二、三世紀の韓半島

121年、高句麗が1万の兵を率いて漢 の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。

 122年(延光元年)、高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、夫余王は兵を派遣して打ち破り救っ た。

 147年、朝鮮半島の倭の領域内に国ができていることに疑念を持った朝廷は兵を送って様子を探った(新羅本紀)。

 164年、尉仇台の子(孫?)温祚が百済建国、場所は遼東半島と思われる。

 179年、倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。(新羅本紀)

 184年(中平元年)、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が 病死したことで反乱軍は一時的に瓦解したが、後漢政権も壊滅状態となった。乱の勃発地青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島に逃げ込んだ。この人々を従えて百済と高句麗が勢力を強めることになった。

 186年、倭の大乱終結、卑弥呼共立、第8代孝元天皇即位

 189年(中平6年)、公孫度は後漢の実力者董卓の命により遼東太守となった。彼は遼東で勢力を拡大し、自立を強め、後漢が放棄した楽浪郡を支配下に置いた。このころ勢力を強めた高句麗第8代の伯固は遼東へ数度寇掠を行った。それにより公孫氏の不興を買った。

 192年(初平3年)夏4月、董卓が呂布に暗殺された。後漢の将軍曹操は後漢より黄巾討伐の詔勅を受け、黄巾軍を討伐し、黄巾軍の兵30万人、非戦闘員100万人を降伏させ、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。これにより、曹操は勢力を一気に増強した。

 193年、金官伽耶国首露王生誕

 197年に高句麗第9代故国川王が亡くなった。高句麗の王位継承をめぐって発岐と延優(後の10代山上王)との間に争いが起こり、卒本に拠った発岐は公孫度を頼って延優と対立したが、丸都城に拠った延優が王となって発岐の勢力を併呑した。

 201年、第4代新羅王脱解即位(新羅本紀),,

 203年(建安8年)、公孫康は父の後を継いで遼東太守となった。

 204年(建安9年)、公孫康は楽浪郡18城の南半、屯有県以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、県治よりもひときわ大きな城塞都市帯方郡を作る。

 207年(建安12年)、曹操は反乱分子である袁煕・袁尚兄弟らを遼東郡に追い込んだ。公孫康は逃れてきた人物の中に袁尚らがいることを理由に曹操が攻めてくる事を恐れ、袁煕・袁尚らを殺し、その首を曹操へ差し出した。これにより、曹操から襄平侯・左将軍に任命され、帯方郡も後漢の郡として追認された。

 209年、倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。(新羅本紀)

 211年、伽耶の軍兵と黄山津の入江(洛東江河口)で戦った。以降、伽耶と新羅の戦いが始まる(新羅本紀)

 212年、新羅王脱解(昔氏)没し、婆娑(朴氏)即位(新羅本紀)

 213年、倭女王卑弥呼、新羅を討つ(日本書紀神功1年、推定)

 214年、第9代開化天皇即位

 219年、高句麗の政情不安に付け込んだ遼東太守の公孫康が高句麗へ侵攻した。高句麗はたちまち敗退して村々が焼かれ、伯固の長子拔奇,涓奴加ほか各将が下戸3万余人を引き連れ公孫氏へ降った。
 伽耶の賊たちが馬頭城を包囲したのでこれを打ち破った。(新羅本紀)

 220年、曹操死去。天日槍命来日(日本書紀)
 9月、伽耶人が南の辺境を襲った。王は勇士5千名を率いてこれを破る。(新羅本紀)

 221年、兵をあげて伽耶を征伐しようとしたが、伽耶の国王が謝罪するのでこれを許した。(新羅本紀)

 222年、新羅王、首露王をもてなす。(新羅本紀)

  公孫康の死後、その子・が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。

 228年(太和2年)、公孫恭は成長した公孫康の子の公孫淵に位を奪い取られた。公孫淵は魏の曹叡(明帝)から承認を取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。
228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が崩壊し魏・呉・蜀の三国に分立し互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど密かに独立を謀っていた。

 230年、春2月、伽耶が南の辺境を侵すので、7月に黄山河(洛東江)を渡ったが、伏兵の待ち伏せを受けた。王はこれを突破して退却した。

 233年、夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。(新羅本紀)

236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻して、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。

 237年(景初元年)七月、公孫淵は魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、呉の孫権に呼応し て魏に反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属したが、帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻った。公孫淵が司馬懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国) を味方にした。

238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、一族ともども処刑されたために公孫氏の勢力は消滅した(遼隧の戦い)。公孫恭は魏への忠義を貫いたとして処刑されなかったが、子がおらず公孫恭の死により公孫度の子孫は滅亡した。

238(景初2年 )正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼした。帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあった。この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣したわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行 を送らせた。韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。

 240年(正始元年)、新太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送った。

 242年、高句麗は西安平で寇掠を働いた。

 243年、倭王は再び大夫伊声誉(崇神天皇皇子、伊邪眞若命)、掖邪狗等八人を派遣して、生口、倭錦、緑青兼 、畠系衣、帛布、丹、木付、短弓、矢を貢献した。掖邪狗らには等しく率善中郎将の印綬を授けた。(魏志倭人伝)

 244年、魏の将軍毌丘倹による1回目の高句麗侵攻が行われた。高句麗東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属しなかった。

 245年(正始6年)、高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。
 ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。この戦いで弓遵は戦死した。百済もこの戦いで国を失ったのである。
 東川王は魏軍が引き上げた後に平壌城を築城した。この城は集安市付近の城で、後の平壌ではない。
第10代崇神天皇即位
皇帝の命により倭の難升米に黄幢を与え、帯方郡長官に授与させた。(魏志倭人伝)

 247年(正始8年)弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の張政が派遣されるに留まった。

 249年に司馬懿はクーデターを起こし、魏宗室の曹爽一派を誅滅した。これにより司馬一族は魏の権力を完全に掌握した。

 250年、卑弥呼没

 251年、魏の張政来日

 254年、百済と新羅は敵対関係となる。(百済本紀)

 259年、倭女王卑弥呼が使者を遣わす(新羅本紀)。この年は卑弥呼没後なので、台与であろう。

 263年、蜀滅亡

 265年、司馬炎は魏の元帝から禅譲を受けて即位し、晋王となる。(晋建国)

 266年、魏の張政帰還、倭女王晋に朝貢

 新羅建国
 新羅は当時は倭国領内であった韓国慶州付近の邑長が集まって、この地域の代表者を決めようとして、144年、赫居世を立てたのが始まりである。赫居世の人望もあり次第に統治領域が広くなり、自治をおこなうようになった国である。

『三国遺事』二巻「駕洛国記」
 後漢の光武帝の建武18(AD42)年の禊浴(みそぎ)の日に、村の北側にある亀旨峯(クジボン)で怪しげな音がしたという。村人200~300人が行くと声は聞こえて姿は見えず、「皇天の命令でこの地の王になったので峯に降りて来る」と言い、天から紫の紐が垂れてきて、その端に紅色の布包みがあった。その中には金色の盆が包まれており、中には黄金の卵が六個入っていた。村人はそれを見て喜び百拝したが、その地の九人の村長の一人が家にもち帰り、床に安置しておいたところ、翌日の朝になると卵は変じて六人の男になっていた、という。
そのうちの一人は、10日もすると身の丈が九尺にもなり、その顔も高貴なものだったので、その土地の王として即位した。そこで、初めて現われたというので諱を「首露」ということとし、国の名を大駕洛、又は大伽倻とよぶことになった。そして、残りの五人も伽倻六国の他のそれぞれの国の王となった
「東国輿地勝覧」では首露王の父は天神夷毗訶、母は正見母主とされている。『三国遺事』の信ぴょう性は低いのであるが、この物語から神聖なる人物が産んだ6人の子たちを伽耶6カ国の王として、国をまとめさせた。王にさせる命令を下した「皇天」なる人物は何者か?これを大和朝廷の天皇と考える。首露王の生誕はAD42年と伝承されているが、金官伽耶国の年代も345年で半年一年暦と中国暦が切り替わっているとすればAD42年はAD193年となる。首露王の寿命が158年と異常に長いが半年一年暦で考えれば79歳となり、あり得ない年齢ではなくなる。

 伽耶と新羅との戦い

 伽耶と新羅との戦いが始まったのは新羅本紀によるとAD211年で、首露王は18歳の時である。これほどの年齢であれば、軍を指揮して新羅と戦うことも可能であろう。当時伽耶は大和朝廷の支配下にあったので、大和朝廷の命により伽耶は新羅に攻め込んだものと考えられる。戦いの原因は何であろうか?

 179年に倭人の兵船が新羅に侵入している。このような時第4代新羅王に脱解が即位した。脱解は丹波国からやってきた倭人であった。
 脱解が王になってから暫らくは倭人の侵入がなくなっている

 204年帯方郡を建設した公孫康は、倭に対しても帯方郡に属すように圧力をかけてきたと思われる。新羅王脱解はそれを受けたのであろう。中国側に倭と韓が帯方郡に属すと記録されたのもこのためと思われる。

 211年、新羅と交渉しても埒が明かないので朝廷は伽耶(任那日本府)に新羅を討つように命じた。これ以降新羅と伽耶の戦いが始まったと考える。

 212年、脱解が没した。次の第5代新羅王は婆娑である。正式には婆娑尼師今(はさにしきん)である。脱解の系統ではなく、赫居世の朴氏の系統である。倭との友好重視で倭人の脱解を王としたが、結局倭との友好関係はこじれてしまい、倭人が王になる意味はないということを、新羅の人々は理解した。

 新羅国を倭国から独立させようという流れが起こって、王家の系統から倭人を排除し、新羅王を朴氏の系統に戻すこととなった。朴氏の系統の第3代新羅王儒理尼師今の長子の逸聖(後、第7代逸聖尼師今として即位)が立てられようとしたが、弟の婆娑のほうが聡明であったため群臣に推挙され、婆娑が第5代新羅王として即位した。新新羅王婆娑は倭国に対して、新羅国の独立を宣言したのであろう。

 実際婆娑の行動は独立国としての行動が目立つ、以下は新羅本紀の婆娑の実績である。

 8年(修正215年) 西方の百済、南方の伽耶に対する国防強化を図った。加召城(慶尚南道居昌郡加祚面)・馬頭城(慶尚南道居昌郡馬利面)を築いた。
15年(修正218年)2月、17年(修正219年)9月 伽耶の侵入を受けたが、いずれも撃退した。
22年(修正222年) 王都金城(慶尚北道慶州市)付近に月城を築き、居城を移した。
23年(修正222年)8月、音汁伐国(慶尚北道蔚珍郡)と悉直谷国(江原道三陟市)とが境界争いの調停を婆娑尼師今に願い出たので、婆娑尼師今は金官国の首露王を呼び出して審議させた。首露王の判定で係争地は音汁伐国に帰したが、直後に音汁伐国と不和を生じた。これは、仲裁の審議を行った首露王を歓待しようとして六部に命じて酒席を設けさせたところ、五部は首長の伊飡が饗応したが漢祇部だけが位の低いものが当たったため、首露王は奴僕を用いて漢祇部の首長を殺して帰国し、奴僕は音汁伐国王のもとに逃げ込んだものである。婆娑尼師今は音汁伐国王に奴僕の身柄引渡しを求めたが、音汁伐国王は送らなかったため、婆娑尼師今は音汁伐国を討伐することになった。この討伐により音汁伐国は投降し、あわせて悉直谷国・押督国(慶尚北道慶山市)も服属することとなった。
25年(修正223年)7月、早くも悉直国は反乱したために討伐し、その遺民を南部へ移住させた。
26年(修正224年)、百済の己婁王は新羅に対して和睦を求めてきた。
29年(修正225年)、南方へ大征を行ない、比只国(昌寧郡)・多伐国(大邱広域市)・草八国(陜川郡)を併合した。33年(修正228年)10月、婆娑死去

 日本書紀の神功皇后の条、倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきん)は第5代新羅王婆娑のことと思われる。しかし、婆娑は212年~228年の間に在位していた新羅王である。新羅王波沙寐錦を攻めたのは同じ女王でも時代から考えて卑弥呼ということになる。卑弥呼の事績が神功皇后の条に挿入されたものであろう。実際に日本書紀は神功皇后を卑弥呼と考えている。神功皇后が新羅へ出陣した年の干支は辛巳である。卑弥呼の時代で辛巳の年は213年で、まさにこの新羅と倭との争いの最中に重なり、その時の新羅王は婆娑である。しかし、新羅本紀の213年には倭との戦いの記事はない。

228年婆娑が亡くなり第6代新羅王祇摩が即位すると、様子は一変した。
祇摩王は230年に黄山河(洛東江)を超えて伽耶に対し親征を行ったが伏兵に阻まれて破れた、また、将軍と兵1万を派遣して攻めさせたが伽耶軍の籠城戦の前に退却することとなった。南方戦の足がかりとして233年2月に大甑山城(釜山広域市東莱区)を築いたが、このことにより、同年4月に倭人の東部辺境(海岸地域)に侵入を招いた。

 新羅は倭国からいつかの時点で独立しているわけで、いつ独立したのかは定かではない。この後も倭と新羅は頻繁に戦っては和解の繰り返しである。234年に和解が成立しているが、288年からまた戦いが始まっている。ここまでは国境付近での戦いが中心であったが、288年以降は新羅の首都(金城)を包囲されるなど、戦いの規模が急激に大きくなっている。新羅が独立したためではないかと考えるのである。

 234年、新羅と倭国との和解が成立した。

 卑弥呼魏に朝貢

 ただ、帯方郡の属国である新羅と戦った以上、朝廷は帯方郡の敵となる。帯方郡に朝貢しても新羅と対等かその下の立場となってしまう。そのような時、238年帯方郡の所属が燕から魏に変わった。卑弥呼はこのタイミングを逃さず帯方郡を介してその先の魏に朝貢したのである。

 卑弥呼は新魏倭王として魏からかなり上位の地位を得ることに成功
卑弥呼の238年の魏への朝貢は絶妙のタイミングだったわけである。

 245年、百済が帯方郡によって遼東半島にあった国を奪われてしまった。流浪の民となった百済人は、倭を頼ってきた。任那日本府から報告を受けた卑弥呼は、倭の領域内のソウルを中心とする部分を百済に割譲する決意をした。卑弥呼にとって、領土を百済に割譲するということは、新羅を牽制する意味と、朝鮮半島経営の負担を軽減する意味と、百済から交換条件として貢物を受けるという大きなメリットがあったわけである。百済はこれに恩義を感じたのか、7世紀に滅亡するまで倭とのつながりが深く関係が悪くなることはほとんどなかった。

 247年の魏への朝貢

 250年(崇神10年)、卑弥呼は亡くなった。
251年(崇神11年)日本書紀に異族のの輩が多数来日したと記録されている。

 阿蘇盆地に入る入口にあたる大分県の大野川上流域・筑後川上流域・熊本市周辺から終末期(三世紀前半)の実践的鉄鏃が多数見つかっている。しかも,そのほとんどが住居跡から見つかっているのである。これは,当時,これらの地が臨戦態勢にあったことを意味している。
 この時期鉄製武器がこれほど集中出土している領域は他には存在しない。この時期の日本列島で戦乱が起こった地域はまずこの地域のほかにはないであろう。
 大分県の二カ所からは,近畿・瀬戸内系の鉄鏃が,熊本市周辺からは福岡県と同じ配分の鉄鏃が見つかっていることから,大分県の二カ所は大和朝廷の将軍が直接やってきて,熊本市側は伊都国王の派遣した将軍がやってきたのではないかと考える。実際、大野川上流域・筑後川上流域は大和に近い熊本県(球磨国)東北部から球磨国に侵入する通路に当たる位置である。朝廷軍・伊都国軍は阿蘇盆地に三方向より攻め込んだことが想像される。熊曾側の抵抗は,相当,激しかったようであるが,次第に追いつめられ,現在の八代市あたりまで退却したようである。
これを伝える伝承が艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)にある。
  「孝霊天皇皇子吉備武彦開化天皇10年に熊曽新羅王と戦い給う時、左の眼を射る。熊曽は大隈・薩摩なり、筑紫にては別名を豊武彦之命という。」
これによると、開化天皇10年(220年)に吉備武彦(弟稚武彦と思われる)が、熊曽征伐におもむいているということになる。
孝元天皇・開化天皇の時代の伝承は極めて少ないのであるが、意外なところから見つかった。
弟稚武彦はこの時50歳前後と思われる。弟稚武彦は大分県側から熊曽を攻めた将軍の一人であろう。この伝承は大野川流域・筑後川流域の鉄族の出土時期と重なっている。

 251年(崇神12年、阿達羅王5年)、倭人が交際のために訪れた。

 250年に卑弥呼がなくなっており、251年はその直後である。新しく女王として台与即位した直後である。「倭人が交際のために訪れた。」は逆ではないかと考える。この当時は倭と新羅の関係は良好であり、新しい倭女王台与に新羅王があいさつしたと考えた方が自然である。

 新羅と百済との戦い

 三国史記に新羅と百済との戦いの記録が頻繁に登場する。最初に登場するのは新羅本紀脱解7年の記事である。以降百済本紀と新羅本紀の記録を比較してみよう。

三国史記 修正年 百済本紀 新羅本紀
63 204 使者を新羅に派遣して会見を乞うたが聞かなかった 百済王が地境を拓定するために会見を乞うた
64 204 蛙山城を攻めたが勝てなかった。 百済が蛙山城・狗壌城を攻撃した。
66 205 蛙山城を攻めとったが暫らくして破れた 百済が蛙山城を攻めとったが奪回した。
70 207 新羅を攻めた 百済が攻めてきた。
74 209 新羅を攻めた 百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
75 210 蛙山城を攻め落とした
76 210 蛙山城を奪回された 蛙山城を奪回した。
84 214 百済が辺境を侵した
85 215 新羅の辺境を侵した
105 225 新羅に使者を派遣して和を乞うた 百済が和を乞うた。
 
204年から225年の間は百済は新羅と離れた遼東半島に存在しており、これらの戦いがあり得ないことになってしまう。戦いの始まりが国境の策定にあったようで、それ以降百済が攻める側で新羅が守る側の戦いのようである。百済と新羅の出会いは、百済が倭からの割譲を受けた248年以降のはずである。日本書紀の場合古代は干支で年を記録していたようなので、同じ干支の別の年に出来事を移動させている例が数多く認められる。三国史記でも同じ手法を用いているとすれば、これら記事は60年後のものと判断できる。そうすると、264年~275年までの出来事となる。裏付けはないが、254年に始まる新羅と百済の戦いの時期と重なっており、対立関係にある時期であったことは確かである。207年と267年の記事は対応している。また、戦いの最後が274年であるが、275年に和解をしたということになるので、これも一致している。

 新羅と百済の戦いの始まり

 254年、三国史記によると新羅の阿飡(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきた。新羅王(阿達羅尼師今)は吉宣の送還を求めたが蓋婁王はこれをかくまったため、新羅軍の派兵を招い た。このとき百済の諸城は籠城戦を採ったため、新羅軍は撤退した。蓋婁王は在位39年にして 死去したが、この時より百済と新羅とは敵対関係に入った。(百済本紀蓋婁王38年、新羅本紀阿達羅12年)

 256年7月、百済が新羅の西部辺境2城を奪って住民1千人を捕虜とすると、同年8月には一吉阿飡の興宣(フンソン)に兵2万を率いて百済を討たせるとともに、阿達羅尼師今自身も8千の騎兵を率いて漢水(漢江)まで出撃した。百済はこれを恐れ、先に捕虜とした住民を返還し和睦を求めた。(百済本紀肖古王2年、新羅本紀阿達羅14年)

 257年10月、百済は再び新羅の国境付近に侵攻した。

 259年、倭女王卑弥呼が使者を使わして礼物を持参し交際を求めた。

 265年、司馬炎は魏の元帝から禅譲を受けて即位し、晋王となった。

 266年、魏の張政は倭国内での技術支援の役割を終え、中国に帰還することとなった。
 百済は新羅の母山城を攻めた。(百済本紀肖古王23年、新羅本紀伐休5年)

 267年 百済は新羅と狗壌で戦って敗北。死者5百余名(百済本紀肖古王24年、新羅本紀伐休5年)
 秋8月、兵を出して、新羅の西の境、円山郷を襲撃し缶谷城を包囲した。蛙山で大勝した。
      (百済本紀肖古王25年、新羅本紀伐休7年)

 274年 新羅の腰車城を攻め落とした。(百済本紀、肖古王39年)

 三国史記では新羅と百済は最初から戦いの連続である。多くの戦いは百済から仕掛けて、新羅が反撃するというパターンである。百済が倭から漢城(現在のソウル市一帯)近辺の割譲を受ける時、交換条件として新羅のけん制があったのではないかと思われる。そのような時、百済に亡命してきた新羅の吉宣を匿ったことにより、百済と新羅は犬猿の仲になってしまったのであろう。

 晋への朝貢

 『晋書』
 壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

 張政は帯方郡太守王頎の部下で、魏から派遣された塞曹掾史という肩書を持つ役人である。その後、20年近くを倭国で過ごして泰始2年(266年)に帯方郡に帰国した。倭の使者掖邪狗らはそのまま洛陽まで行って晋に朝貢したものと思われる。

 台与としても、中国に晋という新しい統一国家ができたので、晋に朝貢することにより、周辺国家からの安定を得ようとしたのであろうが、晋が不安定な国であることが分かり、以降、交流をやめてしまったのであろう。