前漢武帝が鉄の産地であった北朝鮮に楽浪郡をおいたころ、韓族は馬韓・辰韓・弁韓を樹立しました。ツングース系扶余族が楽浪郡を駆逐して高句麗を建国。建国者は朱蒙。同じツングース系靺鞨族(=満州人)が立てた濊(わい)、東夷を併合しました。やがて扶余族が百済を建国し、韓族の馬韓を滅ぼしました。韓族軍人が、靺鞨族の度重なる侵略で弱った辰韓を滅ぼして新羅を建国。複数の国家から成る弁韓は、伽耶となりました。伽耶には、金官伽耶、大伽耶、阿羅伽耶(安羅)、小伽耶、多羅伽耶(多羅)、高麗伽耶などがありました。
「大伽耶山」で、倭人諸部族の始祖神話は、はるか後代の「東国輿地勝覧」に記録されています。即ち高霊県の条で、「元は大伽耶国なり。始祖伊珍阿鼓(一に内珍朱智とも云ふ)から道設智王に至るまで凡そ十六世五百二十年、新羅真興王がこれを征服し、その智を大伽耶郡とす。」とあり、その注に「伽耶山の神、正見母主は天神、夷ヒ(田比)カ(言可)に感ずるところとなり、大伽耶王悩窒朱日と金官国王、悩窒青裔の二人を産めり。悩窒朱日は伊珍阿鼓の別称、青裔は首露王の別称なり。」(以上、「漢半島からきた倭国」李鐘恒著、兼川晋訳、新泉社、1990年)とあります
大伽耶とは固有の国名ではない。伽耶諸国の中の有力な国に対する呼称であり、正確には高霊伽耶という。没落以前の金官伽耶も大伽耶と呼ばれたことがあったという。高霊伽耶は金官伽耶が没落した後、大伽耶連盟を結成し、561年に新羅の軍門に下るまで、その盟主として他の国々を主導した。
池山洞古墳群遠望
三韓時代には高霊に半路という国があったと伝えられている。高霊地域は農耕に適した土地柄で、半路国は豊かな農業生産力を基盤にゆったりとした成長を続けたという。その国が伽耶社会で頭角を現す切っ掛けとなったのは、4世紀頃成立した治炉県を服属させたことによる。治炉県とは、現在の陜川郡治炉面から伽耶面の一帯で、鉄の生産が盛んだった。つまり半路国は治炉地域の鉄で鉄製武器を作りながら強力な軍事力を持つようなり、三国時代には伽耶諸国の中で一目おかれる高霊伽耶に成長したという。
その高霊伽耶が大伽耶へ発展した契機は、高句麗の広開土王が作った。広開土王は新羅の要請を受けて400年に新羅への救援出兵を決意し、慶州、洛東江流域まで進出した。高句麗軍郡のこうした朝鮮半島南部への進出は、金官伽耶の没落の切っ掛けとなったとされている。
池山洞32号墳から出土した金銅冠
そのため金官伽耶の残存勢力は、一部は倭国に、また一部は高霊へ逃れて、彼らが持っていた交易と鉄鋼開発のノウハウを伝えたとされる。それを切っ掛けに金官伽耶は飛躍的に成長していく。5世紀の高霊伽耶の成長をよく反映しているのが、池山洞古墳群である。
池山洞32号墳から出土した金銅冠は、大伽耶を代表する遺物としてよく取り上げられる。板模様の装飾1枚を額の正面に配置させた光背形のこの冠は、新羅の樹枝形あるいは鳥翼形の飾りではなくて、草の葉または草花の飾りを立てている。こうした金銅冠を独自に作り、自分の墓に埋葬させたことで、すでに高麗伽耶が大伽耶と呼ばれるにふさわしい勢力をすでに築いていたと推察されている。
また、大伽耶王陵展示館で復元展示されている44号墳は、外護列石を巡らした径27x25mの楕円形墳であるが、主室の竪穴石室に平行、直交して各1基の福室が築かれ、さらに周囲には32基の小石室が配されていた。主室内には装身具・武器・武具・馬具などが副葬品として納められ、副室には土器と人骨が、また小石室には25体の殉死者が埋められていた。多くの殉葬者を伴うこの王墓は、王の権力と富のすごさの象徴と言えよう。
大伽耶連盟の盟主として、高霊伽耶の王たちは1世紀以上にわたって伽耶諸国の上に君臨してきた。その中の一人が5世紀の後半に東アジア世界に登場する。中国の正史『南斉書』の加羅国伝には、建元元年(479)、国王の荷知(かち)が使者を遣わして朝貢してきた、とある。南斉はそれに報いて「輔国将軍・本国王」の称号を授けた。倭王の武(雄略天皇)が宋に遣使して上表文を提出した翌年のことである。
田中俊明教授は、その著『大伽耶連盟の興亡と「任那」』の中で、荷知は宇勒(うろく)に伽耶琴の作曲を命じた大伽耶の嘉悉王(かしつおう)と同一人物であると推論しておられる。
日本書紀によれば
大和朝廷は新羅とは敵対的な記事が多い。(14件)
大和朝廷は百済とは友好的な記事が多い。(21件)
大和朝廷は伽耶諸国とは友好的な記事が多い(8件)だけでなく、その内の5件は伽耶が特別な関係であったことを思わせる記事である。(敵対的記事は0件である)
つまり、大和朝廷は、新羅の前身・辰韓地域と敵対的なことが多く、百済の前身・馬韓地域とは友好的なことが多かった。そして、邪馬台国は伽耶の前身・弁韓地域とは特別に友好的であったことが推測できるのである。
『魏志倭人伝』は、馬韓は西にあって、五十余国あること、辰韓は馬韓の東にあり、十二国あること、弁辰(弁韓)はその南で、やはり十二国にわかれていた、と記している。弁辰十二国のなかに「弁辰狗邪国」があるが、これが『魏志倭人伝』では「狗邪韓国」として登場する。古くから日本列島と弁韓とのかかわりは深く、のちに『日本書紀』には「任那(みまな)」として登場するが、「加耶」とも称された。近年、調査研究が進み、この狗邪韓国は現在の釜山の西、洛東江近くの金海郡にあったのではないか、という説が有力。
「中国の三国志には弁辰(伽耶)からの鉄が、韓、穢(ワイ)、楽浪郡、帯方郡にまで、供給されていると書かれている」