和邇、丹生、赤坂彦

和邇氏から分かれた族として春日・小野・柿本・大宅・栗田などの諸氏の名が あり、その本拠は奈良盆地の東北、山の辺の道の天理市和邇と考えられます。

『延喜式』神名帳に和爾赤坂比古神社・和邇下神社が載っており、坂の上に和爾赤坂比古神社もあります。この丸邇の 氏神として祀られた和爾赤坂比古、の神名こそ朱砂を司った和邇氏であろう。

水銀
硫化水銀の素鉱は、丹・丹砂・朱・朱砂・真朱・真珠・銀朱・水銀灰・辰砂・巴砂・越砂と記述されている。

前期前方後円墳である、桜井茶臼山古墳からは81面の銅鏡片が出土、石室は約200kgの朱で塗られていた。大和天神山古墳からは20面の銅鏡と41kgの朱が出土、椿井大塚山古墳からは37面の鏡と10kgを超える朱が出土、黒塚古墳からは34面の鏡が出土し、木棺内や粘土床には朱が使われていた。

神武天皇は、次のように神意を占います。「私は平瓮(たいか)(壺の一種)で水無しに握り固めた飴(たがね)を造ろうと思います。もし飴が出来れば、武器を使わなくても天下を治めることが出来るでしょう。」と。そして飴は、自然に出来上がりました。また、次のように祈ります。「新酒を入れた土器を丹生の川に沈めようと思います。もし、大小の魚が全部酔って、浮き流れるようであれば、私は必ずこの国を治めることが出来るでしょう。もし、そうならなければ、事を成し遂げることは出来ないでしょう。」と。土器を投げ込んでしばらくすると、魚が浮き上がり、口をパクパク開いています。
椎根津彦(しいねつひこ)がその事を報告すると、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)は、大いに喜んで、丹生の川上のほとりにあった数多くの榊(さかき)を抜いて神々に捧げ、お祀りをしました。このときから、神々を祀るときには、榊を捧げ、御神酒などを入れる土器などが置かれるようになったということです。
さて、神武天皇の一行は、丹生川上で天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を祀った後、八十梟帥(やそたける)を国見丘に攻撃しました。戦いを優勢に進めてはいるのです。
ーー中略ーー
熊野から吉野を経て宇陀へと入って、この後も戦いは繰り広げられ、多くの敵を滅し、ようやく国中を平定することができました。畝傍山東南の橿原宮で即位し、ついに「神武天皇」となることができたのです

磐余彦尊は夢に現れた天神の教えに従い、天の香具山の赤土で平瓦・厳瓮・手抉を作り、丹生の川上に登って天神地祗を祭っている。書紀は次のように書いている
「水の泡がかたまりつく所」とは、川の流れが淀み、比重の重い丹砂が堆積している所と理解する。「宇陀川の朝原」で、平瓦に丹砂の混じった砂をのせ、水中でゆすって丹砂を採取したのであろう。宇陀川の支流の丹生川に、丹砂の鉱脈や露頭があったか?
阿騎野では黒木川・本郷川が宇陀川に流れ込み、それらの支流の上流には黒木水銀鉱山・神戸水銀鉱山がある

「厳瓮を丹生の川に沈めよう。もし魚が浮いて流れたら」。丹砂を厳瓮(御神酒瓮)に入れて400度程度に加熱すると、水銀蒸気と亜硫酸ガスが発生する。このガスを水中に入れると、水銀蒸気から球状の水銀が取れる。また、亜硫酸ガスは毒性がり、水に溶けるので魚が死んで浮かんでくる。

和邇氏

『新選姓氏抄録』大和国神別に和仁古と言うのがあり、大国主六世孫阿太賀須命之後也とある。
『新選姓氏抄録』摂津国皇別に和爾部を大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命之後也、また、同書にの山城国皇別にも和爾部を小野朝臣同祖、大天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後、と記されている。

米餅搗大使主
大使主(大臣)として、神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『日本書紀』や『古事記』に記述されておらず、その事績の詳細は不明。小野神社は応神天皇妃宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として記紀にみえる和珥日触(丸邇之比布禮)が米餅搗大使主と同一人物であるとする。ただし、和邇氏系図においては日触使主は米餅搗大使主の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したともされる。

和爾部の祖神が阿田賀田須命

津加計志宮 (福岡県宗像市神湊950)
 祭神 阿田賀田須命。
 奈良県天理市の東大寺山古墳のそばの和邇にある、

和邇坐赤坂比古神社
天理市和爾町1194
祭神 阿田賀田須命(赤坂比古命)、市杵嶋比賣命
摂社 山之神神社「大山祇命」
赤阪比古神社の旧地は、現在地よりさらに北東に登った和爾池の南、天神山にあったという。

大都加神社 福津市生家
 大塚明神社(江戸時代の大都加神社の旧称)の祭神については、「筑前國續風土記付録」(同拾遺)に、「いかなる神を祭れるにや」(祭神未詳)とあり、奉祀は「在自村無量院」(修験者)が行っていたとある。
現在、大都加神社の拝殿には、なぜか祭神として
 「大国主命 田心姫命 阿田賀多命 宗像君阿鳥主命 宗像君徳善 宗像朝臣秋足主神 難波安良女神 宗像君鳥丸主神」の神名が掲げられている
阿田賀多命」は、私の書き写し間違いかもしれないが、「阿田賀田須命」のことだと思う。
  「阿田賀田須命」は、吾田片隅命とも書き、大物主命(大国主命説もあるが)を祖とする三輪氏(大神神社大神氏)の一族で、宗像君(宗形君)は、その子孫という説がある。

 そして、孝元天皇の子「武埴安彦命」が「埴安命」に対応している。大石や生家で氏神として少彦名命とともに「埴安命」が祀られている。殊に兄弟神。

阿田賀田須命、赤坂比古命を祀る神社は他には

福岡市博多区 櫛田神社摂社石堂神社「吾田片隅命」
福岡県宗像町玄海町 宗像大社摂社津加計志神社「阿田賀田須命」、氏八幡神社摂社「吾田片隅命」
福岡県宗像郡津屋崎町 大都加神社「阿太賀田須命」
奈良県大和郡山市 賣太神社摂社八柱神社「赤坂比古命」
愛知県春日井市 両社宮神社「阿田賀田須命」、朝宮神社「阿太賀田須命」、天神社「吾田片隅命」、和爾良神社「阿太賀田須命」
新潟県西蒲原吉田町 赤坂諏訪神社「和爾坐赤坂比古命」
群馬県安中市 榛名神社「赤坂彦神」

吾田片隅命(あたのかたすみのみこと)
大国主命の6世孫。
「新撰姓氏録(右京神別下)」に「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、「同(大和国神別)に「和仁古、大国主命六世孫、阿太賀田須命之後也」とある。つまり、宗像氏と和邇氏は同族あるいは主従関係ということになる。吾田(あた)とは大隅隼人の「吾田の笠沙」の吾田であり、久米氏との関連も想像できる。吾田片隅ではなく「吾田大隅」の誤記ではないかと思ったりしている。だとすれば、鹿児島神宮の三之社に祀られる「大隅命」はこの人か。

備前国赤坂郡
『延喜式』神名帳の備前国赤坂郡に「石上布都之魂神社」が載り、赤坂郡の郡名は、「ベンガラ朱」ないしは鉄にちなむ地名である

十七代仁徳天皇御宇、市川臣二勅シテ、吉備神宮に祭ル天羽斬剣ヲ石上振神宮二遷シ蔵メ加へ祭云々。干時市川臣ヲ振神宮ノ神主二補ス。神主職ノ起也。

天理市布留町
 ワニ氏は、和爾坐赤坂比古神社や和爾下神社の地から南には石上神宮(天理市布留町布留山)、北には春日大社(奈良市春日野町)の地域に勢力をもっていた。ワニ氏は石上神宮の祭祀氏族である。

石上神宮の神宝の剣は、この備前赤坂の工匠たちが作ったもので、そのことが『石上振神宮略抄』の伝承を生んだと考えられる。 和爾坐赤坂比古神社の赤坂と備前赤坂郡の赤坂の関連、石上神宮と石上布都之魂神社の関連からみて、ワニ氏は採鉱、 金属精練と無関係とは思えない

丹生都比売神社

 祭神は四柱で、第一殿に主神、丹生都比賣大神 を祀り、第二、第三、第四殿に、夫々に、高野御子大神、 御食都比賣大神、市杵島比賣大神を祀る。
第一殿の祭神丹 生都比賣大神は、伊邪那岐大神の御子神、天照大神の御妹神で、また稚日女尊とも申し上げる。社傳によれば 天津彦火瓊々杵尊、丹生津比賣を祀り給ひしに創まるといふ。 大神は謹んで父大神の旨を奉じ、神代この紀伊に御降臨あ り、御子、高野御子大神とともに、紀伊及ぴ大和地方開拓 のため、各地を巡歴して洽く恩澤を垂れ給うたので、この 紀州のみにても大神を祭祀する丹生神肚が八十社の多きに 達し、御終焉の聖地天野の社地を本宮と定め、とこしえに 鎮座せられた(『丹生大明神告門』)。
 神功皇后新羅を征せんとしたまふや、播磨に下りて諸神 に祈り給ふ。時に丹生都比賣神、國造石坂比賣命に著り 「よく我が前を斎かば、我れ善験を顯して容易く新羅を 平げん。」と仰せられ赤土を賜ふ。依りてこれを天逆矛 に塗り、舟師の舳艫に立てて海を渡り給ふに、神騒火をみ る如く、忽ち新羅を平げて凱旋し給うたので(『播磨風土 記』、御子・應神天皇にはその御報賽として、紀北の地に 廣大なる神地を寄せ給うた。その神堺は、真は丹生川の川 上より、西は應神山、星川の邊に及ぴ、南は阿諦川(有田 川)の南横峰より、北は吉野川に至る(註、後の高野寺領に あたる)廣大なものだつた(『丹生告門』)。
 皇室の崇敬特に厚く、仁徳、天智、天武天皇の御代に神 戸各二戸を、元明天皇の御時同じく二戸及び神服を、光仁 天皇の御時に弓並に刀を、平城天皇の御時に造營の料物を 寄せられた。更に嵯峨天皇の御代勲八等に叙し、貞観元年 (八五九)從四位下に、次いで天慶、寛平に御陞階あつて、 從三位に進めらる(『丹生告門』)。延喜の制、名神大社に 列し、月次、新嘗の幣帛に預る。後、神階累進して壽永二 年(一一八三)從一位、元暦二年(一一八四)正一位の極位 に進み給ふ(『丹生文書』)。
 第二殿の高野御子大神は、丹生都比賣大神の御子神であ らせられ、母神の御偉業を輔けて神功著るしく、元暦二年 同じく正一位の極位に進み給うた(『丹生文書』)。
 今昔物語によるに、高野御子神、かつて獵夫の姿にて、 二犬を伴い、空海のために案内役となりて高野山に誘へる 事ありしより、之を狩場明神とも異稱し、丹生都比賣神と ともに、大師開山の時より密教擁護の御誓い浅からず、屡 々出現まして山上の興隆を守護し給ふ事諸書に見える所で ある(『本朝神社考』)
 第三殿御食都比賣大神、第四殿市杵島比賣大神の兩大神 は、鎌倉時代の初め、承元二年(一二〇八)に、丹生祝と 行勝上人と共に神託を奉じ尼将軍の援を得て、敦賀の氣比 神宮と安藝の嚴島神社より勧請せられたもので、茲より四 社竝び祀られ、爾来、丹生四社明神、天野四社明神と稱せ られ今日に至つてゐる。
-『式内社調査報告』-

伊勢は丹生水銀の産出地であり、言い換えれば、実際に鏡を磨くこともできる良質の水銀を産する土地であった。

記録にあらわれた伊勢丹生の歴史は古く、文武天皇二年(698) の『続日本紀』 には伊勢国に朱砂を献上させたと記され、また元明天皇和銅六年(713) には水 銀を納めさせたとある。

大和水銀鉱山
奈良県宇陀郡という地域は万葉集の「大和の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかば・・・・云々」という歌にもあるように古代から辰砂(朱砂)産出の多い地域である。(”丹”というのは水銀の意味である。) 水銀採掘はその後も続いていたと思うが特に明治に入ってからは政府の植民地政策であらゆる金属の増産が叫ばれ水銀も例外ではなかった。かつて立派な辰砂や自然水銀を産出したことで有名な鉱山でした

東大寺の大仏さん建立時の金メッキで大量の(三重県の丹生鉱山)の水銀が使われた。

丹生都比売神社
昔、若狭国の八百比丘尼(白比丘尼)がこの神社に詣でたおり、水面に映る自分の姿をみて、八百歳にしてその美しさ若々しさを嘆き悲しみ、懐中にした鏡を取りだし、自分の水影に投げつけたと言われる伝説の池だ。八百比丘尼とは、若狭彦神社のある若狭の小浜の出身といわれ、人魚の肉、または九穴の鮑(あわび)を食べて不老不死になり、白い椿を持って諸国をめぐり、後に若狭の空印寺の岩屋で入定したとされる伝説の女性である。人魚や鮑など、モロに海人的な伝承であり、ここでも丹生と不老不死が繋がっているのは大変興味深い。

丹生神社
旧村社 近江國伊香郡
御祭神 彌都波能賣命 丹生都比賣命
滋賀県長浜市(旧余呉町)にある。余呉湖の北東4Kmの上丹生に鎮座。高時川を東へ越えた場所に、南向きに境内入口が見える。

社伝によると、天武天皇の御宇、丹生真人がこの地を拓き、丹保野山に神籬を設け、山土と丹生川の水を供え、天津神を祀ったという。後、天平年間に現在の地に社殿を創建した。よって、当社は土と水の神。

丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、息長氏の一族。息長丹生真人とも呼ばれていたらしい。

爾保都比売
『播磨風土記』逸文に載る<爾保都比売>の神
神功皇后の例の新羅国を攻略しようとした際、石坂比売の口を通して表れたの です。石坂比売が巫子のように爾保都比売を口寄せしたわけです。我が御前を 治めれば、善き験を出して新羅国を言向けんと教え、赤土を出されたので、そ れをもって船や衣を染め、海水まで赤土で濁らせ海を渡ると、なにも遮るもの もなく、かくして新羅国を攻略して帰還したという、云わば<丹生>の呪力を伝 えているわけです。ともかく引用しておきます。
息長帯日女の命、新羅の国を平けむと欲ほして下りましし時、衆神にいのり  たまひき。その時、国堅めましし大神の子、爾保都比売の命、国造石坂比売  の命に着きて、教へたまひしく「好く我が前を治め奉らば、我ここに善き験  シルシ を出だして、ひひら木の八尋鉾根底附かぬ国、越売ヲトメ の眉引きの国、  玉匣タマクシゲかがやく国、苫枕コモマクラ 宝ある国、白衾タクブスマ 新羅の国を、丹  浪もちて平伏け賜ひなむ。」かく教へ賜ひて、ここに赤土アカニ を出だし賜ひ  き。その土を天の逆鉾に塗りて、神舟の艫舳トモヘ に建て、また、御舟の裳スソ と御軍の着衣とを染め、また海水を撹き濁して、渡り賜ふ時、底潜る魚、ま  た高く飛ぶ鳥等も往来カヨはず、前に遮へざりき。かくして、新羅を平伏け、  巳に訖へて還り上りまして、すなはちその神を紀伊の国管川の藤代の峰に鎮  め奉りたまひき。

同じような場面が実は神功紀にも同じ様な場面があるのですが、<丹生>も爾保 都比売も出てこず、上筒男・中筒男・底筒男の住吉三神と神主に代わっていま す。爾保都比売の神はその後どうなったかというと、紀伊国の管川の藤代の峯 に鎮め奉ったと風土記は記しています。

何故、爾保都比売の神が祀られた場所は紀伊国だったのか。 と思っていたら、上の『日本書紀』に出てきた住吉三神の本社の縁起というか、 朝廷に提出した解上『住吉大社神代記』のなかに神地の説明として次ようにあ った。  
 巻向の玉木宮に大八嶋国所知食しし活目天皇より橿日宮の気帯長足姫皇后の 御世、此の二御世に熊襲並びに新羅国を平伏け訖へ賜ひ、還り上り賜ひて、 大神を木国の藤代嶺に鎮め奉る。時に荒振神を誅服はしめ賜ひ、宍背ソシシ の 鳴矢を射立てて境と為す。

そして住吉大神の宮九箇所のうちのひとつとして「紀伊国伊都郡 丹生川上の 天手力男意気続々流住吉大神」の名をあげています。風土記にいう紀伊国の管 川の藤代の峯と神代記のいう木国の藤代嶺は同じ土地を指しており、伊都郡富 貴村上筒香、現在の高野町といわれます。

『日本書紀』が住吉三神とした住吉大神を『播磨風土記』は爾保都比売神とし、 それを祀る住吉大社はまた別の神名をもって同じ土地に祀っていることになり ます。すると爾保都比売はここでも抹殺されたのかと思いきや、神代記は部類 の神として「紀伊国名草郡 丹生羊姫神」をあげています。

書紀に上の話しの続きとして気になる記事があります。新羅国を伐って紀伊国 に戻ったとき、土地の祝ハフリ と天野の祝をひとつの柩にしたため天候異変が起 きたという。この天野は『延喜式』神名帳の紀伊国伊都郡 丹生都比売神社で あろうといわれています。伊都郡かつらぎ町大字天野です。そしてこの東方二 十キロに藤代の峯があり、土社の元の鎮座地かと云われています。

整理すると次のようになります。
1、播磨国あたりで祀られていた爾保都比売神は、住吉の神の類縁として紀伊国の 藤代嶺に勧請され、次いで里の天野に丹生都比売神社として祀られた、という ことになります。この間に爾保都比売神は丹生都比売に変身したか、単なる使 われた文字の違いなのか。

2、そして爾保都比売神が播磨国に来る前身をも、神功皇后の新羅国攻略譚から彷 彿させているように見受けられます。 さらにまた、神代記にいう「天手力男意気続々流住吉大神」の神名も気がかり です。

7世紀末、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)9月28日の条

常陸国・備前国・伊予国・日向国、そして伊勢から朱砂(辰砂)が献上されている。とくに、伊勢国の場合は、朱砂とともに雄黄(石黄)が献上されている。雄黄は有毒なヒ素鉱物ではあるが、当時は貴重な薬品として流通していた。丹生鉱山の大きな特徴として副産物の石黄の産出が多いことがあり、現在のところ、このとき献上された伊勢産の水銀は丹生産の物であったと考えられている。713年(和銅6年)には、伊勢国のみから朱砂が献上されている。

大仏建立のために「続日本紀《には陸奥国から産金の事はあっても、それを鍍 金する水銀の記事はない。「東大寺要録《のなかに大仏の寸法など記したもの と一緒に、要した資材も記され、銅や錫の他に金一万四百三十両とならんで、 水銀五万八千六百二十両という数値がある。単位が同じだから水銀は金に比し て如何に膨大な量を必要だったか判る。それほど大量の水銀を何処から調達し たのか。

ここに秩父が再び産銅ばかりでく、水銀の元になる丹生の産地として問題にな る。秩父の丹党、丹治氏こそ、その担い手だったのである

室町時代の歌僧、東福寺の正徹(1380~1458年)の歌集「草根集」
伊勢水銀の採取のために山林の荒廃していく様子が、次のように詠まれている。

根を絶えて 切らぬ立木もあれぬべし 水の金掘る丹生の杣山