墨書
平成九年八月には嬉野町の貝蔵遺跡から出土の土器には墨で人の顔や文様、記号を記した古墳時代初期(三世紀前半)の土器が、同町の片部遺跡から出土の古墳時代前期(四世紀前半)の土器には墨で「田」の文字が墨書きされたものが発掘(平成十一年十二月)されている。
平成九年九月十一日付の読売新聞で水野正好奈良大学長(考古学)は「日本列島付近の筆の実物は紀元前一世紀のものが狗邪韓国で発見されている。今回の墨書は狗邪韓国のような朝鮮半島や中国との交易の盛んな地域からの渡来人によるものと想定。当時すでに伊勢の津が日本海の敦賀や三国、難波津などと共に主要な物資の交易港であった」と解説している。
漢字
三重県飯南町の粥見(かゆみ)井尻遺跡からは、粘土で乳房や頭部をはっきり表現した約一万一千年~一万二千年前の縄文時代初期の土偶が平成八年十月に発掘されている。更に、安濃町の大城遺跡から弥生時代後期(二世紀中頃)の高坏の一部の土器片に刻まれた漢字とみられる日本最古の文字が見つかっている(平成十年一月)。同町の教育委員会では「死んだ人の霊や神を奉るという意味で刻み祭祀に使ったのでは」と推測している。
http://miuse.mie-u.ac.jp/bitstream/10076/6546/1/AN101977030100006.pdf
日本最古の漢字
- 「竟」
(福岡市前原市三雲遺跡出土の3世紀半ばの甕 の口縁部の線刻)
(平成10年2月8日付け朝日新聞) - 「奉」(「幸」「年」「与」か)
(三重県安濃町大城遺跡出土の2世紀前半の高坏の脚部破片の線刻)
(平成101月11日付け新聞各紙) - 「田」
(三重県一志郡嬉野町片部遺跡の4世紀初めの流水路跡の小型丸壺の土器の口縁部の線刻) - 「山」
(鹿児島県種子島の廣田遺跡出土の埋葬された人骨に着装されていた貝札の陰刻)
(書体は隷書。後漢末か魏の書風) - 「田」
(熊本県玉名市の柳町遺跡の4世紀初頭の井戸から出土した木製短甲の棒状留め具の黒い痕跡。長さ7.8センチ、幅1.1センチで、半円状の蒲鉾状の留め具。装着面に五個の黒い痕跡が等間隔に記入)
当時の倭人たちが漢字を理解し、使用したことを考古学的に証明できる。三重県安濃町にある大城古墳群の住居跡から出土した2世紀前半の弥生式土器の高坏には、脚の部分に「奉」あるいは「年」と読める文字が刻まれていた。同じく三重県嬉野中川町の貝蔵遺跡から平成9年に出土した3世紀初頭の土器片には、明らかに筆に墨を含ませて「い」の字風に墨書されている。また貝蔵遺跡に近い片部遺跡からは、4世紀初め頃の「田」字を墨書した土器が平成7年に見つかっている。興味深いのは、三重県のこれら3つの遺跡は、いずれも交易が行われたかっての港津集落、すなわち先進的な文化が受け入れられ発揮された場所である。2世紀頃から交易のために文字を操ることができる集団がいたことは間違いない。
王仁伝書 、論語と千字文
漢籍が日本に伝わったことについては、『日本書紀』の記載によれば、応神天皇 16 年(284年)、百済の王仁が天皇の招きに応じて来日し、「則ち太子菟道稚郎子、之を師とし、諸典籍を王仁に習う。通達せざるなし。所謂王仁は、是れ書首等の始祖なり。」とある。『古事記』の中にも類似の記載があり、その中ではさらに具体的に、王仁が『論語』十巻と『千字文』一巻を携えてきたことに言及する。これが即ち日本の文献中に記録された最も早い
「王仁の伝書」である
4世紀、百済は369年に倭国との軍事同盟が成った記念に七支刀(しちしとう)を作り、倭王に送ってきた。七支刀は現在、天理市の石上神宮に神宝として安置されている。全長74.8cmの七支刀を有名にしているのは、その特異な形状もさることながら、刀身の両面に金象嵌された61文字の銘文である。
日本書記
『日本書紀』によれば、神功皇后52年九月丙子の条に、百済の肖古王(しょうこおう、生年未詳 – 214年)が日本の使者、千熊長彦に会い、七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝を献じて、友好を願ったと書かれている。孫の枕流王(ちんりゅうおう、生年不詳 – 385年)も『日本書紀』の中に出てくる。
五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口、七子鏡一面及種種重寶、仍啓曰:「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及。當飲是水、便取是山鐵以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰:「今我所通東海貴國、是天所啓、是以垂天恩、割海西而賜我、由是國基永固。汝當善脩和好、聚斂土物、奉貢不絕、雖死何恨!」自是後、每年相續朝貢焉