吉備氏、上道臣田狭

5世紀初め吉備下道氏が全盛期となり、作山古墳、造山古墳(総社市)などの天皇家の古墳に匹敵する大型前方後方墳を営なんだ。
5世紀末下道前津屋の反乱で21雄略天皇は、物部氏にこれを討たせた。これにより、吉備氏は、大きく後退したとされる。

雄略天皇7年 吉備を滅ぼす

8月、吉備下道臣・前津屋(さきつや)に謀反の疑いありとして一族70人を誅殺する。

吉備上道臣・田狭(たさ)の妻・ワカヒメが美しいと聞き、田狭臣を任那国司として赴かせ、その間にワカヒメを入内させる。さらに田狭の子・弟君を百済に遣り、才芸に巧みな者を連れて来るよう命じる。

田狭は子・弟君に百済と通じるよう命じ、自分は新羅と通じ、半島で勢力を得ようと図る。

吉備上道臣田狭の事件を述べる。

雄略は、田狭の妻稚媛が美しいことを知って、手に入れようとし、田狭を任那の国司に任じて赴任させ、その留守に稚媛を召し入れてしまう。これを聞いた田狭が新羅に入って反旗を翻したので、雄略は、田狭と稚媛との間の子である弟君に討伐を命じる。しかし、百済まで赴いた弟君は父を討つ事を避けて帰還しようとする。そこで、弟君の妻樟媛は夫を殺し、百済から工人たちを連れて帰り、天皇に献じる。

雄略天皇8年

2月、呉国へ遣使。使人は身狭村主・青と檜隈民使・博徳。

この歳、高句麗と新羅の間で大規模の戦乱が起こる。任那王は膳臣斑鳩(いかるが)・吉備臣小梨(おなし)・難波吉士赤目子を派遣して新羅を救援する

463年  吉備下道臣前津屋(或本云 国造吉備臣山)と同族70人を殺させる(雄略7年8月)
吉備上道臣田狭を任那の国司とする(雄略7年)
田狭の婦人の、稚媛を召し入れ妃とした。稚媛は田狭との間に、兄君と弟君を生んでいた。
(別本云、田狭臣の婦人は名を毛媛という。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の娘)
新漢の陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我、錦部定安那錦、訳語卯安那らを上桃原、下桃原、真神原などに移住させる(雄略7年)