「中国遼西地域が古朝鮮であり、漢四郡地域であった」という研究報告が注目されている。平壌は帯方郡でも楽浪郡でもなかった?
古朝鮮
前漢時代に朝鮮四郡を設置されるまでの時代を『古朝鮮』といい、古朝鮮には「檀君朝鮮」「箕子朝鮮」「衛氏朝鮮」という三つの朝鮮があったとされる。通説では衛氏朝鮮以外は伝説上の国家と解されている。
従来の説
新説とはいえ、歴史書の記述に合致する真摯な研究報告です。
韓国の学界では初めて「古朝鮮史」で博士号の学位を受けた韓国教員大のソン・ホジョン教授(39)が『韓国古代史の中の古朝鮮』を出版した。
中国の学界の膨大な考古学的資料を綿密に研究し、現地調査した結果の集大成だ。
「檀君神話は読まれるたびに『我々は一つの民族』という民族意識を形成する役割を果たしてきました。しかし神話ではない歴史を語る時、満洲全域を統治した檀君朝鮮が実存したとは言い難いです」
ソン教授は、古朝鮮史の始まりを、中国東北地方で青銅器文化が発展した紀元前8~7世紀頃と見ている。この時期は中国の文献『管子』に古朝鮮が初めて登場する時期と一致するという。
古朝鮮の領域も遼東と韓半島の西北地域に限定しなければならず、遼西地域まで拡大するのは不可能という。
ソン教授は古朝鮮の建国時期として知られる「紀元前2333年」は、実は「三国遺事」を解釈した「東国通鑑」の見解として見なければならないと言う。
抗議や個人攻撃まであるようですが、真摯な研究には、科学的に反論すべきでしょうね。
『史記』蘇秦列伝
燕は東に朝鮮、遼東、北に林胡と楼煩、西に雲中と九原、南に呼沱と易水がある。
燕の本拠は河北省北部、その東に朝鮮と遼東(遼河の東部)があるとすれば、記載順序からすれば、朝鮮は遼東より西側、すなわち遼西(遼河の西部)だとなる。
韓4郡
中国,遼寧省錦西市で1997年に発見された臨屯太守章 封泥。中国遼西地域が漢四郡地域であることを分からせる有力な物証
<後漢書> ‘東夷列伝 高句麗’ 條は高句麗太祖大王が「遼東西安平を侵犯し帯方令を殺し楽浪太守妻子を捕虜にした」と伝える
また、<三国史記>は美川王が在位3年(302)玄ド郡の人8千人余りを捕虜として平壌に移したと伝えており、在位14年(313)には楽浪郡男女2千人余りを捕虜とし、在位16年(315)にも「玄ド城を打ちのめし殺し捕虜にした人が非常に多かった」と記録している。
1997年中国,遼寧省錦西市連山区の古城跡で発見された‘臨屯太守章’ 封泥は操作論争がおきない唯一の封泥だ。吉林大考古学科で博士学位を受けたポク・キデ博士は<白山学報61集>(2002)に ‘臨屯太守章封泥を通してみた漢四郡の位置’ を発表した。封泥出土地はもちろん近隣の大泥遺跡と貝墓遺跡の出土遺物を総合的に検討した論文だ。彼は戦国時代(紀元前475~221)には錦西市遺跡で古朝鮮系統の遺物が主に発掘されたが前漢中期から後漢時期になると古朝鮮の特徴は弱くなり中国特徴の遺物が主流をなすと話している。後の時期は漢四郡設置時期と一致する。
結論は遼東半島周辺を含め遼西に至る地域が韓四郡の位置であろうとしている。
参考 虚構の楽浪郡平壌説
帯方郡の場所も遼東
帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である。
- 後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。- 魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を誘拐した。- 晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口, 長岑, 含資
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東), 長岑県(後漢書列傳によると長岑は遼東), 含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)帯方郡を置いた公孫度は黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立し、遼東王を自称した人物である。公孫度には遼東王の地位の確立が重要で、はるか南方のソウル地方の運営に興味があったというのも奇妙な話である。
平壌で発見された考古学的発見の正体は?
では楽浪郡が遼東にあったとすると、平壌で発見された考古学的な遺物は何だったのだろうか。 それは辰韓人などの亡命中国人の遺構だったと推測している。 「辰韓」とは秦人が万里の長城建設の苦役から逃亡して韓の地に定住したという国である。 魏志韓伝や魏略には次のような記述がある。
- 馬韓の東の地を割いて辰韓人を住まわせたという伝承がある。
- 韓は帯方郡の南、東西は海で尽き、南は倭と接する。
- 楽浪郡の使いは大船に乗って辰韓に入り、千人の仲間を奪還した。また「万余の兵を船に乗せて攻撃する」と辰韓を威嚇した。
定説では辰韓は釜山のあたりとなっているが、釜山では南に倭と接していない。 釜山は平壌から大船に乗って行く場所ではないばかりか、朝鮮半島南西部を回っての渡海作戦は陸上作戦に比べて極めて困難であり、楽浪郡が渡海作戦を行う理由が全く説明できない。 そもそも建国できるほどの多数の人間が逃亡するには、秦から遠すぎる。 それに比べると平壌は「馬韓の東」「南は倭と接す」「渡海作戦」を満たし、秦から千山山脈を越えて逃亡した者達が自然とたどり着く場所だ。 公孫氏の滅亡に伴う東アジアの激動に辰韓は飲み込まれ、 景初年間(237年−239年)辰韓は8国に分割されて楽浪郡に与えられた。 238年に隣国の女王卑弥呼に親魏倭王の封号が与えられたのは辰韓滅亡と無関係では無かろう。 その後約定が異なり、韓と楽浪、帯方は全面戦争となった。 楽浪郡によって辰韓の地が一時的に直接統治されたのは間違いあるまい。 亡命中国人の墳墓と楽浪郡統治時代の遺構を掘り当てて楽浪郡と判断してしまったのではなかろうか。