尾張、海部郡、中島郡、宮簀媛、断夫山古墳

「東谷山は熱田の奥の院」

言い伝えられてきたように、古くから、衆人に篤く崇拝されてきた。山頂にある尾張戸神社は、尾張氏の祖神である天火明命(あめのほあかりのみこと)、天香語山命(あものかぐやまのみこと)、建稲種命(たけいなだのみこと)を御祭神とする。延長五年(923年)には延喜式に記されており、近隣でも稀な古社である。また近世には名古屋城の鬼門の守護神として徳川藩主より崇敬された。

尾張戸神社
所在地 愛知県瀬戸市十軒町845

社伝(「東谷大明神草創本紀」)によると、第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたという。宮簀媛命は日本武尊の妃で、建稲種命の妹にあたる。

また、江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された地誌『尾張名所図会』では、尾張戸神社が鎮座する「東谷山」の由来について、「尾張戸の神を鎮まります山」なので古くは「尾張山」と呼ばれていたが、尾張の国名を表す「当国(當国、とうごく)」から「当国山(當国山、とうごくやま)」と称されるようなり、のちこれが転じて「東谷山」と書き表す様になったと伝える。

国造

尾張氏。姓は連。天武天皇13年(684年)に宿禰を賜った。ヤマト政権との関わりは古く、孝昭天皇妃世襲足媛・崇神天皇妃大海媛・日本武尊妃宮簀媛・継体天皇妃目子媛などを后妃を輩出し、全国の国造家の中でも屈指の勢力を誇った。断夫山古墳や白鳥古墳などは一族の墓と推定されている。

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熱田と東谷山の位置

尾張の海部郡に於ける式内社
海部郡は、愛知県西南部、木曽川下流域の東側であり、南には伊勢湾を望む地域であり、甚目寺町をはじめとする12町村で構成されている。海部郡は、木曾八流とも言われた木曽川から流出した土砂により形成された三角州平野であり、大和朝廷の東国進出の前進基地であったと言い伝えられている所であり、初期大和朝廷の県が置かれた所でもあったという。
式内社は、8社が存在している。

国玉神社
弥五郎殿社の所在地は、津島市神明町、津島神社の第1摂社にあたる。祭神は、大巳貴命、竹内宿禰であるという。
津島市史にも、「弥五郎殿社は、土着の堀田氏の姓祖を祀る地主の社であり」と記され、津島神社宮司 毛利栄一氏も、「社家の堀田氏の所伝にも、竹内宿禰は、堀田氏の姓祖であると伝えられており、古くから地主の神と伝えられており、国玉神社であるとも言われているとか」語られているという。
もうひとつの論社が国玉神社で、所在地は、名古屋市中川区富田町万場で、祭神は、大物主神であるという。

諸鍬神社
所在地は、海部郡佐織町諸桑、祭神は、天諸羽命(あめのもろはのみこと)といい、宇摩志摩治命とは、何らかの繋がりがあるという。

漆部神社
所在地は、海部郡甚目寺町大字甚目寺、祭神は、三見宿禰命(みつみのすくねのみこと)、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
この漆部神社は、南北朝の頃、戦火を蒙り、廃絶した式内社であったようで、現 漆部神社宮司 山田壽一氏は、「お宮の北、現名鉄津島線の線路下になっている所に、漆塚と言われていた所があったと言われており、そこが、旧社地であった。」という。
旧事紀 天孫本紀のニギハヤヒ4世孫の項に、「三見宿禰命。漆部連等祖。」と記されていると。また、漆部神社略誌(尾崎久禰著)には、「上代より諸種の漆を塗る事あり、(中略)漆部連(ぬりべのむらじ)ありて、漆の事を掌る。後、大宝元(701)年漆部司となし、大蔵省の下に属さしめられ、大同3(808)年勅して内匠寮(たくみりょう)に併せせしめられた。漆部氏は、かくしておこり、各地へ、その一部が当地へ来たもので、その祖を三見宿禰命という。」と記されていた。

藤嶋神社
所在地は、海部郡七宝町秋竹、祭神は、市杵嶋姫命といい、宗像三神の一神であるという。この神は、海人族の宗像氏が奉祀した神であるという。
往古、この辺りは、海であったようで、木曾三川によって運ばれてきた堆積物により出来た州が、島になったようで、沖ノ島、遠島と呼ばれていたとか。現 七宝町の地名には、沖ノ島、遠島があると言う。その遠島の近くにこの藤嶋神社はあるという。

由乃伎(ゆのき)神社
所在地は、海部郡佐屋町柚木、祭神は、日子湯支命(ひこゆぎのみこと)であり、この神は、ニギハヤヒの孫、宇摩志摩治命の子であるという。やはり、物部氏の遠祖。

宇太志(うたし)神社
所在地は、海部郡八開村開治蔵王西、祭神は、邑上足尼命(うがたりにのみこと)といい、尾張氏の始祖とも、天火明命の子孫ともという説があり、尾張氏と同族の海人の一族が、この地に住みついて祀ったのではないかと考えられるという。
尾張名所図会には、「この地には、田畑に巨石数多あり。(中略)石塚と呼べども塚墓の面影は見えず。」とある。この石塚と言われる所は、現社地の東方約750mの所にあったと言われ、旧社地であったと伝えられているという。

憶感(おかみ)神社
所在地は、津島市神守町上町、祭神は、おかみ神(龍神)であり、雨を司る神でありましょう。往古、宮(熱田)から桑名までの七里の渡しの脇往還であり、海が荒れた時、或いは船の嫌いな旅人等に大いに利用された道であり、その街道筋にあったのが、この憶感神社であったという。

伊久波(いくは)神社
所在地は、中島郡平和町下三宅、祭神は、的臣祖(いくわのおみのおや)、菊理姫命といい、的臣は、古代の大豪族 葛城氏と同族であるという。
また、一説には、的臣は、軍司的な職掌に携わる的部の伴造氏族であったとする説もあるかと。
また、この三宅の地には、間敷屯倉があったとする。「このお宮の西200m程の所に屯倉跡とも言われた地があり、現 屯倉社(とんそうしゃ)という神社もあるという。」伊久波神社の宮司さんが、そのように語ったという。
春日井市史では、間敷屯倉は、中世の安食荘辺りかとも推察されていましたが、継体天皇の御子、後に天皇となられた方が、この間敷屯倉の生産物(米)を北九州 那の津(現 博多港)まで、運ぶようにと尾張連に命じたとか日本書紀に記されています

中嶋郡の式内社
中嶋郡は、愛知県西部、木曽川中流域の左岸に位置し、対岸は、岐阜県の羽鳥市である。祖父江町・平和町・稲沢市・尾西市・一宮市の一部が含まれていたようで、古代では、尾張の中心的な地域であり、延喜式式内社は、30社が記載されているという。

坂手神社
所在地は、一宮市佐千原字宮東、祭神は、高水上神(たかみのかみのかみ)。当社御由緒石碑には、「垂仁天皇の御世、皇女倭姫命が、天照大神を載奉りて、御幸のおり、当地に入られ、字北郷に仮宮を御造営され、宮東に坂手大神を奉斎されたと言い伝えられている。」と彫られているという。

見努(みぬ)神社
式内社の研究(志賀剛著)には、「所在は、平沼村天神社、込野村八龍社その他二、三の説あれど何れの社とも決めがたし。」と記述され、尾張志には、「今廃れてその旧址もなし。」とされていました。西春日井郡清洲町の近く、国道22号線沿いに小さな祠があり、大きな楠の木の下に鎮座しており、三奴(みぬ)天王社という。見努(みぬ)と三奴(みぬ)語呂はいいが、確証はない。清洲には、通常の弥生遺跡より、遥かに大きい朝日遺跡があり、そこに、清洲城が築かれたと言う。尾張の要衝であったと思われます。

大神(おおみわ)神社
所在地は、一宮市花池2丁目、祭神は、大物主神であるという。当社は、大和から移住してきた大三輪氏と地元豪族集団の融合により、美和氏が誕生したのではないかと考えられる。当社の東隣には、真言宗薬師寺があり、神宮寺であったとか。この寺は、江戸時代「いせや寺」と呼ばれ、伊勢神宮の初穂料を取り納める場所であったとか。現社地は、旧社地から少し南方に移っているようで、旧社地は、古宮とか御手洗と呼んでいるようであります。
旧鎮座地の地名は大和町宮地花池(現在の古宮公園の位置)であり、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉である。当社が尾張国一宮であるとする説があり、近くには同じく尾張国一宮とされる真清田神社がある。

大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える。大神神社の神紋は三本杉で、当然のことながら大和の大神神社と同じ。

大神神社

崇神天皇の御代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。大和の国の一の宮大神神社の祭神で、三輪の神とよばれ、大國主神(大國様)の別名がある。大和の大神神社と同じく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。鎮座地の花池は水が美しく、蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。奈良時代に國司が赴任して、國中の神社を代表として國府宮の「尾張大國霊神社」を尾張の総社に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」ということで「尾張の一宮」に指定した。「文徳実録」「尾張國帳」には従一位大名神とあり三宮明神、三明神(神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があった)と称せられ、延長五年延喜式神明帳には式内社とあり勅祭神社であったことが判る。尾張の國中には、大名神八座、小一二三座あって、当時の大名神八座の一座である。

波蘇伎(はそき)神社
所在地は、不明。津田正生著 尾張神名帳集説乃訂考によれば、波蘇伎神社の項に、「南麻績(みなみおうみ)村 現 稲沢市南麻績町 天神と呼ぶ小社その俤(おもかげ)なるべし。波曽岐はかな書也。波蘇伎はへそ木にて、麻績に就(つき)たる言葉也。麻績村と服部村は、初めは伊勢の国より移り来て、尾張の方にも地名となれり」と記されてはいる。

針熊神社
尾張志には、「今はうせて、その旧地を知る人なし。」と記される。

野見(のみ)神社
所在地は、一宮市今伊勢町宮後、祭神は、野見宿禰命で、相撲の神様であり、土師氏の祖でもあるという。

浅井神社
所在地は、稲沢市浅井町宮西、祭神は、小子部連さびち。この祭神は、壬申の乱時、尾張国守で、大海人皇子を助け、二万の軍勢を引きつれ、大友皇子軍を打ち負かした人であるが、勝利後、自害して果てた。

裳昨(もくひ)神社
所在地は、稲沢市目比町、祭神は、裳昨臣船主(もぐいのおみふなぬし)、大和より伊賀伊勢を経由して、当地に来られた四道将軍の一人で、その後裔が、裳昨臣船主であるという。当社は、幕末頃、現社地に移ったという。それまでは、安養寺境内に、あったという。

大(おお)神社
所在地は、一宮市大和町於保字郷中、祭神は、神八井耳命(かむやいみみのみこと)で、この神は、多氏の祖とされる。

知除波夜(ちちはや)神社
所在地は、不明。

小塞(をせき)神社
所在地は、一宮市浅井町尾関、祭神は、天火明命(あめのほあかりのみこと)、天香山命(あめのかぐやまのみこと)で、尾張氏の祖でありましょう。
この地には、伝説があり、その伝説により、小塞神社は、船着大明神とも言われる。その昔、伊勢湾が、この地まで入り込んでいた時、船付き場(港)であったという。
また、中嶋郡の豪族で、尾張氏と同族を主張する小塞連がいたという。延暦元(782)年12月、小塞宿禰弓張は、「小塞連の祖は、元尾張氏と称し、庚寅年籍(609年)の時より、居住地の名を取って、小塞と称するようになったが、それ以前の庚午年籍までの尾張の姓を賜りたい。」と奏言しているという。小塞氏は、居住地の地名を名乗った氏族で、尾張氏の同族と伝えられているようです。

石刀(いわと)神社
諸説あり、定かではない。内、有力な社地として、一宮市今伊勢町馬寄と一宮市浅井町黒岩字石刀塚だという。どちらも石刀神社と称す。

室原神社
所在地は、一宮市萩原町串作。詳しくは、資料等散逸し不明。

高田波蘇伎(たかだはそき)神社
所在地は、一宮市高田町南屋敷、祭神は、応神天皇とか。詳しい事は、資料が、散逸したのか不明。

大口神社
所在地は、不明。

ひめ夫神社
所在地は、中島郡平和町大字六輪字嫁振、祭神は、応神天皇と言うが、拝殿の木板には、祭神は、崇神天皇御母の弟、伊香色雄命の御子、大ひめ布命と書かれているという。天皇は、皇族を四道将軍として、各地に遣された。大ひめ布命もその一人で、当地に留まり、繁栄したという。
売夫神社(めふじんじゃ)
所在地:愛知県稲沢市平和町嫁振81
祭神は人皇第10代崇神天皇の御母の弟伊香色雄命の御子大布咩の命である。醍醐天皇の延喜年中(今から1066年前)諸国に神社調べがありその時の記録延喜式に中島之郡比売夫神社とあり、これを以て明治3年式内郷社に指定された。地名嫁振は往古はひめふりと言ったのである。「尾張誌」に隠岐国知夫郡をちふりと読むと同例であると記している。
又「本国帳」に従三位売夫天神と記してある。「尾張名所図会」には嫁振村にあり今八幡社と称すと記してある。
崇神天皇(今から2058年前)は諸国の治安開拓のため皇族を四道将軍として各地に派遣された。東海地方には武淳川別の命が当たられたがこの命に従って此の地方に来て治安開拓に功績を残されたのは大布咩の命であった。命はこの地方に留まりその子孫次第に繁栄しやがて命の霊を氏神として祀ったのである。』
この由緒には「当地の地名の嫁振は往古はひめふりと言った」とある。

真清田神社 (延喜式では、真墨田神社)
所在地は、一宮市真清田1丁目、祭神は、天火明命。尾張氏の遠祖であります。この社は、尾張一ノ宮であり、市名にもなっているのは、全国でもここ愛知県一宮市のみであるという。

一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮という社格の制は、国司が順拝する順位であるという。とすれば、国府があったのは、稲沢であり、当然、一宮市の真清田神社が一番近い位置にあり、最初に参拝されたのでしょう。参考までに二ノ宮は、犬山市の大縣神社であり、三ノ宮は、名古屋市熱田区の熱田神宮であったという。

尾張国の地誌『尾張名所図会』によると、ヤマトタケルが東征で尾張の「布曝女町(及び松姤社)」(又は曾福女町、そぶくめまち:江戸時代まで熱田神宮の八剣宮の南東に存在したとされる、松姤社と呼ばれる神社とそこの町名の呼称)の場所を通りかかった時、美しい女性(宮簀媛)が1人で川辺で布を晒していた。その時、ヤマトタケルと初めて出会った時、声を掛けられ、氷上の里への道を聞かれたが、宮簀媛は耳が聞こえない振りをしたという。『名古屋市史』では「布曝女」の由来は宮簀媛が裁縫をした場所とし、江戸時代の高力猿猴庵の随筆では宮簀媛が布をさらした場所としている。また、尾張藩が完成させた地誌『尾張志』ではヤマトタケルの東征の最中、宮簀媛は門戸を閉じて、誰の声も聞かずに、ヤマトタケルの帰りを祈願したとも言われる。

『ホツマツタヱ』によると、宮簀媛は結婚した日本武尊との間に武田王(たけだのきみ)と佐伯命(さえきのみこと、佐伯王)の2人を産んだとされている[

川曲(かはわ)神社
所在地は、稲沢市子生和町北屋敷、祭神は、菊理比売命(くくりひめのみこと)、応神天皇。ここの社務所は、伊勢屋と称し、伊勢神宮の御師が、共二人を連れ、1月から3月まで滞在し、美濃国境までお札の配布と初穂料の徴収をしていたという。

酒見(さかみ)神社
所在地は、一宮市今伊勢町本神戸、祭神は、天照大神、酒弥豆男・女命(さけみつお、さけみつめのみこと)の二名。
当社は、延喜式以前は、酒見御厨であり、伊勢神宮へ白酒(しろき)と黒酒(くろき)を貢献していたという。代々、伊勢神宮からこの地へ造酒司(さけつかさ)を派遣し、お神酒を造らせていたという。この本殿の西には、磐船(いわふね)が2個あり、お神酒を絞る為に使用されていたという。

浅井神社
所在地は、一宮市浅井町東浅、祭神は、水波売神(みずはめのかみ)、塩土翁(しおつちのおきな)、前者は、肥料・水の神、後者は、海の神、どちらも水に関わる神のようです。
この辺りは、少し土を掘れば、河砂利が出て来るようで、昔木曾川の一支流 浅井川が流れていたとか。地下には伏流水が流れ、尾北3名泉の一つとされていたようであります。

 久多神社
所在地は、稲沢市稲島石畑、祭神は、天背男命(あめのせおのみこと)で、この神は、尾張中島・海部直等祖とみえる。この地域には、天背男命を祖神とした一族が、居住していた。中島直(本家)、海部直(分家)の尾張族(海人族か)が、この辺りで繁栄していたのであろうか。
中島直の子孫は、久田氏と称していたという。暦応2年に一族の間で、争いが起こり、同族の野々村氏が神主職を引き継いだという。が、この元の神社は、いつの頃か廃絶し、その後、天保13(1842)年に野々村氏が、再建したという。

堤治(つつち)神社
所在地は、尾西市小信中島字宮浦、祭神は、埴安姫命(はにやすひめのみこと)、天照大神。この神社の最初の神は、埴安姫命であり、粘土の神とも言う。粘土は、焼けば、固くなり、転じて強靭な土塁所謂堤防を意味するとか。この辺りは、木曽川の洪水で悩まされている所であり、この神社は、木曽川大堤防鎮護の社であるという。また、かって伊勢神宮の御厨があったようで、それ故、天照大神が祭祀されているようであります。

石作神社
所在地は、海部郡甚目寺町大字石作、祭神は、不詳。こうした神社は、ここと、葉栗郡、丹羽郡、山田郡に各1社ずつあり、垂仁天皇の皇后の石棺を作って献納したといういわれを持つと言う。他の神社では、石作連が関わり、尾張氏と同族とか。ここの祭神は、定かではないが、おそらく、他の神社と同様であろうか。

千野神社
所在地は、不明。

塩江(しほへ)神社
所在地は、稲沢市中野宮町、祭神は、塩土大神(氏子は、猿田彦命が祭神であると言う。猿田彦命の子孫は、大田命で、その命の子孫は、宇治土公氏であると言う。かって、この当社の神主であった牧野氏は、その宇治土公氏の一族とも言われていたようで、いずれにしても、この地域へ宇治土公氏の一族が、何らかの理由で居住し、伊勢外宮の海人族 渡会氏や磯部氏と繋がりがあったのかも知れません。

布智(ふち)神社
所在地は、中島郡祖父江町大字本甲、しかし、古くは、淵天神、淵森天神と言われ、江戸時代頃は、火神社と言われていたという。元宮は、現社の西参道のすぐ南の古墳らしき塚にあったとか。天保年間に、現在地に遷座されたようです。この社は、近くに日光川があり、増水して堤防が切れそうになると、火の玉となって、堤防を守護されたという。

宗形(むなかた)神社
所在地は、稲沢市国府宮4丁目、祭神は、田心姫命(たごりひめのみこと)、この神は、宗像神社の三神の一つで、航海と漁業と水の守護神であるという。この宗形神社は、尾張大国霊神社(国府宮)の別宮であるという。この社地は、大江川の近くであり、古くから有数の穀倉地帯でもあり、宗像の神を祀る海人の氏族が、木曽川の支流 大江川を利用して、船による生産物の輸送、交易に活躍か。

尾張大国霊神社
所在地は、稲沢市国府宮1丁目、祭神は、尾張大国霊神。本殿の傍らには、七個の石による磐境(いわくら)があるという。
この社の創始者は、海人族と言われる豪族、尾張氏の一族の祖、天背男命と伝えられると言う。この神社は、天下の奇祭、裸祭りで有名であり、国府宮と通称は呼ばれる事が多いようであります。

天背男命の末裔が社家を務めた神社

愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大國霊神社「尾張大國靈神」崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。

名古屋市南区本星崎町字宮町620 星宮社「天津甕星神」
愛知県幡豆郡吉良町大字富田字殿海戸87 富田神社「建速須佐之男命 合 天香香背男命ほか」
三重県阿山郡阿山町大字石川2291 穴石神社「木花佐久夜比賣命 合 天香香脊男命ほか」
三重県阿山郡阿山町大字馬場951 陽夫多神社「健速須佐之男命 合 香香背男神ほか」

三重県阿山郡大山田村大字平田699 植木神社「健速須佐之男命、櫛名田毘賣命 配 香香脊男命、五十猛神ほか」

三重県鳥羽市答志町984 美多羅志神社「天忍穗耳命 合 北斗星神、三十三夜星神ほか」

天背男 : 神魂系 天日鷲命の父
倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・多米連・間人連・紀直・額田部連等がある。
この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、

神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という

ような系譜となっている。そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。
大御霊神社
所在地は、稲沢市国府宮2丁目、祭神は、大御霊神。この神社のことを、国府宮 田島仲康宮司は、「弥生時代は、磐境祭祀であって、本宮山を御神体として、これを奥宮、山麓の大縣神社を里宮とする氏族が、この地へ移住し、水田が広がるこの地に、五穀豊穣を祈願して、国府宮を田宮として祀ったのではないかと。」話されたという。

鞆江(ともえ)神社
所在地は、尾西市明地字鞆、尾張名所図会には、鞆江神社が記載され、第1鳥居から神門までは、黒松参道や神宮寺の曹洞宗神江(ともえ)寺、神江川が描かれ、この川の源は、当社御手洗池(放生ヶ池)であったようです。

一宮市の宅美神社

『ホツマツタヱ』
日本武尊が尾張国で後に結婚した宮簀媛(宮津姫)が武田王と佐伯王の2人を産んだとされている。 武田王を奉祀する、愛知県一宮市の宅美神社の由緒書によると、武田王はその土地に御所屋敷を構え、土地を開墾したとされ、山梨県韮崎市にある武田八幡宮では諏訪神社の南西に位置するわに塚の桜の御所を治めた後、薨じてこの地に葬られ「王仁塚」と呼ばれたと言う。
佐伯命(さえきのみこと、佐伯王、さえきのきみ)は、古代日本の人物。父は日本神話に登場する日本武尊とされている。兄に武田王がいる。三河国の御使連(みつかいのむらじ)の祖だとされている。

『先代旧事本紀』では三河の御使連の祖は日本武尊の子である佐伯命とされている
(『新撰姓氏録』では気入彦命が応神天皇の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえ、その功績によって御使連の氏姓を賜ったとされている)。
『ホツマツタヱ』の伝承によると、佐伯王(佐伯命)は日本武尊が尾張国で結婚して、後に妻となった宮簀媛(宮津姫)により、産まれたとされている。

和志山第2号墳 (岡崎市西本郷町字和志山)
五十狭城入彦皇子(イサキイリヒコのみこ)の墓といわれる、和志山古墳(和志山1号墳)、岡崎市西本郷町字和志山。
古墳時代中期にあたる4世紀末から5世紀初頭に作られた、全長60メートルの巨大な前方後円墳です。
60メートルを超える前方後円墳は、特に古墳の数多い近畿地方を含めても、全国でも70基弱しか見つかっておらず、大和朝廷のかなりの有力者が葬られているとわかります。和志山1号墳の周囲には6基の陪塚があります。 五十狭城入彦皇子の関係者などが埋葬されていると考えられます。

五十狭城入彦皇子(いさきいりひこのみこ、生没年不詳)
『日本書紀』では「五十狭城入彦皇子」、他文献では「五十狭城入彦命」とも表記される。『古事記』に記載はなく、『日本書紀』でも事績に関する記載はない。『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、後皇后の八坂入媛命との間に生まれた7男6女のうち、10番目に生まれた皇子である。
『先代旧事本紀』「天皇本紀」においても景行天皇皇子として五十狭城入彦の名が見え、さらに同書では五十狭城入彦が三河長谷部直の祖であるとする
また『新撰姓氏録』左京皇別 御使朝臣条・右京皇別 御立史条では、景行天皇皇子の気入彦命(けいりひこのみこと)が応神天皇の命によって逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕えたと見える。この「気入彦命」の記載は『日本書紀』『古事記』には無いため、五十狭城入彦と同一視する説がある。
古墳の全長は60m。後円部は径35m、高さ5m、前方部前端は幅28m、高さ2m。古式の円筒埴輪片が発見されているほか、周辺には6基の陪塚があるという。

五十狭城入彦皇子(気入彦命)
景行天皇の第10皇子で、母は皇后の八坂入彦命。皇子を祀る和志取神社の社記によれば、勅命によって逆臣・大王主等を討ってこの地方を平定したといい、『旧事本紀』には三河長谷部の祖氏とみえる。
イサキイリヒコは第十二代景行天皇の皇子とされる。母は、後の皇后のヤサカイリビメ。実兄には、第十三代成務天皇や、皇太子のスペアとして都にとどまったイオキイリビコがいる。また、異母兄弟には、ヤマトタケルなどがいる。

五百木之入日子命(いおきいりびこのみこ)
同母兄に第十三代成務天皇、同母弟にオシノワケ、同母妹にイオキイリビメがいる。
80人いるとされる景行天皇の皇子皇女のうち、わずか三人の太子格のうちの一人(残りは皇太子で、後の第十三代成務天皇と、東西の荒ぶる神や人を平らげる役目を担ったヤマトタケル)。シリツキトメと結婚し、ホムダノマワカをもうける。

品陀真若王(ほむだのまわかのみこ)
父は第十二代景行天皇の皇子イオキイリビコ、母はその妻であるシリツキトメ。

娘に、タカギノイリビメ、ナカツヒメ、オトヒメがおり、それぞれ第十五代応神天皇に嫁ぐ。ナカツヒメがその皇后となり、あと二人の娘がそれぞれ妃となる。
五百城入彦皇子(景行天皇皇子)
息子の尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣であり、その下の娘は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母です。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母といわれています。景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされています。熱田神宮・内々神社・羽豆神社・鳴海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られていいます

断夫山古墳

ミヤズヒメはヤマトタケルノミコトへの愛を貫き通し、未亡人のまま新しく夫を迎えることなく(すなわち断夫)、ヤマトタケルノミコトの草薙の剣を、
ここ熱田の地に祀ったというわけで、それが熱田神宮という。
断夫山古墳(だんぷさんこふん/だんぷやまこふん)は、愛知県名古屋市熱田区旗屋町にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
熱田神宮では「陀武夫御墓」と称するほか、古くは「鷲峰山」「団浮山」「段峰山」などとも表記された。
愛知県では最大規模の古墳で、6世紀前半(古墳時代後期)の築造と推定される。

本古墳はかつて宮簀媛命(日本武尊妃)の墓として熱田神宮大宮司家の管理下にあり、「断夫山」という名称もその宮簀媛伝承に基づくという。『尾張名所図会』には「鷲峯山」として見え、3月3日のみ立ち入りが許され墳頂から熱田一円を見渡せた様子が描かれている。明治に入って熱田神宮所属地化、のち戦後に入って愛知県有地化し、1987年(昭和62年)に古墳域は国の史跡に指定された。その後現在までに古墳含む周辺一帯は熱田神宮公園として整備されている。

宮簀媛の時代に比べ、どうにも、古墳の年代が新しすぎる。