園韓神社、

園韓神社(そのからかみのやしろ)
園神社(そのじんじゃ/そのかみのやしろ、薗神社)および韓神社(からじんじゃ/からかみのやしろ)の総称。式内社(名神大社)で、現在は廃社。 

園神社・韓神社のいずれも、平安京の宮中(大内裏内)の宮内省において応仁の乱頃まで鎮座した神社である
『拾芥抄』宮城指図では宮内省の西、『年中行事絵巻』では宮内省の北西隅に見えており、その位置は現在の京都府京都市上京区主税町の北東にあたる。社殿は南北2宇(南に園神社、北に韓神社)でいずれも東面し、正面一間・側面二間の春日造風であったとされる

宮中では唯一の名神大社である。

平安時代には例祭「園韓神祭(そのからかみのまつり)」を年2回行う規定で、朝廷から重要視されていた

韓神については、『古事記』において大年神と伊怒比売(神活須毘神の女)との間の御子神、大国御魂神・韓神・曾富理神・白日神・聖神の5神のうちに見えている(この韓神とは別神とする説もある)。本居宣長は『古事記伝』において、曾富理神が園神・韓神二座のいずれか一座とする説を唱えている。

『大倭神社註進状』では、園神社は大物主神、韓神社は大己貴命・少彦名命を祀るとするとともに、これらの神は素戔嗚尊の子孫であり疫から守る神であるとしている

『江家次第』や『古事談』によると、平安京遷都に伴い園韓神社を遷座しようとしたところ、「猶(なお)此地に坐して、帝王を護り奉らむ」と託宣があったため遷座は取りやめとなったという。この記事から、創建当初より宮内省近くに祀られたと見られ、宮中36神では最古の神といわれる。

平安京の遷都以前に当地を治めたのは渡来系氏族の秦氏であることから、この園神・韓神は元々は秦氏が奉斎した神であったとする説もある

別伝として奈良の漢国神社(奈良県奈良市漢国町)の社伝では、同社の創建について推古天皇の時に大神君白堤が園神の大物主命を、のち養老年間に藤原不比等が韓神の大己貴命・少彦名命を祀ったとする。そして、同社祭神が宮中に勧請されたのが園韓神社の創建になるとしている。 

文献上では、古くは『新抄格勅符抄』において、天平神護元年(765年)に園神に20戸、韓神に10戸の神封が讃岐国から充てられたと見える 

延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、「宮内省坐神三座 並名神大 月次新嘗」のうちにそれぞれ「園神社」「韓神社二座」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭では幣帛に預る旨が記されている。宮中で名神大社に列したのはこの2社のみである。

また、『朝野群載』では永保2年(1082年)の修理の申請が見えるが、その内容から社殿が荒廃した様子が窺える
『長秋記』[原 7]によると、大治5年(1130年)頃には儀式の古態も失われていた。また『康富記』では、応永26年(1419年)2月5日の大風で社殿は転倒したと記されている。その後、内裏は応仁の乱で焼亡したことから、園韓神社も廃絶したものと見られる。

廃絶後の祭祀の継承は明らかでないが、園韓神は他の宮中諸神とともに神殿(宮中三殿の1つ)の「天神地祇」のうちとして、現在は皇居において祀られていると考えられる。 

園韓神祭
園韓神社の例祭は「園韓神祭(そのからかみのまつり)」と称された。祭は2月の春日祭の後の丑の日、11月の新嘗祭の前の丑の日の年2回行う規定であった。史料上の初見は延暦20年(801年)で、定期的に執行された旨が『日本三代実録』に記録されている。

祭の内容は『貞観儀式』等に詳述されている。当日は、神部2人が庭に賢木を立て、庭火を焚き、御巫が祝詞を奏上。奏上後は笛と琴を奏し、御神子が庭火を廻って湯立舞を行い、次いで神部8人がともに舞う。以上の所作を園神社に次いで韓神社でも行い、終わると再び園神社で和舞を行う。そして大臣以下が退出した後、神祇官が御巫・物忌・神部らとともに両神殿の前で歌舞(神楽)を行うというものである。その神祇官らによる神楽は、一条天皇の時代に制定された内侍所御神楽以前の宮庭神楽とされる。

なお『江家次第』では神部4人が榊・桙・弓・剣を持って舞ったと見えるが、『百錬抄』では大治2年(1127年)の大内裏火災で園韓神の御正体を取出そうとした折に神宝として剣・桙があったと見える。その後、祭は平安時代末以後は次第に衰微したとされる。

 園韓神祭で行われる神楽は、広辞苑によれば「われ韓神の韓招(カラオギ)せむや」とうたわれます(「からかみ」の項)。この意味は日本古代史が専門の京都大学・上田正昭名誉教授によれば、通説の「韓神をお招きしよう」というよりは、「韓風(からぶり)のお招きをしよう」と解釈するのがよいとのことです。

この神楽は、おそらく今でも宮廷神楽としてうたい継がれているのではないかと思います。一方、園韓神社ですが、この所在は平安京から遷都の際に東京へ移ったようです。したがって、現在、宮内庁のどこかにあるだろうと思われます。

他方、京都での跡地を上田氏が熱心にさがされたようですが、どうしても場所を確認できなかったようです。おおよそ現在のNHK付近とのことです。

 富理(そほり)神について、上田正昭氏は下記のように記しています(『神楽の命脈』)。

「曾富理神については、園神説と宮内省に坐す韓神二座のうち他の一神とする説などがある。だがこの(古事記)神統譜における曾富理神は韓神とは明らかに区別されているので、韓神二座のなかの一座が曾富理神であったとする説には賛成しがたい。
やはり園神は曾富理神にゆかりの深い神であったとするのがよいだろう。ソホリとは『紀』(日本書紀)の神話で、ヤマタノオロチ退治の詞章(第4の1書)にみえる曾尸茂梨(そしもり)と関係のある語と思われる。なぜなら『日本書紀』の現存最古の注釈書である『釈日本紀』(述義)には、元慶講書のおりに「今の蘇之保留(そしほる)の処か」と解釈しているからである。
つまりソシモリ・ソシホル・ソホリはいずれも新羅に密接な地名であった。『紀』の神話に描く曾尸茂梨が新羅に求められていることも注意されよう。

とすれば韓神とは百済系の神、園神とは新羅系の神ということになる。ともにわが国に渡来してきた、いわゆる今来(いまき)の神であった」

延喜式神名帳によりますと、宮中神の筆頭に「園神社一座、韓神社二座」とありまして、二つの神社をひとまとめにしたものだということがわかります。

この神社、平安京遷都以前からこの場所に位置し、平安京造営にあたって他所に遷座されようとしたのですが、この地にあって都を護る、と託宣したため、引き続き平安京大内裏内に鎮座することになったという由緒があります(『江家次第』という平安後期の儀式書より)。11月に行われる天皇家の年中行事・新嘗祭の前日に行われる準備祭としての鎮魂祭、の前日にこの神社の例祭が行われることから、平安京鎮護の神としての性格が強調されてきたわけですね。

その一方で、「韓神」という名前から外来神であることが早くから取りざたされ、神話、儀礼や神楽の研究をされている業界では一昔前にプチ流行したこともあります(神楽の採物で「韓神」というのがあるのです)。また、山背国(現在の京都市とその周辺及び南部の古称)北部には韓半島からの渡来人・秦氏一族が古くから居住していたため(平安京内裏は秦河勝の邸宅跡である、なんて伝説も中世からすでにあるぐらい)、場所柄、園韓神社も秦氏の奉祀する神社のひとつであろうと言われてきたわけです。 

『古事記』掲載の大年神の系譜に、大年神が神活須毘神の女・伊怒比売に生ませた子として、「大国御魂神、次に韓神、次に曽富理神、次に白日神、次に聖神」の5柱が出てくる
園韓神社の韓神をこれにあて、園神は曽富理神にあてるという考え方が本居宣長の頃からあります(宣長は懐疑的ですが)。この『古事記』における大年神の系譜は、前後の話の流れからはやや唐突にあらわれることから本来の神話への部分的な挿入であるとの指摘されており、西田長男さんなんかがいうにはこの大国御魂神以下の5柱の神は秦氏系の神さんである可能性が高いという。

『古事記』での神さんの列挙に従うならば「韓園神社」となるんじゃないのか、秦氏の氏族神だというのならなおさら韓神のほうが先に来てもいいじゃないか。にも関わらず、「園神」と「韓神」が併称される初見から、順番は園神が先。それだけじゃないんですよ、園韓神祭での儀式でも、園神を祭ってから韓神を祭る。神戸だって園神は一座で20戸、対する韓神は二座あってようやっと10戸なんです。なのに園神に対してなされる説明は、秦氏の家の園池神だったのだろうとかその程度。

修理
神祇官が修理を申請していた園韓神社ですが、鎌倉時代、『続左丞抄』の建長6年(1254)7月22日付解において、修理の申請を行っているのが祢宜・安倍久頼、祝・安倍久種という。当社の祢宜については管見の限りではこの記事しかありません。

延喜式

大忌祭〜鎮魂祭の平安遷都以前から公祭であったものと園韓神祭をはじめ平野祭〜松尾祭の平安遷都以降公祭化したものがある。 

「園韓神祭」は「小祀」に分類される祭祀です。そこで、同じ小祀に分類される大忌祭(広瀬社で行われるもの。以下同)、風神祭(龍田社)、鎮花祭(大神社、狭井社)、三枝祭(率川社)、鎮火祭(宮城四隅)、道饗祭(京城四隅)、鎮魂祭(宮内省)、平野祭(平野社)、春日祭(春日社)、大原野祭(大原野社)、松尾祭(松尾社)の祭祀

園神・韓神の国史上の所見は『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)10月20日条、園神・韓神に従五位下を授けるという内容のものです

新抄格勅符抄
『古事記』(712)を除けば、園神、韓神の初見は『新抄格勅符抄』になります。
園神・韓神が掲載される「神封部」(神封:神社に与えられた俸給みたいなもの)は飯田瑞穂さんによれば延暦初年頃の状態という。

「園神 廿戸  韓神 十戸〈並讃岐国 同年〔天平神護元年をさす〕奉充〉」とある。

園神20戸、韓神10戸、という数字。実は結構すごい数字。この頃20戸も神封をもらっている神社というのは、園韓神社が所在していたと考えられている「山城国」(現在の京都府南部)内においては、これほどの神封をもっているのは賀茂別雷神(今の下鴨神社)24戸と賀茂御祖神20戸(今の上賀茂神社)のみで、他はすべて1ケタ戸。遷都を前後するころに、稲荷神(今の伏見稲荷)が10戸、石清水八幡宮が20戸、大原野神社や平野神社も10戸であることをみても、園神・韓神の神戸がいがに破格であるかがわかる

国造本記

「山城国造 橿原朝御世(神武)、阿多振命為山代国造、」
「山背国造 志賀高穴穂朝御世(成務)、以曽能振命、定賜国造、」

「山背国造」の祖が「曽能振命」であると同時に、同じく「山城国造」の祖が「阿多振命」との名であり、「振命」をとったら、大隈国(現在の鹿児島県東半分)の「曽於」「阿多」両郡の名前と一致する。

大隈国霧島岳周辺に、曽富理神を祀っていたことになる。

大年神の系譜

古事記には大年神の系譜を掲げている

その大年神、イノヒメを娶り生みませる子、大国御魂神、韓神、ソホリ神、シラヒ神、ヒジリノ神。(五柱)
カヨヒメを娶り生みませる子、大香山戸臣神、御年神、(二柱)
アメチカルミヅヒメを娶り生みませる子、奥津日子神、奥津比売これは竈の神なり。
次ぎに大山咋神、この神は近江の国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる
神なり。
次ぎに庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神、(九柱)
以下略 


大年神の子は、渡来神らしく半島に由来する名前をもち、韓神であるとか、ソホリ神(ハングルで
牛鋤を意味する農業神か)、シラヒ神(新羅神か)、ヒジリノ神(百済神か)など。

また次ぎの竈の神も面白い。

竈の神は時期を特定する資料に為り得るもので、列島において炊事は古来「いろり」で為されて来た。

竈が朝鮮半島から輸入されるのは、五世紀初頭といわれますから、それ以前に竈の神が列島にいるわけはないのです。

この氏族が五世紀以後に海を渡って列島にきたことを示すものでしょう。
大山咋神は近江の日吉神社や京都の鴨神社・松尾神社に祭祀されている神。

阿須波神・波比岐神などは、天皇家の住まいである宮中で祟りを恐れる神として、
巫に祭祀させる神々の中にある興味深い神様。

古事記がなぜこのような系譜を載せたのか、疑問に思う人は多い。

古事記には

大国主と神々との戦い
八十神、大国主神を焼き石で殺す、神産巣日神(かみむすびのかみ・)が二人の神を派遣し
て助ける。その二人とは神産巣日神の御子、支佐加比比賣命(きさかひひめ)・宇武加比比賣命
(うむかひひめ)のふた方『出雲大社天前社祭神』がその神様で、そのほか神産巣日神の御子

少彦名命も現れて協力した。

八十神、大国主神を木に挟んで殺す。大屋毘古神(五十猛命の別名)は木の股から救い出して逃がす。八十神の追撃を避け根の国へ至り、須世理毘売(すせりひめ)の助けを借りてスサノオの生太刀と生弓矢(武力を象徴する)と天の沼琴(宝石で飾られた琴、王者を象徴する)を盗み出す。その大刀と弓矢をもつて、その八十神を追い避りしとき、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎に追い撥ひて、国を作り始めたまひき。

大伴氏祖神の協力、大屋毘古神(五十猛命の別名)、須世理毘売(すせりひめ)の助けがあった。

-【桓武天皇母上の高野新笠は朱蒙の子孫(百済も同祖で朱蒙を祖とする)であるがゆえに「天高知日の子姫尊」と申し上げる】(続日本紀延略九年条)-

つまり、朱蒙の子孫だから日の子であるといつている。

日の鳥「烏(からす)」は島根県・美保神社の青柴垣神事に、また出雲神を祖とする京都

左京区賀茂御祖神社(下鴨神社)に八咫烏化身として伝承されている。


継体像のある足羽神社(福井市足羽町1)の祭神
継体天皇、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神
    合祀 大穴持像石神、亊代主神、スサノオ、継体皇子達