太古の時代には多武峰から続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち最も神聖視された。
天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめやま)」となり1つが大和国「天加具山」になった
『伊予国風土記』逸文
天山の所在地は:松山市天山町
天香具山の所在地は:奈良県橿原市南浦町
天山・天香具山両神社の祭神が共に「天櫛真知命」である
昭和52年から松山市天山町と奈良県橿原市南浦町両町は姉妹縁組を行い現在も交流が行なわれている。
天香山神社
天香久山北麓に鎮座。北浦神とも称し、『延喜式』神名帳十市郡の「天香山坐櫛真命神社」に比定される(大和志)。旧村社。式内天香山坐櫛真命神社は元の名を大麻等乃知神と称し、(「延喜式」神名帳)、天平二年(730)の大倭国正税帳(正倉院文書)によると久志麻知神は神田一町を有し、大同元年(806)には大和国に神封一戸を寄せられた(新抄格勅符抄)。「三代実録」貞観元年(859)四月には中臣氏人を宣命使とし、当社に幣帛を奉って疫病火災の変を祈らしている(本朝世紀)。山城国京中坐神で卜庭神であった久慈真知命神社の本社にあたり(「延喜式」神明帳)、卜事をつかさどった神である。「日本書紀」神武天皇即位前紀戌午年九月五日条に、天皇が天神の教えに従い、天香山の社の中の土を取って天平瓮・厳瓮をつくったとあり、これも当社のこととされる。神名クシマチのマチは「中臣の寿詞」に「かく告らば、まちは弱韮にゆつ五百篁生ひ出でむ」とあるように、卜事の現れる意の古語「兆」と同意とされ(大和志)、古来、占兆に関係の深い天香久山に鎮座する卜庭神であった。「大和志料」などはこれが香久山山頂に鎮座したものと見る。
-寺院神社大辞典より-
万葉集には単独で9首詠まれている。
舒明天皇の歌
「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙り立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島 大和の国は」 (巻1-2)
原文「山常庭村山有等取與呂布天乃香具山騰立國見乎為者國原波煙立龍海原波加萬目立多都怜𪫧國曽蜻嶋八間跡能國者」
中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」 (巻1-13)
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」
持統天皇の歌
「春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山」 (巻1-28)
大伴旅人の歌
「わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため」 (巻3-334)
作者不詳
「いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」 (巻7-1096)
柿本人麻呂の歌
「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (巻10-1812)
膳(かしわで)氏の本拠地にして、聖徳太子妃、膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)の生家である。山の北の地名は膳夫町(かしわてちょう)である。