博多の櫛田神社
旧県社、現別表神社
『和漢三才図会』では、櫛田社の祭神は一座で、大若子命。後に天照大神と素盞嗚を合わせて祀ったとある。大若子命はその昔朝廷より越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ、大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので、大幡主命の尊称を与えられた。
祭神は大幡主神・天照皇大神・素盞嗚神を祀る。博多の総鎮守。社伝によれば、天平宝字元年(757)伊勢国の櫛田神社(現在、松坂市)の分霊を当地に勧請したのに始まるという。一説に、天慶四年(941)山城国の祇園社を勧請したのが創祀という。
-『神社辞典』-
福岡では博多山笠で有名な神社で、博多繁華街の真中に有る。
人皇第四十六代孝謙天皇天平寶字元年の創祀。正殿(中殿)祭神の、大幡主大神は別名大若子命。伊勢国櫛田神社を博多総鎮守産土神として奉祭したという。
天御中主尊十八世の孫・彦久良伊命の御子であり、天照大神の側を離れず、その補佐をした神。
越の国(北陸)の賊徒阿彦を討伐することを命ぜられ、大いに旗(幡)を挙げて戦いに勝ったので大幡主と呼ばれている。
越後や佐渡にも、この神を祀る神社がある。佐渡大幡神社もその一つ。
外寇防御の神宣として、当地に祀られてという。
左殿の天照皇大神は、大幡主大神がその側を離れずに奉仕したことから同じく奉祭されたという。
右殿の素盞嗚大神は、藤原純友の乱平定に際し京都祇園の八坂神社に祈願したことから、その分霊を祀ったという。
草名伎神社
薗田守良は、(中略)「神境紀談に此事を 飾りて、此草薙の称は日本武尊東征の実剣を草薙と号する に依て、大若子命の北征の標剣を彼に比べて、後人草薙社 とは称せるなるべし、と云、或は草薙は剣の惣名なり、な どしひていへるは皆信じがたきことなり。」としてゐる。また、(略) 「草薙剣」が景行天皇四十年に倭姫命か ら日本武尊に授けられるまで伊勢神宮にあつた「此剣の御 霊を此社の祭れりとせんか。」とし、「或説に、草薙剣はも とより此社に在て祭りしを、日本武尊に給ひしより空しく 其名の此社に残れるなり、といふは、いぶかしき説なり。 もし此御剣伊勢に在しほどは実殿に在しならん。御鏡につ きては此剣の尊きこと書紀に見えたる如し。さるを雄略天皇以前未外宮鎮座なき比しも、其所摂社に此剣の納るべく もあらぬ事明かなり。」と述べている。
大間國生神社
『倭姫命世記』の雄略天皇二十一年丁巳冬十月 の條によれば、「又大若子命社定。大間社是也」とある。
-『式内社調査報告』-
草奈伎神社
祭神は御剣仗神(みしるしのつるぎのかみ)。外宮の祭祀を司ってきた度会氏の遠祖である大若子命(おおわかこのみこと、おおわくごのみこと)が越国の阿彦(あびこ)を平定する際に使った剣の霊であるという。大若子命は大間国生神社に祀られている。皇大神宮(内宮)方の学者側からは、大若子命を度会氏の遠祖に位置付けることが不遜であると非難されているが、櫻井勝之進は「度会の一族がかつて祖神と仰いだ神々であったということだけは尊重してよいと思われる」と述べている。
大間国生神社
祭神は先述の大若子命と乙若子命(おとわかこのみこと)。両神とも京都市にある梅宮大社の祭神と同じである[6]。鎮座地の大間広を開拓した神であり、天日別命(あめのひわけのみこと)の子孫であるとされる。大若子命は鳥羽市沖の答志島・和具の古墳に、乙若子命は志摩市志摩町和具の古墳にも葬られている。
『倭姫命世記』 によれば倭姫命が雄略天皇21年丁巳冬10月(ユリウス暦:477年10月 – 11月)に定めた神社であるとされ、社名・大間国生神社は、「大間社」と記す古書もある。外宮の摂社としては第2位である。
砺波市の八幡宮
鎮座地 砺波市高波七二九番地
祭神 譽田別尊、垂仁天皇大君子命、姉倉比賣尊
境内地 二八二坪
由緒沿革 垂仁天皇八十一年の頃阿彦と言う兇悪が 居り暴悪増長限りを尽したれば天聴に達し大若子命 に阿彦討伐の勅令が下った。大若子命越路下向あり、 越の小竹野に玉趾を留め宣議を凝らし給う処白姥現 れ八権八折を授け給ふ。大若子命教に従い八鉾の幡 を作り阿彦を攻め給う、程なく阿彦討死し乱を平げ 凱旋し給う時茲に祠を建て八鉾の幡を納め給い八幡宮と称え崇め奉る。白鳳四年天武天皇より除蝗の御 祈禱を社命あり。文武天皇より宸幹御下賜あり。天 平年間越中国司大伴家持幣帛を奉る。仁寿元年正六 位を贈られる。貞観三年従五位を贈られる。治承年 間平教盛一千有余坪の地所を本社へ領せらる因に言 う本村字神成田は旧社地にして字八幡田は旧社領な りと。永禄年間、天正年間二度の兵乱により荒廃し 今僅かに百坪以内の社地なるも斯の如き由縁の社柄 である。(旧社格 村社) -『富山県神社誌』より(原文ママ)-
姉倉比売神社(あねくらひめじんじゃ)
富山県富山市にある神社である。姉倉姫神社とも表記する。古墳の上に建造されている。
富山市内に同名社が2社(富山市呉羽町小竹1813、富山市(旧大沢野町)船倉2360)あり、どちらも式内社「越中国婦負郡 姉倉比売神社」の論社となっている。どちらも旧社格は村社。
祭神は姉倉比売神(あねくらひめのかみ)である。両社の社伝を総合すると、姉倉比売神は一帯の賊を征伐して、船倉山に居を構えて統治し、地元民に農耕、養蚕、機織などを広めた。姉倉比売神は能登の伊須流伎比古神(伊流岐比古神社の祭神)と夫婦であったが、伊須流伎比古は仙木山の能登比売(能登比売神社の祭神)と契りを交わしてしまった。怒った姉倉比売は船倉山の石を投げつくして能登比売を攻撃し、姉倉比売の妹の布倉比売もそれに加勢し、越国は大乱となった。出雲の大己貴命が越国に赴き、その調停により乱は鎮圧された。姉倉比売は混乱を引き起こした罰として、領地を没収されて呉羽小竹に流され、土地の女性たちに機織を教えるよう命じられたという。
「婦負郡」という地名は姉倉比売神にちなむものであり、「呉羽」の地名も機織に関係のあるものである。