばした。

八年(四六四)二月、新羅が高句麗に攻められ、任那王に助けを求めた「伏して日本府行軍元帥等に救いを請うた」とある。

そこで「任那王」は膳臣斑鳩、吉傭臣小梨、難波吉士赤目子を勧めて新羅を救わしめた、とある。

「任那王」と将軍達は組織上も場所的にも別の存在であって、将軍達はおそらく「日本府」(安羅にあったか)にいて武力を司っていたであろうし、「任那」は高霊伽耶のこととしてよかろう。日本府には隣国からも頼りにされるような強力な軍隊がいたことになる。

475年 高句麗長寿王、百済の漢城を陥落させ、百済蓋鹵王を殺す

百済王権が、475年、崩壊すると、高霊を中心に加羅諸国は 「大加耶連盟(加耶国)」 の結成を試み、479年、加羅王:荷知 は南斉に遣使した

475年、高句麗:長寿王 の攻撃で百済の都 「漢城」 が陥落した。

順帝の昇明二年(478年)、倭王武は使いを遣わして表奉

順帝の昇明二年(478年)、倭王武は使いを遣わして表(文書)を奉った。いわく
『我が国は遠く隔たった辺境にありますが、藩(臣従した諸侯の国)を外国に作っております。古くは先祖自ら甲冑を着て山川を渡り歩き、安らぐ時もありませんでした。東は毛人アイヌ五十五国を征し、西は衆夷しゅうい(筑紫の熊襲くまそ隼人はやと)を服すること六十六国、海(内海?)を渡って海北を平らげること九十五国、王道はむつまじく平安であり、開墾し畿(都周囲)を遙かに致しました。代々中国に朝貢し、朝貢するに年を飛ばすなどという事もありませんでした。臣(倭王武)は愚かではありますが、かたじけないことに先代の事業を引継ぎ、統べるべき所は駆り立てて朝貢のための船をもやい整え港を百済に整備しました。ところが高句麗は無道で奪う事を計り、近辺の庶民をかすめ取り、殺して止むことがありません。それで朝貢は滞り、良い風をとらえ損ない、航路に進んでも、目的地に到達したりしなかったりしました。臣の亡父、済は高句麗が天朝への道を閉じ妨げるのを怒り、弓兵百万が正義の声に揺り動かされるをもって、高句麗を攻めようとしましたが、にわかに父兄を失い、功を立てることは失敗に終わりました。倭国はその後ながらく喪中にあり事の実行に移せませんでしたが、今やっと、甲冑と兵を整え、父の意志を遂げたいと思います。(後略)』」

この時期、新羅本紀によれば五年に一度くらい倭は新羅を侵略している。書紀によれば478年は雄略天皇22年にあたる。翌年の23年雄略天皇は四月に亡くなった百済文斤王もんこんおうの跡継ぎとして大和国に人質となっている百済王弟の五人の子の二番目未多王またおうを筑紫の兵士五百人を護衛として百済に送り出している。しかし七月には雄略天皇は病気になり八月には亡くなった。百済本紀には428年から608年のあいだ一切の記事は全くない。


477年 興没し、弟の武立つ。武は自称『使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓七国諸軍事安東大将軍倭国王』と名乗った。 宋書

雄略二十一年(四七七)百済が高麗に攻められて都を熊津に移す
三月の注に、

日本旧記云、以二久麻那利一賜二末多王一。蓋是誤也。久麻那利者、任那国下哆唎県之別邑也。

とあるのは、百済が高麗に攻められて都を熊津、すなわち「久麻那利」に移したという「久麻那利」と、任那の地にあった熊川これも「久麻那利」といったので、混同したことを言っているのである。
熊川は今の慶尚南道昌原郡熊川面の地で、広義の任那の域内に一人る。

478年 倭王武は、宋順帝に称号を求めた。宋順帝は倭王武を『遣持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王』とした。 宋書
479年 南斉の高帝、王朝樹立にともない倭王武に『鎮東大将軍』の称号を贈った。 南斉書

雄略23年(479年)4月条 百済文斤王が亡くなる

百済文斤王、薨みうせぬ(亡くなった)。天王は昆支王の五の子の中に第二にあたる末多王またおうが若いのに聡明なので、命じて内裏に呼び寄せた。天王自ら末多王の頭を撫でて、丁寧に百済王たるべき事を述べた。よって兵器を授けて、合わせて筑紫の軍士五百人を遣わして百済の国に守りて送らせた。これをもって東城王とす。

武寧王が『東城王の第二子』であるのなら、せっかく子供を孕んだ婦を弟にあげて、日本に送るわけがないが?書紀によれば王の親とする昆支は、日本に定住してある氏族の祖となっている、一方、百済本紀によれば百済にもどっているのだ。恐らく百済王族の全滅が、武寧王とその父などの帰国の原因なのではある

顕宗三年(四八七)二月 阿閉臣事代が任那に行く

阿閉臣事代銜レ命、出二使于任那一於レ是、月神著レ人謂之曰、我祖高皇産霊、有レ預下鎔二造天地一之功上。宜下以二民地一、奉中我月神上。若依レ請献レ我、当福慶。事代由レ是、還レ京具奏。奉以二歌荒樔田一。歌荒樔田、在山瀬国葛野郡也壹伎県主先祖押見宿禰侍レ祠。

阿閉臣事代が使者として行ったのが任那であり、そこで高皇産霊や月神が現れるのは何を意味するか。「高天原」が「高霊伽耶」??

顕宗三年(四八七)是歳  紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した

紀生磐宿弥、跨二據任那一、交二通高麗一。将三西王二三韓一、整二脩官府一、自称二神聖一。用二任那左魯、那奇地甲背等計一、殺二百済適莫尓解於尓林一。尓林高麓地也築二帯山城一、距二守東道一、断二運レ粮津一、令二軍飢困一。百済王大怒、遣二領軍古尓解、内頭莫古解等一、率レ衆趣二于帯山一攻。於レ是、生磐宿弥、進レ軍逆撃、膽気益壮、所レ向皆破。以レ一当レ百。俄而兵尽力竭。知二事不一レ済、自二任那一帰。由レ是、百済国殺二佐魯、那奇他甲背等三百余人一。

阿閉臣事代は命をうけ、使いとして任那に行った。この年、紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した。任那の左魯・那奇他甲背らの計を用いて百済の適莫爾解を爾林で殺した。百済王は怒り、帯山に出向き攻めた。紀生磐はことのならないのを知り任那から帰った。百済国は任那の左魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した

という事件が任那をめぐって起きた。これには新羅が入っていないから「西三韓」とは高句麗・百済・任那のことかと思われ、とすればこの「任那」は高霊伽耶を中心としていると考えるべきであり、「帯山城」がどこであったかがきめ手になるが、これは鮎貝氏以下によれば、全羅北道井邑郡泰仁の地だという。この「任那」を田中氏は「安羅」としているが賛成し難い。

501年から554年の間、百済と高句麗は13回交戦した(慢性的な戦争状態)。

502年 梁の武帝、王朝樹立に際し、倭王武に征東大将軍の称号を贈る

継体三年(五〇九)二月 任那の日本県邑

「在任那日本県邑百済百姓」という語が見える。これも百済から移住してきた百姓のいる「日本県邑」ということであるから、高霊伽耶がふさわしく、いわば「移民地区」の様なものがあったかと思わせる。それと前に示した「任那国司」とはおそらく関係があるのであろう。

継体六年(五一二)十二月 百済が哆唎国守穂積押山に働きかけ4県合併を願う

6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。

百済が任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を自分の国に併合する様、哆唎国守穂積臣押山に働きかけて日本の天皇に申し入れてきて大伴金村も同調し、物部大連麁鹿火を以って勅宣を使者に下そう(つまり許可しよう)とした。これに対して物部大連の妻がいさめて、

夫住吉大神、初以二海表金銀之国、高麗・百済・新羅・任那等一、授二記胎中譽田天皇一。故大后息長足姫尊、与二大臣武内宿祢一、毎レ国初置二官家一、為二海表之蕃屏一、其来尚矣。

ゆえにその地を百済に譲ってはならぬと言ったとある。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った

倭が百済の南進を公認したことは任那にとって大打撃であった。

翌年(五一三)百済はさらに、己汶・滞沙の地を要求し、認められる。

同時に任那の一国である伴跛国も申し出たがこれは不許可になった。これらのことにより、任那は憤激して倭から離れ、伴跛国は東西で暴れるという事件が起きる。伴跛は星山伽耶のこととする通説と、「高霊」中の一地域とする説とがある。(百済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。)

百済王権が、475年、崩壊すると、高霊を中心に加羅諸国は 「大加耶連盟(加耶国)」 の結成を試み、479年、加羅王:荷知 は南斉に遣使した。百済:武寧王が全羅南道 に進出すると、522年、「大加耶連盟」 は新羅と同盟した。

継体二十一年(五二七)近江毛野臣が六万の兵を率いて「任那」に

近江毛野臣が六万の兵を率いて「任那」に往き、新羅に破られた「南加羅<ありひしのから>、喙己呑<とくことん>」を復興し任那に合併しようとした。ところが筑紫の国造磐井が叛乱を起して毛野臣は進むことができなかったので天皇は大伴大連金村、物部大連麁鹿火、許勢大臣男人等を遣すことになった。この大伴金村・物部麁鹿火は親百済派であるから、ここでは「南加羅<ありひしのから>」「喙己呑」などが新羅に破られたのを百済の力を借りて復興させようというのは首肯できる。

継体天皇は自らマサカリを取って大連に授けて『長門ながと(山口県)より東は朕が支配する。筑紫より西は汝が支配せよ。賞罰は汝にまかせる。しきりに、そのことを奏上する事に煩わされることはない』と言った。
22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。

23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。

継体二十三年(五二九)加羅多沙津を百済へ与える

「加羅多沙津」を百済に与えている。そこは「加羅」にとっても重要な海港であったので、「加羅」の憤激をまねく。

於是、加羅王謂二勅使一云、此津、従レ置二官家一以来、為二臣朝貢津渉一。安得三輙改賜二隣国一。違二元所レ封限地一。

と抗議をし、「加羅」は倭を離れて新羅に近づくことになり、「加羅王」は「新羅王女」を娶ることになる。

由レ是、加羅結二儻新羅一、生二怨日本一。加羅王娶二新羅王女一、遂有二児息一。新羅初送レ女時、并遣二百人一、為二女従一。受而散二置諸県一、令レ着二新羅衣冠一。珂利斯等、嗔二其変一レ服、遣レ使徴還。新羅大差、飜欲レ還レ女曰、前承二汝聘一、吾便許レ婚。今既若レ斯、請、還二王女一。加羅己富利知伽未詳、報云、配二合夫婦一、安得二更離一。亦有二息児一、棄レ之何往。

つまり、新羅から王女についてきた百人の従者を諸県に散置して新羅の衣冠を着させた。これを知って「阿利斯等」が嗔り、その新羅人をめし集めて新羅に返した。そこで新羅は、「お前の方から結婚を申し込んできたので許したのだ。そんなら女を返せ」といってきた。これに対して、加羅の「己富利知伽」が答えるのに、「夫婦となり、子供までできたのに、どうしてそんなことができようか」といったというのである。この「己富利知伽」は「郡の長」の意であろうから、この「伽羅」の有力な重臣の一人であり、新羅に対して「伽羅」を代表して返答をしているのである。

この「阿利斯等」が誰か。その時日本府にいた、後の「火葦北郡刑部靫部阿利斯等」であろう

すなわち、『紀』の次の四月の条に、

任那王己能末多干岐来朝。言二己能末多一者蓋阿利斯等也

とある。この「己能末多<このまた>」は「巳能末多<いのまた>」の誤りであったろうとし、『新増東国輿地勝覧』「高霊県」に引く「釈順応伝」に

大伽耶国月光太子、乃正見之十世孫。父曰二異脳王一、求二婚于新羅一迎二夷粲比枝輩之女一、而生二太子一。

とあるのによって、「異脳王」が新羅より「夷粲比枝輩之女」を迎えたのだとする説は十分妥当性がある。それは、丁度これに符合する記事が『三国史記』新羅法興王九年(五二二)春三月に、

加耶国王遣使請レ婚。王以二伊★(左:冫/右:食)比助夫之妹一送レ之。
とあるからである。ただしこの女性を前者では「夷粲比枝輩之女」とし、後者では「伊★(左:冫/右:食)比助夫之妹」としているが、「夷粲」は新羅の第二等の位階で「伊★(左:冫/右:食)」と書くのが普通であり、あるいは王族であったかも知れない。
また、「比枝輩」と「比助夫」とはp-s-pという者の類似から同一人かと思われるが、「女<むすめ>」と「妹」との違いを強く見れば「比枝輩」は「比助夫」の父であるかもしれない。

「己能末多と言へるは、蓋し阿利斯等なり」という注の文。

『欽明紀』「二年秋七月」に、
継体天皇二十三年(五二九)に日本の政府は「己能末多」を「任那」に送り、あわせて「任那」にある近江毛野臣に詔したとあるから、この任那はおそらく高霊加耶をさしており、ここを拠点として「金官伽耶」など三国の復興を計ろうとしたのである。しかし新羅は上臣伊叱夫礼智干岐を遣して3千の兵をもって毛野臣を威圧せんとしたので、毛野臣は会おうとしなかった。新羅の上臣は、金官・背伐・安多・委陀(一本に,多多羅・須那羅・和多・費智の四村という)を抄掠してことごとく人間をつれ去って新羅に帰った。とく

日本は近江の毛野臣を半島に派遣したのであるが、それは南韓の南加羅・★(左:口/右:碌のつくり)己呑・卓淳を再建するためであった。ということはおそらくこの三国は再度の新羅の蹂躙にあって、ほとんど壊滅的打撃を受けていたからであろう。(実際に金官国が消滅したのは新羅法興王一九年(五三二)のことである)

24年〔530〕9月、任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」

調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を遣って毛野臣を召した。毛野臣は召されて対馬に到ったが病にあって死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが贈った歌にいう。

韓国を いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る

『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞乇城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。

また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。

531年 英彦山の開山

英彦山に関する最も古い縁起とされる『彦山流記』は、奥付に「建保元年癸酉七月八日」とあり建保元年(一二一三年)頃の成立と見られています。同書のこの記事は当山の開基を九州年号の教到年(五三一~五三五)としているのです。また同書写本の末尾には「当山之立始教到元年辛亥」と記されており、教到元年(五三一)の開山とあります

530 継体24 毛野、失政。帰国命令に従わず、安羅王を連れて籠城。王、百済・新羅に引出を依頼。安羅王は百済に安羅への侵攻の口実を与えてしい、結局、安羅は新羅・百済により蹂躙された。

531 継体25 近江毛野 帰国途上対馬で病死。

継体二十五年二月 継体天皇が亡くなる。3年の謎かけ

継体天皇二十五年二月天皇は病やまいが重い。この月の七日に天皇は磐余玉穂宮いわれたまほのみやに崩かあむあがりなされた。(ある本に曰く、天皇は二十八年に崩りなされたと。そうであるのにここで二十五年に崩りなされたと書くのは百済本紀をもとに文を作ったからである。百済本紀によれば、辛亥かのといの年三月百済軍は進軍し、任那の一国、安羅あらに到達して乞乇城こっとくのさしを造った。この月に高句麗はその王の安を殺した。この年『日本の天皇及び太子・皇子ともに崩りなされた』。辛亥かのといのとしは、継体天皇二十五年にあたるから、継体天皇の没年は継体二十五年と訂正したのである。この事の真偽はのちに考える者が明らかにするであろう。  」

ここにいう百済本紀とは、今に残る三国史記中の百済本紀ではなく、現存しない、百済本紀古記とでも呼ぶべきもの。これに従って531年としたが、534年が真実かとも言う。継体天皇崩と安閑天皇即位の間に満三年の空白がある。

(新羅・法興王)十九年〔532〕、金官国主の金仇亥が妃及び三子、長曰奴宗・仲曰武德・季曰武力と、国の宝物をもって来降した。王は礼をもって待遇し、上等の位を授けた。本国をもって食邑とし、子の武力は角干の位にのぼった。

534 安閑元 南武蔵の豪族上毛野君が反乱。鶴見川・大岡川・雉子川流域の豪族。杉山神社多い

安閑天皇元年(534)に「武蔵国造の乱」
北武蔵と南武蔵との争いがあった。武蔵国の国造権をめぐってのものである。北武蔵の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は中央の倭王国に、南武蔵の小杵(おぎ)は上毛野国の小熊(おぐま)に援助を求めたために、倭王国と東の強国・上毛野(かみつけぬ)国との争いに転化した。倭王国は使主を国造に任命し、小杵を誅殺させる。5世紀後半に太田天神山古墳など巨大古墳を誇っていた上毛野国の古墳が小規模になり、武蔵国では南武蔵の勢力が衰弱したかに見えるのを、この「武蔵国造の乱」の結果と看做す考えがある。

安閑元年〔534〕5月、百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、いつもの調を貢上した。

安閑天皇二年(535年)五月九日屯倉を置く。

  •  筑紫の穂波屯倉ほなみのみやけ(福岡県穂波郡穂波町)
  •  筑紫の鎌屯倉かまのみやけ(福岡県嘉穂郡)
  •  豊国の腠碕屯倉みさきのみやけ(福岡県北九州市門司または大分県国東半島か)
  •  豊国の桑原屯倉くわはらのみやけ(福岡県八女郡または福岡県築上郡または福岡県田川郡桑原)
  •  豊国の肝等屯倉かんとのみやけ(福岡県京都郡苅田町)
  •  豊国の大抜屯倉おおぬくのみやけ(福岡県北九州市小倉区か)
  •  豊国の我鹿屯倉あかのみやけ(福岡県田川郡赤村)
  •  火国の春日部屯倉かすかべのみやけ(熊本県熊本市国府付近か)

・・・省略、このほかに、兵庫に二カ所・岡山県一カ所・広島県七カ所・徳島県一カ所・和歌山県一カ所などがあげられているんだ。これらの設置は、磐井の平定によって可能となったという説がある

新羅年号:536年。六世紀の半ば~七世紀半ば。『三国史記』に、新羅の年号。白村江前夜、新羅は唐に接近。唐の太宗は新羅の真徳王が「太和」という年号を建てていたのに対し、「新羅は大朝(唐)に臣事す。何を以て別に年號を稱する。」と難詰。新羅は「年号廃止」を誓う。 十二世紀頃『三国史記』を作った著者としての意見:「我々は中国の天子の恩恵のもとに国を維持しているのに、年号を作るというのは実にけしからんことであった。」後の高麗の学者が自分の昔の国、新羅に対してまだ怒っている。

宣化紀二年(五三七)

天皇、以三新羅寇二於任那一、詔二大伴金村大連一、遣二其子磐与狭手彦一、以助二任那一。是時、磐留二筑紫一、執二其国政一、以備二三韓一。狭手彦往鎮二任那一、加救二百済一。

新羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じて、磐と狭手彦を派遣し任那を助けた。磐は筑紫に留まり三韓に備え、狭手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。

この時はもう金官およびその近辺の伽羅は滅亡しており、伽羅の国でなお残っていたのは、安羅および任耶(すなわち高霊加耶を中心とする若干の国)で、その他の国は東は新羅に、西は百済に侵略されていたのである。
元年〔540〕8月、高麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。

欽明元年(五四〇)

大伴金村が「自分は任那を滅したと言われている」として朝廷に出なかったということがあったが、けだしこれまでの金村の行状からみれば世評は当を得たものであろう。

欽明二年(五四一)以後、いわゆる百済聖明王の「任那復興会議」なるものが提唱され、「任那日本府」「安羅日本府」なるものが出てくる。これらは百済側の資料が多いのでそれだけをそのまま鵜呑みにすることは注意を要する。

欽明天皇二年(五四一)四月

百済は、「安羅」「加羅」「散半奚」「多羅」「斯二岐」「子他」の早岐と「任那日本府吉備臣」とを集めて日本天皇の詔書を聴かせており、そのことを「百済の聖明王任那の早岐等に謂ひて言はく」と書き、その聖明王の言に対して、「任那の早岐等対へて曰はく」と書いている。

ついで百済王の檄文が載っているが、この中の「任那」の指す意は右述のものと同じでよいと思う、またこの文中に、

遣二下部中佐平麻鹵、城方甲背昧奴等一、赴二加羅一、会二于任那日本府一、相盟。

という文があるが、これによると「加羅」とは「任郡加羅」を指している様であり「任那」とは加羅諸国全体を指している様である。(『欽明紀』「三月」には「任那之国」という語も見える。)そしてこの文意による限り、百済と協力して、任那をもとの姿に復建しよう。新羅に滅ぼされた三国はそれぞれにその原因があるのであってその轍を踏んではいけないと言っているのである。

ところが、当時の安羅日本府は親新羅派が大勢を占めていたらしく、百済には気に入らず、よって安羅日本府から邪魔物を追い出そうと計っているのが同年七月に見える長文の記事である。
2年〔541〕4月、安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に行き、詔書を聴いた。百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること、また、今新羅にだまされたのは自分の過ちであり、それを悔いて下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴らを加羅に派遣し、任那日本府と会い任那を建てることを誓いあったこと、[口彔]己呑や南加羅が取られたのは新羅が強かったからではなく、皆で力を合わせれば必ず任那は復興できることを説いた。7月、百済は安羅日本府と新羅が通じていると聞き、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙らを安羅に派遣し、安羅日本府の河内直が新羅と通じていたことを責めた。そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔からの関係、新羅への警戒などについて語り、百済にしたがい天皇の勅を聴き、任那を立てるようにいった。聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉を真に受けて任那を滅ぼし、天皇を辱めるのを恐れるといった。百済が紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連を派遣し、下韓・任那の情勢を報告した。

4年〔543〕9月、百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳麻奇牟らを派遣して、扶南の財物と奴二口を献上した。11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令城主を日本府に附けるように、また、任那を早く建てるようにいった。12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に聴いた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らは協議して、任那の執事、国々の旱岐らを呼んで協議するのが善策であり、河内直・移那斯・麻都らが安羅に住んでいたのでは任那を建てるのは難しい、と答えた。この月、百済は任那と日本府の執事を呼んだが、ともに元旦が過ぎてから行くと答えた。

5年〔544〕正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに祭が終わってから行くと答えた。百済はさらに遣使し、任那と日本府の執事を呼んだが、ともに身分の低いものが来たので、任那を建てる協議ができなかった。2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那に派遣し、日本府と任那の旱岐らに、日本府・任那の執事を三回召集したが来なかったので、任那の政を図り天皇に申し上げることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣勅を聴くように、といった。また別に、河内直・移那斯・麻都と河内直の先祖である那干陀甲背・加獵直岐甲背の悪行を責めた。これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って勅を聴くようにといわれており、百済に行かなかったのは任那の意向ではない、といった。3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを派遣し、阿賢移那斯・佐魯麻都が安羅にいると任那を建てるのは難しいこと、的臣らが天朝を欺いたこと、佐魯麻都は新羅の奈麻礼の冠をつけていること、[口彔]国と卓淳国が滅んだのは内応や二心が原因であることなどを上申した。10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。

『欽明紀』五年(五四四)三月

百済が盛んに任那再建の大義名分を得ようとし、日本政府に使を遣したり、任那日本府や任那の執事におどしをかけたりしている。ことにその障害となっている安羅日本府の日本人や韓腹の者を親新羅派だとして日本や本貫の地へ戻させようとしているのである。

このあたりの記事に「任那日本府」「安羅日本府」(『欽明紀』「二年秋七月」)の二つの名が出るので、この二つは同じものか別のものか間題になるが、これは同一のものとしてよいであろう。というのは『欽明紀』「二年夏四月」に百済聖明王の招集に応じて任那日本府の代表として出ていった「吉備朝臣」の名が左の如く同年同月の『紀』にのせる百済王の天皇宛文書に、

今的臣・吉備臣・河内直等、威従二移那斯・麻都指撝一而巳。移那斯・麻都、雖二是小家微者一、専壇二日本府之政一。又制二任那一、障而勿レ遣。

とあり、他の人々と共に安羅日本府にいたらしく思われるからである。右の人々の中、「的臣」は

日本府百済本記云、遣二召鳥胡跛臣一蓋是敵臣也与二任那一。倶対言…(『欽明紀』五年三月)

とあるのによって、任那日本府の日本人であったらしく「河内直」「移那斯」「麻都」は、

河内直・移那斯・麻都等、猶住二安羅一、任那恐難レ建之。故亦并表、乞移二本処一也。
(『欽明紀』四年十二月)

とある(その文の直後にもう一か所同趣旨の文がある)ごとく、百済王から極端に忌避されていた当時の安羅日本府の実力者(かつて『応神紀』に記されていた「木満致」のごとき者か)で、任那の政治をも左右していたらしいのである。よって吉備臣のいた任那日本府は、安羅日本府と同じものであったことが判る。思うに、「安羅」はその所在地、「任那」は、伽羅諸国を統合した政治的名称であったのであろう。

なお、当時「任那日本府」の勢力は「任那」全体(勿論、新羅に侵略された三国は除一)に及んでいたらしく、そのことを示すよい例は、『欽明紀』「五月二日」に、百済聖明王が、任那日本府と任那諸早支に日本天皇の詔勅を得たとして召集を呼び掛けたのに一向に集まろうとしなかったのに対し、聖明王が激しい非難のことばを浴びせたが、それに対する日本府の答えは次の様な冷然たるものであった。

任那執事、不レ赴レ召者、是由二吾不一レ遣、不レ得レ往之。(中略。日本天皇はかえって新羅へ行って天皇の勅を聴けといっており、百済には、百済が占拠している下韓の地を出る様にといっているということが書いてある)故不レ往焉、非二任那意一。於レ是、任那旱岐等曰、由二使来召一、便欲二往参一。日本府卿、不レ肯二発遣一。故不レ往焉。(下略)

つまり当時「任那」の動向はもっぱら、「任那日本府」の意向に左右されていたのである。そして日本政府は百済も全面的には信用してはいなかったのである。また「任那旱岐ら」が「行きたかったのだが日本府のお偉ら方が承知しなかったので行かなかったのです」というのは、本心か、単なる言いわけ。

『欽明紀』五年(五四四)十一月

百済聖明王は再び日本天皇の詔書なるものを示して「任那」再建を議するために、「日本府臣」「任那執事」「安羅」「加羅」「卒麻」「斯二岐」「散半奚」「多羅」「子他」「久嗟」それぞれの重臣といってもよい人々を招集した。そこで三策を示したが、そこに出席した吉備臣は「帰って日本大臣、安羅王、加羅王に計ろう」といった。

日本大臣謂下在二任那一即日本府之大臣上他

とあるので、任那日本府には「大臣」というべき「長官」がいたのである。前出の「的臣」か。さてここに「任那」の八国が揃ったのであるが、それならば「任那執事」とは何者であろうか。それは文脈から判断すれば、

日本府臣=吉備臣

任那執事=諸国の早岐および君たち

となるから、任那諸国の政府責任者ということになろう。

ところが、ここで百済王が示した任那復興の三大策の第三策に、

又吉備臣・河内直・移那斯・麻都、猶在二任那国一者、天皇雖レ詔レ建二成任那一、不レ可レ得也。請、移二此四人一、各遣二還其本邑一。

というのがあるが、その排除の四人の中に入っている吉備臣が、その案を結構です(「愚情に協ふ」)といって承って引下っている。

その結果どういうことになったかよくわからないうちに、百済と高句麗との間に火急の紛擾が起きた。

百済は施德馬武・施德高分屋・施德斯那奴次酒らを任那に遣使して、日本府と任那の旱岐らに語って、・・・津守連が日本に来て【百済本記はいう、津守連己麻奴跪。しかし語がなまって正しくない。】・・・日本府・任那の執事を三回召集したが来なかったので、ともに任那の政を図り天皇に奏し奉ることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣するところの詔を聴くように、といった。
別に河内直【百済本記はいう。河内直・移那斯・麻都。語が訛って正しい語は未詳】に、「昔から今まで、おまえの悪を聞く。おまえの先祖ら【百済本記はいう。那干陀甲背・加獵直岐甲背。または、那奇陀甲背・鷹奇岐彌。語が訛り未詳。】は、皆よこしまで偽りをもって誘い説いた。哥可君【百済本記はいう。哥岐彌、名は有非岐。】はそれを信じ国難を心配しなかった。任那が日に日に損なわれているのはおまえのせいだ。天皇におまえたちを本拠に還すようお願いする」といった。
日本府が答えて、「任那の執事が行かなかったのはわたしが遣わさなかったからで、自分から新羅・百済にいってはならない、という宣勅によるものであり、印奇臣が新羅にいくと聞き、天皇の宣するところを問うと、日本の臣と任那の執事は新羅に行って天皇の勅を聴けということだった。またここを津守連が通って言うには、下韓にある百済の郡令城主を撤退させるために行く、ということだけだった。だから行かなかったのは任那の意向ではない」といった。
3月
百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを遣わし、上表していった。(これまでの任那と日本府の行動・態度・状況について。[口彔]国や卓淳国が滅んだのは、内応や二心によるものであり、任那が滅びるのを防ぐためには、移那斯・麻都を召還することである、という百済聖明王の天皇へのお願い。)(使いを遣って日本府【百済本記はいう、烏胡跛を遣り召す。たぶん的臣である。】と任那を召す。)(【百済本記はいう、安羅をもって父と為し、日本府をもって本と為す。】)(印支彌の後に来た許勢臣の時で【百済本記はいう、私が印支彌を留めた後の既酒臣の時、詳しいことはわからない。】)
11月
百済は遣使し、日本府の臣、任那の執事を召して、百済に来て勅を聞くようにいった。日本の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚、卒麻の君、斯二岐の君、散半奚の君の子、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐が百済に赴いた。百済王聖明は詔書を示して、どのようにしたら任那を建てることができるか、謀を訊いた。吉備臣、任那の旱岐らは、任那を建てるのは大王にかかっている、大王に従いたい、といった。聖明王は三つの策を示した。
①新羅と安羅の境に大川がある。その地に拠って六城を修復し、天皇に三千の兵士を請う。②南韓は北敵の防衛と新羅を攻めるのに必要である。郡令城主は引続き置く。③吉備臣、河内直、移那斯、麻都が任那にいたのでは任那を建てることはできない。本邑に還るよう天皇にお願いする。吉備臣や旱岐らは、三策は心にかなうものなので、日本の大臣、安羅王、加羅王に諮りともに遣使して奏しよう、と言った。

7年〔546〕6月、百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年、高麗に大乱があり、二千余人が戦死した。

8年〔547〕4月、百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞うた。

9年〔548〕正月、百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送るからすみやかに王に報告するようにといった。4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と日本府が高麗と通じ百済を伐とうとしたことがわかったので、しばらくの間救兵を停止してもらいたいといってきた。6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、といった。10月、370人を百済に派遣し、得爾辛に城を築くのを助けた。

10年〔549〕6月、将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が高麗に遣使したことの虚実を調査し、救兵は停止する、といった。『欽明紀』「八年(五四七)夏四月」によれば「救軍を乞ふ」とあるが、実はその前々年(五四五)に、「欽明紀」に

是年、高麗大乱、被二誅殺一君衆。百済本紀云、十二月甲午、高麗国細詳与二麁群一、戦二于宮門一。伐レ鼓戦闘。細群敗不レ解レ兵三日。尽捕二誅細群子孫一。戊戌、狛国香岡上王麁也。

とあり、次の七年(五四六)には、

是歳、高麗大乱。凡闘死者二千余。百済本紀云、高麗、以二正月丙午一、立二中夫人子一為レ王。年八歳。狛王有二三夫人一。正夫人無レ子。中夫人生二世子一。逸舅群也。小夫人生レ子。其舅氏細群也。及二狛王疾篤一、細群麁群一、各欲レ立二其夫人の子一。故詳死者二千余人也。

とある。この事件については『三国史記』「麗紀」には何も記するところは無い。

『紀』および『三国史記』の伝えるところでは、五四八年、高句麗が百済の独山域(末松氏は、これを『紀』に言うところの「馬津城」であるとされる。)を攻め、百済は新羅の将軍朱珍の援けを得て麗兵を破ったことになっている。百済は日本政府に対しては散々に新羅の悪口を言いながら、いざとなると新羅の助けを借りるという巧妙な外交戦術を使っていたわけである。そして『紀』によれば、倭も任那もこれに参加する意向は示したが、結局は間に合わなかった様である。ところが、その戦いで捕虜になった高句麗の者の口から安羅国と日本府とが高句麗にけしかけたからだという噂がもれ、百済はこれを楯にとって、日本府から「延那斯」「麻那」を放逐することを日本政府に要望することがあった。これらの経過から見ると、いつも「日本府」と「安羅」とは協同した行動をとっており、任那諸国の中では安羅が日本府の後楯のあったせいか、一番に勢力もあり、活動的であった。

このことは『欽明紀』「五年(五四四)三月」の百済聖明王の檄文中にも、

夫任那者、以二安羅一為レ兄、唯従二其意一。安羅人者、以二日本府一為レ天、唯従二其意一。百済本記云、以二安羅一為レ父以二日本府一為レ本也。

とある。

11年〔550〕2月、百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、といった。4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖明は、任那のことは勅を固く守る、移那斯と麻都のことは勅に従うだけだといい、高麗奴六口、別に王人に奴一口を贈った。

広開土王以降・中国が五胡十六国の時代

551年、百済・新羅・加羅諸国の連合軍が、高句麗から、百済の旧王都の漢城地方を取り戻した。552年、新羅は一転して高句麗と連合し、百済から漢城地方を奪った。百済・加羅(ここでは大加羅国の意)・安羅は日本に救援軍の派遣を依頼した。

12年〔551〕3月、麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二国の兵(新羅・任那)を率い高麗を征伐し漢城を獲った。平壤を討ち旧領を回復した。

百済が新羅・任那と協力するという状勢は、五五一年までは続いたらしい。『欽明紀』「十二年(五五一)是歳」に、

百済聖明王、親率二衆及二国兵一、二国謂二新羅・任那一也。往伐二高麗雇一、獲二漢城之地一。又進レ軍討二平壌一。凡六郡之地、遂復二故地一。

とある。

ところが、その翌年になるとまた状勢が変ってきて、百済は、高句麗・新羅の連合に脅威を感ずる様になる。そして翌五五二年には、漢城と平壌とを放棄し、新羅が代ってそこに入った。百済は結局日本に援けを求めるより他に方途が無くなる。

『欽明紀』十三年(五五二)五月、百済・加羅・安羅が使を日本に遣して天皇に奏していう。

高麗与新羅、通レ和井レ勢、謀レ滅三臣国与二任那一。故謹求二請救兵一、先攻二不意一。軍之多小、随二天皇勅一。詔曰、今百済王・安羅王・加羅王、与二日本府臣等一、倶遣レ使奏状聞訖。亦宜下共二任那一、并レ心一上レ力。

ここでも「百済・安羅・加羅・日本府臣」は並記してあるが、その他の任那諸国は名前が出ていない。「よろしく任那と共に心を并せ力を一にせよ」とある。「任那」は、伽羅・安羅の他にあるべくも思われないから、これは百済に対しての詔と考えられる。

13年〔552〕5月、百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多らを派遣し、高麗と新羅が百済と任那を滅ぼそうと計画しているので、兵を出し不意を攻めるよう求めた。10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献上した。この年百済が漢城と平壤を棄て、新羅が漢城に入った。今の新羅の牛頭方・尼彌方である。

14年〔553〕正月、百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を乞うた。6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具を与えた。また医博士・易博士・暦博士を交替させ、卜書・暦本・種々の薬物を送付するようにいった。8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し、援軍の派遣(新羅と狛国が安羅を奪取し道を遮断しようとしている)、亡くなった的臣の代わりの派遣、そして弓馬を乞うた。10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。

『欽明紀』十四年(五五三)百済王子余昌が戦略を誤り、聖明王は新羅に捕えられて斬首される

百済から使が来て、言う。新羅と高句麗と通謀して言うことには、百済と任那とが共謀し日本の援助を得て新羅を討とうとしているから先制攻撃して安羅を取って日本からの補給路を絶とう、と言っている。状勢切迫しているから一刻も早く援軍を送れというのである。ついで矢の様な催促がくるが、百済としては、高句麗と新羅の両方から攻められて必死だったのである。しかし百済王子余昌が戦略を誤り、聖明王は新羅に捕えられて斬首され、百済は潰滅的敗戦となり、聖明王の策した「任那復興会議」は霧消してしまう。時に欽明十五年(五五四)である。

15年〔554〕正月、百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派遣して、内臣・佐伯連らに、この年の役は前よりも危ういので正月に間に合わせてほしい、といった。内臣は、すぐに援助軍一千、馬百匹、船四十隻を派遣する、といった。2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して救兵を乞うた。百済は、奈率東城子言に代えて徳率東城子莫古を送り、五経博士・僧を交替し、別に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を送った。5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え(狛と新羅が協力しているので有至臣軍だけでは足りない)竹斯島の兵士の派遣を要請し、百済は任那を助けにいく、事は急である、といった。

余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。

16年〔555〕2月、百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。

17年〔556〕正月、百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。

21年〔560〕9月、新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。

22年〔561〕、新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてなす儀礼が減っていたので、及伐干は怒り恨んで帰った。この年また、新羅が奴氐大舎を派遣して、前と同じ調賦を献上した。序列が百済の下だったので大舎は怒って還った。新羅は城を阿羅の波斯山に築き、日本に備えた。

欽明二十三年(五六二)正月  任那滅亡

23年〔562〕正月、新羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、21年に任那は滅んだとある。また総体を任那といい、個々の国は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国だとある。)7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。この月、大将軍紀男麻呂宿禰は兵を率いて哆唎を出て、副将河辺臣瓊岳は任那に行った。紀男麻呂は新羅を破り百済に入った。河辺臣瓊岳は戦事に通暁せず、新羅に撃破された。8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐った。狹手彦は百済の計をもって高麗を打ち破った。11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。

新羅打二滅任那官家一。一本云、廿一年、任那滅焉。總言任那、別言加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞★(左:冫/右:食)国・稔礼国、合十国。

とあるごとく、五六二年に任那は滅んだのである。

『三国史記』新羅真興王二十三年(五六三)に、

加耶叛。王命二異斯夫一討レ之。斯多含副レ之。斯多含領二五千騎一先馳二入栴檀門一、立二白旗一。城中恐懼不レ知レ所レ為。異斯夫引レ兵臨レ之、一時尽降。論功斯多含為レ最。王賞以二良田及所虜二万一。斯多含三譲。王強レ之。乃受二其先口一放為二良人一。田分二与戦士一国人美レ之。

とあるのと同じ件である。ここで「加耶」といっているのは、同眞興王の十二年(五五一)に「加耶国嘉悉王が干勒に十二曲を製せしめた」とか、法興王九年(五二二)に「加耶国王に伊★(左:冫/右:食)比助夫の妹を婚せしめた」とか、その十一年(五二四)に「王に加耶国王が来り会した」とかある様に、「高霊伽耶」のことと解してよいであろう。新羅からは、「加耶」(高霊伽那)「金官国」(金官伽耶)以外の伽耶は一つの国とは認めていないが如くであり、また「任那」という名称も見られない。これに対して『紀』の方では「任那官家」とあるごとく、調を取り立てるところにその存在意義を認めていた様である。

したがって、表面上は「任那」という国は消滅したに拘らず、『紀』にはその後も孝徳天皇大化二年(六四六)まで八十四年間、「任那の調」というものを新羅に請求する記事が見られる

その時代になっても「任那」の地は倭に調を貢進する習慣が継続しており、倭は、その地の統治権が新羅に移っても、それを要求できる権利、あるいは強制力を持っていたことになる。おそらく任都の調さえ貢進すれば新羅の任那統治を認めるという約束でもあったのであろう。新羅も倭と事を構えるよりは、というのでその約束を結んだと思われる。

31年〔570〕4月、高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は、山背国相楽郡に館を建て清め、厚くたすけ養うようにといった。
32年〔571〕3月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。

敏達びたつ元年(572年) 敏達天皇即位

四年(575年)六月 新羅は使いを遣わして多多羅たたら・須奈羅すなら・和陀わだ・発鬼ほちきの四つの村の調ちょうを進上した。(筆者註・新羅は任那併合後、この地の税と言える調を日本に納める義務を負っていたようである。この四つの村は継体二十三年(529年)四月条の一本あるほんに云わくに記されている、任那から新羅が占領し抜き取った村である。ここから考えると新羅は大和国との和のために、任那が引き続き日本領である形を取ったのだろう)

(敏達天皇)
2年〔573〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
3年〔574〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進調した。
4年〔575〕2月、百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの邑の調を進上した。
6年〔577〕5月、大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
8年〔579〕10月、新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
9年〔580〕6月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
11年〔582〕10月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
12年〔583〕7月、天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
13年〔584〕2月、難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
(崇峻天皇)

日本の修験道の始まりは、記録からも地理的条件からも九州東部、つまり豊前地方からであろうかと思える。最古の記録では記紀用明二年(587)、豊前宇佐出身の「豊国 法師」が朝廷に突然現れる。

元年〔588〕、百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、はじめて法興寺(※元興寺)をつくった。

聖徳太子14歳(書紀年齢)の時に用明天皇が病気になり、穴穂部皇子が病気平癒のため「豊国法師」を招き入れたことが『日本書紀』に書かれていますが、この頃は九州(豊国)を通じて仏教や隋の情報がある程度伝えられていたことが想像できます。 「法興元年」は、隋は開皇11年でその年に隋の文帝が「三宝紹隆」の詔を出して仏法の興隆を公に示した記念すべき年であり、聖徳太子が「法興」という年号を定めた時(たぶん法興寺落成時?)に、そこまで遡って「法興の年号」を制定したのではないでしょうか。 つまり、「法興」とは「法興寺の落成」を記念して定められた年号ではないでしょうか。

4年〔591〕8月、天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
(推古天皇)
5年〔597〕4月、百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
6年〔598〕8月、新羅が孔雀一羽を貢上した。
7年〔599〕9月、百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
8年〔600〕2月、新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。

600年 隋書に、倭王の阿毎多利思比狐阿輩雞弥、使いを遣わして隋都長安に詣でる

倭王の朝貢の際の聞き取りによって作成された考えられるから、記事の内容には真実性があろう

隋書
開皇(隋の初代文帝)二十年(600年)倭王あり。姓は阿毎あま、字あざは多利思比狐阿輩雞弥たりひほこおおきみと号す。使いを遣わして隋都長安に詣でる。帝は担当の司をもってその風俗を問わせた。使者が言う。『倭王は天をもって兄となし、日を以て弟とした。空がまだ暗いときに出でて座し下臣の奏上を聞き政治をなし、日出れば、勤めを止め、弟に委ねる』と。高祖が言うには『これはひどく理屈に合わないことだ』と。ここにおいて帝は教えてこれを改めさせた。王の妻は雞弥きみと号す。後宮に女、六、七百人あり。太子を名付けて利歌弥多弗利わかみとほり(田沼注・若いお世継ぎか?)とする。城郭はない。内官に十二等ある。・・・(中略)・・・気候は温暖で、草木は冬も青く、水が多く陸が少ない。阿蘇山がある。その石には理由もなく火がおこり、天に接する。

9年〔601〕3月、大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
10年〔602〕2月、来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
11年〔603〕4月、2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
13年〔605〕4月、高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。

推古十五年(607年)第一回遣隋使

七月三日 大礼だいらい(十二階の五位)、小野妹子おののいもこを大唐に遣つかわす。鞍作福利くらつくりのふくりを通事(通訳)とする。

日本書紀は簡単な記事である。

607年 倭国の王、多利思比比が朝貢する。

隋書
大業三年(607年)倭国の王、多利思比比が使いを遣わせて朝貢した。使者いわく「海西の菩薩ぼさつ天子が重ねて仏法を興すと聞いている。それで、使いを遣わすとともに僧尼数十人をして仏法を学ばせようとやってまいりました」と。
その使いの持ってきた国書に『日出ずる所の天子、日没するところの天子に書を送る。つつがはありませんか(平穏にお過ごしですか)云々』とあった。帝はこれを見て喜ばないで、外相に命じた。『野蛮国の書は無礼なところがある。ふたたび、この国の書を朕にあげて来るな』と言った。 」

608年 隋帝、裴清を倭国に使いをさせた。

隋書
大業四年(推古十六年・608年)隋帝は文林朗裴清を遣わして倭国に使いをさせた。百済を通り、竹島(注・韓国、南岸釜山沖の島か)に至り、南に済州島を望み、対馬国を経、遙か大海に浮かぶ。また東へ進み壱岐国に至り、また東に向かって秦王国(不詳)に至る。(中略)また十四国を経て海岸に達す。筑紫国より東はみな倭に附庸ふよう(宗主国にたいして従属すること)する。
倭王は小徳阿輩台を遣わし、数百人を従え、儀礼用の刀や槍をととのえ太鼓を打ち鳴らし角笛を吹きながら来て、迎えに出た。十日後、大礼哥多毗かたびを遣わし、二百余騎を従え郊外に出迎えた。すでに倭の都に入った。倭王は清と、対面し大変悦んで言った。
「私は海の西に非常に礼節の正しい国があると聞きました。それで使を遣わして朝貢ぎさせた。私は鄙ひなのもので、海の隅に偏在していて、礼儀を知らぬ者である。それで国内にとどまり、参上しなかったのだ。今、特別に道を清め館を飾り、太使をお待ちしておりました。できれば隋国の大国刷新のお話を聞かせてください」
清は答えた。「皇帝の徳は天地にならび、沢が四海に流れこむようです。王は進歩を愛するがゆえに、自分を遣わして、ここに伝えるのだ。その後、清を客館に連れて行って泊まらせた。その後、清は人を使わして倭王に言った。「帝が私に下した命は果たした。帰国の準備をして欲しい」と。ここに清を宴に招き、使者に貢物を持たせて、清を送ってきた。この後、倭国と隋の交流は途絶えた。

推古十六年(608年)四月、小野妹子が大唐の使い裴世清を連れて共に帰国。

推古十六年(608年)四月小野妹子、大唐(注・隋の事)より帰ってきた。唐の国は妹子の臣を名付けて蘇因高そいんこうと言った。妹子の帰国にあたって、大唐の使い裴世清はいせいせいと従う十二人筑紫に至る。難波吉士雄成なにわのきしおなりを遣わして、大唐の客、裴世清らを召した。唐の客のために新しい館を難波の高句麗の館の上に造った。 六月十五日 客達は難波津なにわのつに泊まった。この日に飾り船三十艘もって江口えぐち(淀川河口)に迎えて新しい館に泊まらせた。
「この時に中臣宮地連烏摩呂・大河内直糠手・船史王平をもって、接待の司とした。

妹子の臣は奏上して言った。『私が帰国の時、唐の帝は私に書を委託しました。けれど百済を通過しようという日に、百済人が探って掠みとりました。それで書を上げることができません』と。これを聞いて群臣達は協議して言った。『使いの人は死んでも、その目的を達成せねばならない。妹子臣はなんで義務を怠って大国の書を失ったのか』と。そして流刑に処すことを決めた。これに天皇はおっしゃった。

『妹子に書を失う罪があったといっても、安易に罪に処してはならない。これが、唐の客人に聞こえても外聞がわるいではないか』と。それで許されて罪とされなかった。

八月三日 唐の客、京に入る。この日に飾り馬七十五匹を遣わして、唐の客を海石榴市つばきち(現在・奈良県桜井市金屋かなや)の道に迎えた。額田部連比羅夫は礼の言葉を述べた。十二日に唐の客を朝廷に召して、使いの言葉を奏上させた。安倍烏臣・物部依網連抱の二人を客の案内とした。
大唐の客は国の産物を庭の中に置いた。その時に使主裴世清は自ら書を持って再拝を二度して何故今回使いとしてやって来たかを述べてから書を読んだ。
『皇帝より倭の皇すめらみことに挨拶をおくります。汝の使い人の長、大礼蘇因高らが我が国を訪れて良くその意を伝えてくれた。自分は天命を頂いて天下を治めている。治世において徳化をすすめ、万物に及ぼそうとしている。人々に恵みを施そうという気持は、どの国においても替わりはない。使いの言葉によって、天皇は海の彼方にありながらも国民を慈しみ、国内の平穏をもって人々の心を穏やかなものとし、さらに至誠の心を持って遠く朝貢されたことを知った。時節はようやく暖かくなり、私は安寧である。そこで掌客(接待の官吏)である世清を遣わして送使の意を述べ、あわせて贈り物をお届けする』
「その時に阿倍の臣、出て進み、その書を受けてもどった。大伴囓連はこれを迎えて受けて」帝の前の机に上に置いて奏上した。事が終わりみな退出した。この時に皇子・諸王・諸臣はことごとく金製の飾り花を髪に飾っている。着物も錦、紫、刺繡、五色の薄物を用いている。ある本にいわく服の色は冠の色と同色にするという。四日後の十六日唐の客人達を朝廷で饗宴してさしあげる。

九月五日、客等を難波の大郡で饗宴してさしあげる。十一日、唐の客、裴世清はいせいせいが帰国した。その一行に、また小野妹子が同道して大使とした。ついで吉士雄成を小使そいのつかいとした。福利を通事をさ(通訳)とした。
天皇が言われた「東の天皇がつつしんで西の皇帝に申し上げます。裴世清等が」我が国に来たりて、ながらくの間、国交を求めていた我が国の思いが遂げられました。近頃はようやく涼しい気候となりましたが、帰国ではいかがでしょうか。お変わりございませんか。当方はつつがなく暮らしております。今、大礼蘇因高・大礼雄成を貴国に使いとして出します。思いのすべてを書くことはできませんが、謹んでもうしあげます」 この時に学生八人を同行させた。 」

18年〔610〕3月、高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。

19年〔611〕8月、新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。

隋の滅亡
612年、隋の煬帝は、200万人の大軍を送って高句麗の遼東城(現在の中国遼寧省遼陽付近)を包囲したがなかなか落とせず、一方、隋の水軍は山東半島から黄海をよこぎって平壌へ向かい、いったん高句麗軍を破るが、平壌城下で壊滅的な打撃を受けた。また、30万5千人の別働隊が鴨緑江河口に集結したが、巧みな戦術により徹底的に討たれてしまい、ついに隋軍は撤退した。
翌613年、激怒した隋の煬帝は再度出兵し、機械兵器を動員して平壌城を攻撃したが、国内で反乱が起こり兵を引いた。
翌614年、隋では度重なる出兵で民心が離れつつあり、各地で盗賊が横行し、徴募兵も十分集まらない状況にもかかわらず、3度目の出兵が決行された。高句麗は連年の戦いで疲労困憊しており、隋の要求を受け入れて講和したが、王みずからの朝貢などその約束を履行しなかった。
617年、隋は4度目の出兵を計画するが、中国全土に農民反乱が起こって隋は崩壊した。

23年〔615〕9月、百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
24年〔616〕7月、新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
26年〔618〕8月、高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
29年〔621〕、新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
31年〔623〕7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・金塔・舎利を貢上した。この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに新羅に軍を出し伐ってしまった。11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。

この年任那が新羅について以後、白村江の戦いまで、日本と新羅の抗争はまったくなくなる。

(舒明天皇)
2年〔630〕3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子・小使徳率武徳がともに朝貢した。
3年〔631〕3月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
7年〔635〕6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
10年〔638〕、百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
12年〔640〕10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝って帰ってきた。百済・新羅の朝貢使がこれに従ってきた。
(皇極天皇)
元年〔642〕正月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に高句麗の大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。

義慈王
百済からの舒明天皇への弔使は言った。『百済国王(義慈王)は塞上(義慈王の弟)は、いつも和国で悪いことをしているので、帰国の使いにつけて、帰らせていただきたいと申し上げても天皇は許可されないだろう、と申しております』と。弔使の従者達も言った。『去年十一月大佐平(百済の位階十六階の一位)の智積が死にました。また王の家来が崐崘こんろん(今のベトナム・カンボジア地域の国)からの使いを海に投げ入れました。今年の正月に国王の母が亡くなりました。また王の弟の皇子である、児翹岐こぎょうきと同腹の女兄弟四人、内佐平ないさへい(百済高官位・内大臣にあたるか)の岐味きみ、高位の人々四十名が島流しになりました」

書紀、斉明天皇六年七月の条には、・・・高句麗の僧道顕の「日本世記」に曰く。百済は自分自身で滅んだのである。義慈王の夫人は妖女で無道(倫理を守らない人)で国政を勝手にほしいままにして、賢臣に罪を与え殺すなどの故に、この禍を招いたのである。・・・とある
「三国史記」の義慈王十六年(656年)三月の条にも、官女と淫楽にふける王を諫いさめた佐平の成忠を投獄した事、獄中での死に臨んで成忠が侵略阻止の方策を提言したが、耳を貸さなかった。

642年 高句麗で淵蓋蘇文がクーデターで政権掌握、唐と戦う。

642年(栄留王25年)に北方に千里長城を築造し唐の侵入に備えた。その年のうちに唐との親善を図ろうとしていた第27代王・栄留王、および伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を第28代王に擁立して自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政と軍事権を司った最高官職)に就任して政権を掌握する645年(宝蔵王4年)に17万の大軍を率いて高句麗に侵入した(唐の高句麗出兵)。しかし、楊萬春が安市城でこれを阻止し、60余日間の防戦ののち唐軍を撃退した。なお、その後4回に亘って唐の侵入を受けたが、楊萬春はことごとくこれを阻んでいる。天智七年(668)、「高句麗」は「唐」の攻撃の前に滅亡している。実は、この戦いは「泉蓋蘇文」のクーデターに端を発しており、『三国史記』によれば642年のことであるから、単純計算で26年間も続いていたことになる。
647年に唐(太宗)は第六次高句麗遠征を行いますが、泉蓋蘇文は唐軍を撤退させて、その後、莫離支「任武」として唐に謝罪の為に入国しています。

666年に「日本書紀」に泉蓋蘇文の死亡が記述されています。

宝蔵王は唐に投降して長安に連行されたが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から司平大常伯・員外同正に任命された。677年に宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に任じて遼東に帰らせた。ところが宝蔵王は唐の意に反して高句麗流民を糾合し、靺鞨と内通して高句麗復興を図った。これが発覚すると681年に卭州(卭は工に卩、四川省温江卭崍県)に流され、682年頃死去したと見られる。高宗は詔して宝蔵王の遺体を首都長安に送らせ、突厥の頡利可汗の墓のそばに葬らせた。

2年〔643〕4月、筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。
(孝徳天皇)
大化元年〔645〕7月、高麗・百済・新羅がともに遣使進調した。百済調使は任那使を兼ね、任那の調を進上した。
大化2年〔646〕2月、高麗・百済・任那・新羅が遣使して調賦を貢献した。9月、小徳高向博士黑麻呂を新羅に派遣して人質を出させた。ついに任那の調をやめた。
大化3年〔647〕正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
大化4年〔648〕2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。
大化5年〔649〕5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
白雉元年〔650〕4月、新羅が遣使して貢調した。(※注の或本には、この天皇の世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた、とある。)
白雉2年〔651〕6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。
白雉3年〔652〕4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
白雉4年〔653〕6月、百済と新羅が遣使して貢調し、物を献じた。

655年、百済・高句麗の連合軍は新羅に攻め入ります。新羅から救援を求められた唐は高句麗に攻め入りますが、3度にわたって敗退します。唐は高句麗を落とせませんので、先ず、新羅と連合して、百済侵略を試みます。

『翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 – 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている
唐・新羅の連合軍は現在の韓国扶余にあった百済の王城を包囲し、義慈王ら百済王家の一族も捕らえられ、

660年に百済は滅亡

孝徳天皇白雉五年(654年)大和朝廷が第三次遣唐使を送る

一年前に第二回遣唐使船が出ているが、二隻とも沈没して全滅しているんだ。

唐の官吏、郭丈挙は、ことごとくに日本の国の地理、および国の初めの神の名を問う。みな問いに従って答えた。

 ・・・妙位、法勝ら十二人、別倭種韓智興かんちこう・趙元宝しょうげんぽう、今年、使人と共に(日本に)帰る

日本書紀 斉明五年(659年)七月三日 坂合部連らの 遣唐使、大混乱

小錦下、坂合部連石布・大仙下、津守連吉祥を唐国に遣つかわせた。この時、道奧の蝦夷えぞ人男女二人を唐の皇帝にお見せした。皇帝は申された。『朕は、蝦夷人の身や顔が異様な事にきわめて驚嘆し、怪しみ喜んだ。使いの者は、遙か遠くより来て辛苦をなめたであろう。下がって客館に滞在しなさい。のちに又再会しよう』と。十一月一日 冬至の特別の祝いがあり、その機会に又皇帝に再見した。しかし、その後、王宮に火事などがあって、再見の機会はそれ以降なくなってしまった。

 十二月三日に、『別倭種』の韓智興の伴人西漢大麻呂が、我ら大和の使節の讒言をなした。大和の客等は罪を唐朝に得て流罪と定められた。これに先だって智興を死罪とほぼ同罪である三千里の外に流した。

658年、阿部比羅夫の東国遠征

658年、孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)と蘇我赤兄(そがのあかえ)がクーデターを起こしたが、失敗に終わった。斉明天皇は阿倍比羅夫(あべのひらふ)に東国の蝦夷(えみし)討伐を行わせ、日本海側から水軍を率いて3回の遠征軍を組織した。これには朝鮮遠征のための兵力獲得の意味があったのかも知れない。孝徳天皇の息子である有間皇子(ありまのみこ)と蘇我赤兄(そがのあかえ)がクーデターを起こしたが、失敗に終わった。斉明天皇は阿倍比羅夫(あべのひらふ)に東国の蝦夷(えみし)討伐を行わせ、日本海側から水軍を率いて3回の遠征軍を組織した。これには朝鮮遠征のための兵力獲得の意味があったのかも知れない

660年 百済滅亡

新羅の援軍要請に対して、唐の高祖は660年に大軍を派遣。これによって百済の首都扶余(ふよ)は陥落し、百済王義慈(ぎじ)は長安に連れられ、百済は滅亡してしまったのである

665年

天智四年二月(665)—百済の民、男女四百人あまりを、近江国の神崎郡に住まわせた。

天智4年(665)2月鬼室福信の功によって小錦下の位階が授けられ、天智8年には沙平余自信・沙平鬼室集斯ほか男女700余人とともに近江国蒲生郡に遷されました。(滋賀県日野町小野に鬼室集斯を祭った神社がある)

天智5年冬(666)百済の男女二千人余人を東国へ住まわせた。百済の人々に対して、僧俗を選ばず三年間、国費による食を賜った

667年、中大兄は都を大江(おおえ)の大津宮(おおつのみや)、または近江大津宮(おうみのおおつのみや)に移した。現在の滋賀県大津市である。そして翌年668年、ついに正式に天皇に即位した。「近江国」への百済人の移入は「白村江の敗戦」の翌年、天智三年に始まり、天智六年の近江遷都を以て完了しているのである。

天智8年 12月

 「この冬、高安城を造って、畿内の田税をそこに集めた。このとき斑鳩寺に出火があった。」