百済の王、近肖古王から義慈王、346-660

近肖古王 きんしょうこおう 在位346-375

子   近仇首王きんきゅうしゅおう【母:不明】
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366年4月3日 神功皇后が斯摩宿禰を 卓淳国に遣わす。卓淳王末錦旱岐は斯摩宿禰に告げて「甲子年(二年前?)七月中に百済人である久氐・弥州流・莫古の三人が我が国にやってきて『百済王は、東方に日本という貴い国があると聞き、我々を遣わしてその国に行かせた。それで道を求めてここに着きました。もし我々に道を教えて頂けるなら。我が王は必ずや深く君王を徳とするでしょう』と言った。そこで久氐らに『東方に貴い国があることは聞く。しかし通ったことが無いので、その道は知らない。ただ海は遠く浪は険しい。大船に乗れば、なんとか通うことも出来るだろう。もし船着き場があっても、船舶がなければかなわない』と言った。久氐らは『それならば今は通えないので、一度帰って船舶を用意してからとしましょう』と言った。また重ねて、『もし貴い国の使者が来ることがあれば、我が国にも伝えて欲しい』と言うと、帰っていった」と言った。斯摩宿禰は従者である爾波移と卓淳の人過古の二人を百済国に遣わして、その王を慰労させた。百済の肖古王は深く喜び厚遇した。五色の 綵絹しめのきぬを各一匹、 角弓箭つののゆみや、 鉄鋌ねりかね四十枚を爾波移に与えた。また宝庫を開き、いろいろな珍しい品を見せて「我が国には多くの珍宝がある。貴い国に奉ろうと思うが、道を知らない。志があってもかなわないが、今、使者に授けて献上しようと思う」と言った。【日本書紀 神功皇后摂政四十六年三月乙亥朔条】
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367年 日本への朝貢のために派遣した久氐・弥州流・莫古が日本に到着する。[四十七年四月条】
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369年(3月31日 ~ 4月29日)日本の将軍である荒田別・鹿我別らが新羅を撃ち破った。そして 比自㶱ひしほ・ 南加羅ありひしのから・ 喙国とくのくに・ 安羅あら・ 多羅たら・卓淳・ 加羅からの七国を平定した。また兵を移して西を廻って 古爰津こけいのつに至り、南蛮の 忱弥多礼とむたれを亡ぼして、百済に賜った。そこで肖古王と王子 貴須くいすも出陣した。 比利ひり・ 辟中へちう・ 布弥支ほむき・ 半古はんこの四つの邑が自然に降服した。百済王父子と荒田別らは共に 意流村おるすきで合流し、互いに喜んだ。礼を厚くして送った。ただ千熊長彦と百済王は、百済国の 辟支山へきのむれに登って 盟ちかった。また 古沙山こさのむれに登って共に岩の上に居り、百済王が盟ってもし草を敷いて座れば、火に焼かれるかもしれない。木を取って座れば、水に流されるかもしれない。岩の上で盟うことは、永遠に朽ちないということを示す。今後は千秋万歳に絶えることはないだろう。常に西蕃と称して春秋には朝貢します」と。千熊長彦を連れて都に帰り、厚く礼遇した。また久氐らをそえて送った。【日本書紀 神功皇后摂政四十九年三月条】

370年5月、百済に多沙城を与え往還の路の駅とした。
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371年(4月8日 ~ 5月7日)久氐を遣わして日本に朝貢する。【五十一年三月条】
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(371年4月8日 ~ 372年1月28日)
日本の使者千熊長彦が、久氐らにそえられて百済国に遣わされて、「私は神の験に従って道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また厚く誼を結び、永く寵賞しよう」と、神功皇后の言葉を伝えた。この時に百済王父子は地に額をつけ、「貴い国の大恩は天地よりも重く、何れの時にも忘れることはありません。聖王が上においでになり、明らかなること日月の如し。今、私は下にはべり、固きこと山岳の如し。永く西蕃となり、終生二心など抱きません」と言った。【五十一年三月条】
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372年10月29日
久氐らが千熊長彦に従って百済に着いた。 七枝刀一口・ 七子鏡一面、及び様々な宝を献上した。そして「我が国の西に河があり、水源は 谷那こくなの鉄山から出ていますが、七日行っても行き着きません。この水を飲み、山の鉄を取り、ひたすらに聖朝に奉ります」と言った。そして孫の 枕流王とむるおうに「我が通う所の海の東の貴い国は、天の啓かれた所である。天恩を垂れて、海の西を割って我に賜った。これで国の基は固くなった。お前もまた誼を修め、国の物を集めて献上を絶やさなければ、死んでも悔いはない」と語った。この後、年ごとに相次いで朝貢する。【五十二年九月丙子条】
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百済くだらの 国主こにきし 照古王しょうこおうは、牡馬一頭・牝馬一頭を阿知吉師に託して応神天皇に献上した。また 大刀たち・大鏡を献上した。
また天皇は百済国に、「もし賢人がいれば献上するように」と言った。それでこの命を受けて、すぐに論語十巻・千字文一巻、合わせて十一巻を和邇吉師に託して献上した。また朝鮮鍛冶職人の卓素、呉国の機織りの西素の二人を献上した。また酒を醸す技術を知る仁番。またの名を須須許理らが渡来した。【古事記 中巻 応神天皇段】
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(375年1月25日 ~ 376年2月12日)薨去。【日本書紀 神功皇后摂政五十五年条】

『三国史記』百済本紀によると、それまで百済に文字はなかったが、近肖古王の時代に高興という人物がやってきて漢字を伝えたので、この時より百済に初めて「書き記すということ」が始まったという。つまり照古王を近肖古王とした場合、百済は初めて伝来したばかりの『論語』『千字文』をほぼ即時に日本に伝えている。

近仇首王 きんきゅうしゅおう

父 近肖古王きんしょうこおう
子 枕流王ちんりゅうおう【母:不明】辰斯王しんしおう【母:不明】
369年(3月31日 ~ 4月29日)父である 肖古王しょうこおうと共に、日本から派遣された新羅討伐軍と合流する。【日本書紀 神功皇后摂政四十九年三月条】

(361年4月8日 ~ 362年1月28日)
神功皇后が使者を通じて、「私は神の験に従って道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また厚く誼を結び、永く寵賞しよう」と言った。この時に百済王父子は地に額をつけ、「貴い国の大恩は天地よりも重く、何れの時にも忘れることはありません。聖王が上においでになり、明らかなること日月の如し。今、私は下にはべり、固きこと山岳の如し。永く西蕃となり、終生二心など抱きません」と言った。【五十一年三月条】
(375年)肖古王しょうこおうが薨去する。【五十五年条】
(376年)王となる。【五十六年条】
(374年)薨去。【六十四年条】

『三国史記』百済本紀・近仇首王紀には、379年3月に東晋に朝貢しようとしたが海上で悪風にあって適わず、引き返してきたという記事が見られ、これは『梁書』百済伝の「晋の太元年間(376年 – 396年)に王の須が、…中略…生口(奴隷)を献上してきた。」という記事に対応する。

枕流王 ちんりゅうおう

子 阿莘王あしんおう【母:不明】
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372年10月29日
日本からの使者が来た際に、祖父の 肖古王しょうこおうから「我が通う所の海の東の貴い国は、天の啓かれた所である。天恩を垂れて、海の西を割って我に賜った。これで国の基は固くなった。お前もまた誼を修め、国の物を集めて献上を絶やさなければ、死んでも悔いはない」と語られる。【日本書紀 神功皇后摂政五十二年九月丙子条】
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(384年2月15日 ~ 385年2月2日)貴須王が薨じたため、王となる。【六十四年条】
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(385年2月3日 ~ 386年1月22日)薨去。【六十五年条】

辰斯王 しんしおう
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(385年2月3日 ~ 386年1月22日)枕流王とむるおうが薨じ、王子であり、甥でもある 阿花あくえが年少であったため、位を奪って王となった。【日本書紀 神功皇后摂政六十五年条】
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(392年2月16日 ~ 393年2月4日)辰斯王が 貴国かしこきくにの天皇に礼を失したことで、派遣されてきた紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰に、その無礼を責められた。これにより百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰らは 阿花あくえを立てて王とした。【日本書紀 応神天皇三年是歳条】

阿莘王 あしんおう

子 腆支王てんしおう【母:不明】
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(385年2月3日 ~ 386年1月22日)枕流王とむるおうが薨じ、王子である自身が年少であったため、叔父の 辰斯しんしが位を奪って王となった。【日本書紀 神功皇后摂政六十五年条】
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【八年三月条 百済記云】には「阿花王が立ったが貴国に無礼だったので、貴国は枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪った。百済は王子直支を天朝に遣り先王の好を修めた」とある

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403年(3月16日 ~ 4月13日)【応神記十四年二月条】2月、百済王が縫衣工女を献じた。この年、弓月君が百済より帰化したが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていた。襲津彦を派遣したが3年たっても帰ってこなかった。

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404年9月2日 阿直岐を遣わして、応神天皇に良馬二頭を奉る。【十五年八月丁卯条】
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(405年1月23日 ~ 406年2月10日)薨去。【十六年是歳条】

新羅の奈勿王
<那密(奈勿)王の即位三十六年(390年)、倭王、使いを遣わす。来朝して曰く、「寡君(かくん。倭国の使いが倭王を謙譲して呼んだ)は大王(奈勿)の神聖なることを聞きて、使臣らをして以って百済の罪を大王に告げしむるなり(新羅の潤色?)。願わくは大王、一王子を遣わして、誠心を寡君に表したまへ」と。これにおいて王、第三子美海(未叱喜ミシキ、また未斯欣とも)をして、以って倭を聘(と)はしむ。美海、年十歳。言辞と動止とはなお未だ備具せざりき。故に内臣朴娑覧ボクサランを以って副使となして、これに遣わす。>(三国遺事新羅



腆支王

子 久尓辛王くにしんおう【母:不明】
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阿花王が立ち、貴国に無礼を働いた。それで我が 枕弥多礼とむたれ・ 峴南けんなむ・ 支侵ししむ・ 谷那こくな・ 東韓とうかんの地を奪われた。そこで王子直支を天朝に遣わして、先王の好みを修めた。【日本書紀 応神天皇八年三月条 百済記云】
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(405年1月23日 ~ 406年2月10日)阿花王が薨じる。このとき応神天皇が、「あなたは国に帰って位を継ぎなさい」と言って、 東韓とうかんの地を賜って遣わした。【十六年是歳条】

 405年この年、百済阿花王が亡くなった。天皇は直支王に国に帰り王位を継ぐようにいい、東韓の地を賜った。8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し新羅を討った。弓月の人夫と襲津彦を連れて帰ってきた。
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(414年2月12日 ~ 415年2月1日)薨去。子の久爾辛が立って王となる。【日本書紀 応神天皇二十五年条】
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428年(3月9日 ~ 4月6日)百済くだらの直支王が妹の新斉都媛を遣わして仕えさせた。新斉都媛は七人の女を率いてやって来た。
【日本書紀 応神天皇三十九年二月条】

久尓辛王くにしんおう ( 久爾辛くにしん)
子 毗有王ひゆうおう【母:不明】
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(414年2月12日 ~ 415年2月1日)百済の直支王が薨じ、その子の久爾辛が立って王となる。王は年が若かったので、木満致が国政を執った。【日本書紀 応神天皇二十五年条】

『百済記』には、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときその国の婦をめとり生まれた子であり、任那にいて百済に入り貴国と往き来し、天朝の命をうけ百済の国政を執った、とある
毗有王 ひゆうおう
子 蓋鹵王がいろおう【母:不明】昆支こんし【母:不明】

蓋鹵王 がいろおう

子 文周王ぶんしゅうおう【母:不明】昆支こんし【母:不明】
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島君 せまきし( 武寧王ぶねいおう) 【日本書紀 雄略天皇五年六月丙戌朔条】【母:不明】
出来事
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458年(7月27日 ~ 8月24日)
百済の池津媛は、雄略天皇がまさに召そうとしたときに、石河楯と通じた。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して 来目部くめべを使い、夫婦の四肢を木に張りつけて桟敷の上に置かせ、火で焼き殺させた。【日本書紀 雄略天皇二年七月条】
辛丑年に蓋鹵王が即位した。天皇は阿礼奴跪を遣わして、 女郎えはしとを乞わせた。百済は 慕尼夫人むにはし娘を飾らせて 適稽女郎ちゃくけいえはしと呼び、天皇に奉った。【日本書紀 雄略天皇二年七月条 百済新撰云】
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461年(4月26日 ~ 5月24日)
百済の加須利君(蓋鹵王)は人づてに池津媛( 適稽女郎ちゃくけいえはし)が焼き殺されたことを聞き、議って「昔、女を献上して釆女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と言った。そしてその弟の軍君(昆支君)に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と告げた。軍君は「君の命を違えることはできません。願わくは、君の 婦みめを賜り、その後に遣わして下さい」と答えた。加須利君は孕んだ婦を軍君に与えて、「我が孕める婦は臨月に当たる。もし途中で出産したら、一つの船に乗せて、どこかからでも速やかに国に送り返してくれ」と言った。そして共に別れの言葉を述べて 朝みかどに遣わした。【雄略天皇五年四月条】
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461年6月24日孕んでいた婦は加須利君の言ったように、筑紫の 各羅嶋かからのしまで子を産んだ。それでこの子の名を嶋君という。そこで軍君は一つの船で嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を 主嶋にりむせまという。【日本書紀 雄略天皇五年六月丙戌朔条】
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461年(7月23日 ~ 8月21日)軍君が 京に入った。既に五人の子があった。【日本書紀 雄略天皇五年七月条】
辛丑年に蓋鹵王が弟の昆支君を遣わした。大倭に参上して天王に仕えた。そして兄王の好を修めた。【五年七月条 百済新撰云】
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(476年11月3日 ~ 477年1月29日)高麗こま王が大軍を起こして百済を滅ぼした。わずかな生き残りがいて、 倉下へすおとに集まっていた。兵糧は既に尽き、深く憂え泣いた。高麗の諸将は王に「百済の心ばえはよくわからない。私は見るたびに迷ってしまいます。おそらくまた蔓延るではないでしょうか。どうか追い払って下さい」と言った。王は「よろしくない。百済国は日本国の 官家みやけとして久しいと聞く。またその王は天皇に仕えているのは、近隣諸国はみな知っている」と言った。それで取り止めた。
【日本書紀 雄略天皇二十年冬条】
蓋鹵王乙卯年冬。 狛こまの大軍がやって来て、 大城こにさしを攻めること七日七夜。王城は陥落した。ついに 尉礼いれ国を失った。王・大后・王子らは、みな敵の手によって殺された。【雄略天皇二十年冬条 百済記云】

文周王 ぶんしゅうおう

父 蓋鹵王がいろおう 子 三斤王さんきんおう【母:不明】
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477年(3月30日 ~ 4月28日)雄略天皇は百済が高麗のために破れたことを聞いて、 久麻那利こむなりを汶洲王に賜って、その国を救い興した。時の人みながいうには、「百済国の一族は既に亡び、 倉下へすおとに集まって憂えていたが、実に天皇の救いで、またその国を造った」と。
汶洲王は蓋鹵王の母の弟である。日本旧記に云うには、久麻那利を末多王に賜ったという。しかしこれは誤りである。久麻那利は任那国の 下哆呼利県あるしたこりのこおりの別れの邑である。【日本書紀 雄略天皇二十一年三月条】

三斤王 さんきんおう
父 文周王ぶんしゅうおう

出来事
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479年(5月7日 ~ 6月5日)

百済の文斤王が薨じた。雄略天皇は昆支王の五人の子の中で、第二王子の末多王が幼くして聡明なので、勅して内裹に呼んだ。自ら頭を撫で、懇ろに戒めて、その国の王とした。そして兵器を賜った。あわせて筑紫国の兵士五百人を遣わして、国に守り送らせた。これを東城王という。【日本書紀 雄略天皇二十三年四月条】

東城王(とうじょうおう、生年不詳 – 501年)は百済の第24代の王(在位:479年 – 501年)である。『三国史記』によれば、諱を牟大、あるいは摩牟とし、第22代の文周王の弟の昆支の子とする。名と系譜については以下の異説がある。

『南斉書』では牟大とし、牟都(文周王?)の孫とする。『梁書』では牟太とし、余慶(第21代蓋鹵王)の子の牟都(文周王?)の子とする 。また、牟都を牟大・牟太の転訛と見る説もある。ただし『三国史記』百済本紀・東城王紀末文では、古記に基づいて牟都という王はいないこと、牟大(東城王)は蓋鹵王の孫であり蓋鹵王を牟都とは言わないことを挙げ、『南斉書』の記述に対して疑義を唱えている。『日本書紀』では、蓋鹵王の弟で日本に来ていた昆支王(昆伎王)の第二子の末多王(またおう)とする。『三国遺事』王暦では、名を牟大または摩帝、余大とし、先代の三斤王の堂弟(父方の従弟)とする。子に武寧王。

武寧王 ぶねいおう 在位502ー523
父 蓋鹵王がいろおう 【日本書紀 雄略天皇五年六月丙戌朔条】

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雄略天皇5年4月

百済の加須利君(蓋鹵王)は人づてに池津媛( 適稽女郎ちゃくけいえはし)が焼き殺されたことを聞き、議って「昔、女を献上して釆女とした。しかし無礼にも我が国の名を貶めた。今後は女を献上してはならない」と言った。そしてその弟の軍君(昆攴君)に「お前は日本に行って天皇に仕えよ」と告げた。軍君は「君の命を違えることはできません。願わくは、君の 婦みめを賜り、その後に遣わして下さい」と答えた。加須利君は孕んだ婦を軍君に与えて、「我が孕める婦は臨月に当たる。もし途中で出産したら、一つの船に乗せて、どこかからでも速やかに国に送り返してくれ」と言った。そして共に別れの言葉を述べて 朝みかどに遣わした。【日本書紀 雄略天皇五年四月条】
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雄略天皇5年6月1日孕んでいた婦は加須利君の言ったように、筑紫の 各羅嶋かからのしまで子を産んだ。それでこの子の名を嶋君という。そこで軍君は一つの船で嶋君を国に送った。これが武寧王である。百済人はこの島を 主嶋にりむせまという。
【日本書紀 雄略天皇五年六月丙戌朔条】

武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として献上する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には「百済の末多王(牟太,東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」としている。

継体天皇6年(513年)に、任那の上哆唎(オコシタリ、現在の全羅北道鎮安郡及び完州郡)・下哆唎(アロシタリ、忠清北道錦山郡及び論山市)・娑陀(サダ、全羅南道求礼郡)・牟婁(ムロ、全羅北道鎮安郡竜潭面)の四県、7年(514年)に己汶(コモム、全羅北道南原市)・滞沙(タサ、慶尚南道河東郡)の地をそれぞれ、倭国から百済に譲渡した。これに応えて百済は517年に、日本に送っていた博士段楊爾に代えて五経博士漢高安茂を貢上した。
武寧王陵編集

1971年に忠清南道公州市(かつての熊津)の宋山里古墳群から墓誌が出土し、王墓が特定された。墓誌には

「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到」
と記され、王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は王妃を合葬した磚室墳で、棺材が日本にしか自生しないコウヤマキと判明したことも大きな話題となった。この他、金環の耳飾り、金箔を施した枕・足乗せ、冠飾などの金細工製品、中国南朝から舶載した銅鏡、陶磁器など約3000点近い華麗な遺物が出土した。

百済本紀に、辛亥の歳(531年)に「日本の天皇及び太子・皇子、供に崩薨」の記事

人物画像鏡編集

和歌山県隅田(すだ)八幡神社所蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に、

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」
(癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る) とあり、「癸未年」(503年)、「男弟王」(武烈か継体か)が「意柴沙加宮」(忍坂宮,石坂宮)にいたとき、鏡を作らせて男弟王の長寿を祈って鏡を献上した「斯麻」が知られる。これは武寧王のことであるとの見方が強い。

聖明王 在位523ー554

聖王(せいおう、? – 554年7月)は、百済の第26代の王(在位:523年 – 554年)。先代の武寧王の子。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明穠。先王が523年5月に死去したことにより、王位についた。『日本書紀』には聖明王または明王とあり、武寧王の死去の翌年524年正月に即位したとある。『梁書』には明の名で現れる。

梁からは524年に〈持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王〉に冊封され、新羅と修好するなど、中国南朝と結び、また新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとする百済の伝統的な外交態勢を再び固めた。しかし529年には高句麗の安臧王‎の親征に勝てず、2000人の死者を出した。538年に首都を熊津(忠清南道公州市)から泗沘(忠清南道扶余郡)に移し、「南扶余」と国号を改めた。新羅との連携についても、南方の伽耶諸国の領有を争って不安定なものとなり、新羅への対抗のために殊更に倭(ヤマト王権)との連携を図った。

541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請した(いわゆる任那復興会議)[1]。百済のヤマト王権に対する要請は、百済主導の伽耶諸国の連合体制を承認することと、新羅に対抗するための援軍の派遣とであったが、欽明天皇から武具や援軍が送られたのは547年以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回したが、553年に同地域は新羅に奪われてしまった。同年10月に王女を新羅に通婚させているが、554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。在位32年。諡されて聖王といった。

梁に朝貢して毛詩博士、涅槃経の教義、工匠・絵師などを下賜されるなど、中国文物の受容に努め、国内では仏教を保護して大通寺を建立した。また、梁との交易によって手に入れた扶南国(カンボジア)の文物を倭国に対して送ったことも伝えられている。

威徳王 在位526-598

威徳王(いとくおう、526年? – 598年12月)は、百済の第27代の王(在位:554年 – 598年)。先代の聖王の長子。皇子に阿佐太子がいる。
諱は『三国史記』百済本紀・威徳王紀では昌、『三国遺事』王暦では高、または明。554年7月に先王が戦死したので王位についた。『日本書紀』によれば、生年は526年頃と推測され、聖王の死後すぐには即位せず557年3月に即位したとされる。『隋書』などには余昌と記される

即位の後は中国北朝の北斉や北周・隋、南朝の陳に朝貢して冊封体制下に入り、倭・伽耶諸国と呼応して新羅・高句麗との戦いを続けた。561年7月には欽明天皇の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込んだが、新羅の策略にはまり敗北して撤退している。任那はこのころ滅亡し、伽耶諸国は完全に新羅に属するようになった。
570年には、北斉の後主に使節を送り〈使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡公・百済王〉に封じられ、翌571年には同じく北斉から〈使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史〉に封じられた。北斉が滅び隋が興ると、581年に隋に使節を送り、〈上開府・儀同三司・帯方郡公〉に封じられた。589年には、陳を平定した隋の軍船が耽牟羅国(済州島)にたどり着き、威徳王はこの船が帰るときに援助するとともに、隋に使者を送って中華統一を祝賀した。このことを隋では喜んで、毎年の朝貢は不要との免除を与えた。598年9月には隋に使者を送って、高句麗との戦争の際に道案内をすること申し出たが、既に戦争は一段落していたために話は沙汰やみになった。その事を聞きつけた高句麗は百済に侵攻してくることとなった。
在位45年にして598年12月に死去し、群臣が協議して威徳王と諡した。

恵王

恵王けいおう、? – 599年)は、百済の第28代の王(在位:598年 – 599年)。第26代の聖王の次男。諱は季。598年12月に先代の昌王(威徳王)が死去したため即位した。『三国史記』では即位と在位2年目(599年)に死去して恵王と諡されたことを記すのみである。

『隋書』百済伝には「昌死、子余宣立、死、子餘璋立。」とあり、昌(威徳王)の子の宣(法王)、その子の璋(武王)と伝えており、恵王は認識されていないようである。『日本書紀』には欽明天皇16年(555年)2月に聖明王(聖王)が亡くなったことを知らせるために昌(威徳王)が送った使者として恵の名で現れ、威徳王の弟であることを記している。『三国遺事』では威徳王の子とし、別名として献王という。

法王

法王(ほうおう、生年不詳 – 600年)は、百済の第29代の王(在位:599年 – 600年)。先代の恵王の長男。諱は宣、または孝順。599年に恵王の死去に伴い即位した。『隋書』百済伝では昌(第27代威徳王)の子とし、余宣の名で現れる。

仏教を厚く信仰していた王で、即位年12月に殺生禁止令を出し、民家で育てる鷹をすべて放生するようにして狩りに使われる道具も焼却した。600年には王興寺の建立を開始し、僧侶30人を得度させた。また、旱魃が続いたため、漆岳寺で雨乞いを行った。同年5月に死去し、法王と諡された。
王興寺は次の武王の35年(634年)に完成した。寺址が忠清南道扶余郡窮岩面新里の蔚城山山腹とされている。

武王  在位  600ー641

武王(ぶおう、580年? – 641年)は、百済の第30代の王(在位:600年 – 641年)。27代王の威徳王 の子。諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余璋の名で現れる。

最初、新羅と高句麗と戦っていたが、隋の煬帝の高句麗征伐(隋の高句麗遠征)に参加せず、二面外交を行い、高句麗と和解し、新羅を盛んに攻め立てた。

朝鮮半島内での三国の争いは激しくなり、百済においても新羅においても、高句麗への対抗のために隋の介入を求める動きが活発となっていた。武王は607年及び608年に、隋に朝貢するとともに高句麗討伐を願い出る上表文を提出し、611年には隋が高句麗を攻めることを聞きつけて、先導を買って出ることを申し出た。しかしその陰では高句麗とも手を結ぶ二股外交をしており、612年に隋の高句麗遠征軍が発せられたときには、百済は隋の遠征軍に従軍はしなかった。一方で新羅とは南方の伽耶諸国の領有をめぐって争いが絶えず、602年8月に新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王の派遣した騎兵隊の前に大敗を喫した。611年10月には椵岑城(忠清北道槐山郡)を奪い、616年にも母山城(忠清北道鎮川郡)に攻め入った。618年に椵岑城は新羅に奪い返されているが、その後も同城周辺での小競り合いが続いた。

隋が滅びて唐が興ると621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に冊封されている。その後626年に高句麗と和親を結び、盛んに新羅を攻め立てるようになった。627年には新羅の西部2城を奪い、さらに大軍を派遣しようとして熊津に兵を集めた。新羅の真平王は唐に使者を送って太宗に仲裁を求めたが、武王は甥の鬼室福信を唐に送って勅を受け、表面的には勅に従う素振りを見せたものの、新羅との争いはやまなかった。

先代の法王が建立を開始した王興寺(忠清南道扶余郡)を634年に完成させ、また弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。

在位42年にして641年3月に死去し、武と諡された。この後に使者を派遣して唐に報告したところ、太宗は哭泣の儀礼を以て悼み、武王には〈光禄大夫〉の爵号が追贈された。

義慈王
義慈王(ぎじおう、599年 – 660年)は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 – 660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈として現れる。
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝、泰、隆、演、豊璋、勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人。

幼い頃から父母を非常に敬って、兄弟と親しく過ごしたから臣民らが彼を「海東曽子」と呼んで 称頌をした。また太子の名前を「孝」と付けたほど親孝行を強調した。632年に太子に立てられ、641年に先代の武王の死により即位し、唐からは「柱国・帯方郡王・百済王」に封ぜられた。

義慈王は即位するとただちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた[3]。

642年7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった[4]。

この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立させて追い詰めようとしていたところが、新羅と唐との接触を招くこととなった。このとき唐からは百済・新羅の両国に対して和平を進めた。しかしこの後も644年から649年にかけて新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗した。

651年に唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらず、655年には高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、既に朝政を顧みなかったという。また、これを厳しく諫めた佐平の成忠(あるいは浄忠)を投獄したため、この後諫言する者はいなくなった。

660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(唐・新羅の同盟)して百済を攻めることとなった。百済の側では迎撃と籠城とで意見が分かれたが、白江(錦江の支流)に引き込んで迎撃することとなり、結果として大敗を続けた。唐・新羅軍が首都の泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると、義慈王はいったん太子とともに北方へ逃れた。このときに王の第2子の泰が自ら王を名乗って泗沘城を固守したが、太子の子の文思が隆に相談して、唐軍が去ったとしても自立した泰に害せられることを恐れて投降した。これを見た泰も開城して投降し、逃げのびていた義慈王も諸城をあげて降伏し、ここに百済は滅んだ。

義慈王は妻子とともに長安に送られ、そのまま唐で病死し、「金紫光禄大夫・衛尉卿」の爵号を贈られた。また、隆には司稼卿の爵号が贈られた。

滅亡ののち

百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国の軍事援助を受け、復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗して失敗に終わった。また唐は、百済旧領を熊津都督府を置いて羈縻州としたが、百済遺民を慰撫するため、665年、義慈王の王子の扶余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当たった。その後、新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗、百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。677年2月、唐は扶余隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王に格上げし、熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。682年、隆は洛陽に没し、輔国大将軍の爵号を追贈された。武則天が隆の孫の扶余敬に衛尉卿を授けて帯方郡王に封じたが、旧領の回復は全く出来ず、子孫も断絶した。1920年、扶余隆の墓誌が洛陽で出土し、中国正史や『三国史記』等には記載されていない隆の経歴や爵号、生没年などが判明した。