卑弥呼の時代の鉄の鍛冶遺跡、彦根の稲部遺跡

弥生末から古墳時代前期(3世紀~4世紀) の近畿北部の中心的な大都市集落 「彦根市稲部遺跡」 2016.10.22.

卑弥呼の時代に ヤマトと琵琶湖交通・東国を結ぶ結節点近江 に「大和の纏向遺跡に匹敵する大型建物を持つ 鉄の物流拠点 とみられる 都市集落(彦根市稲部遺跡)」が出土し、 2016年10月22日現地説明会が開かれた。 大型建物のすぐそばには、繰り返し継続して建て替えられた多 数の鍛冶工房とみられる竪穴住居跡も出土し、鉄器物流を担う 近江の拠点集落で、初期ヤマト王権に組み込まれていった近江 の大勢力の拠点とみられている。 近江では纏向遺跡に匹敵する大型建物を有する大集落として、 守山市の伊勢遺跡が出土しているが、 この伊勢遺跡を引き継 ぐかのように出土した稲部遺跡。

 
滋賀県彦根市教委は17日、市内の「稲部(いなべ)遺跡」(同市稲部、彦富両町)で 弥生時代終末から古墳時代初め(3世紀前半)の鉄器工房群の遺構が見つかったと発表した。 同時代では他にない規模という。大規模な建物の跡も確認された。 当時、鉄製品の原料は大陸からの調達に頼っており、同時代の邪馬台国について記した中国の史書 「魏志倭人伝」で、大陸と交易があったとされる「三十国」のうちの一つともみられるという。
鉄器工房は30棟以上ある竪穴建物群で、各棟は一辺3.5〜5.3メートルの方形。 うち23棟の床面から鉄片や鉄塊が見つかった。一部に土なども含んだ状態だが、 全体の重さは計約6キロに上るという。 同時に鍛冶や鉄を加工する際に使ったと思われる台石や、鉄製矢尻2個なども見つかった。 一方、鉄器製造が始まった直後に大型の建物が現れた他、鉄器製造が終了した3世紀後半には、 一辺十数メートル規模の大型の建物2棟が相次ぎ出現。 首長の居館や巨大な倉庫として利用され、他の国との物流拠点だった可能性があるとしている。
邪馬台国畿内説の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)では、 より大規模な同時代の建物跡が確認されている。 「魏志倭人伝」では、倭人は現在の韓国・ソウル辺りにあった帯方郡の東南の大海の中にいて、 もとは「百余国」あったが、同書が書かれた3世紀には「使訳(使者や言葉)通ずる所三十国」と 伝えている。

 出典  毎日新聞

彦根の稲部遺跡に先立って、弥生時代の後期(1世紀~2世紀) 近江に纏向に匹敵する大型建物や巨大祭祀空間を有する巨大集 落遺跡「伊勢遺跡」が琵琶湖交通や畿内交通の要衝 守山市の 琵琶湖岸近くに成立していた。 そして、この伊勢遺跡の衰退と入れ替わるがごとく、大型建物 と巨大祭祀空間を有する彦根の稲部遺跡が繁 してゆく。

荒神山 荒神山古墳 稲部遺跡
稲部遺跡のすぐ北にあり、琵琶湖交通の目印でもある荒神山には4世紀末 ヤマトと同じ方式で築かれた 前兆124mの大きな前方後円墳がある。琵琶湖交通・東国・北陸と畿内を結ぶ要衝 近江稲部の地にあって 鉄の交易などの物流を握っていた近江の大勢力の首長の勢力圏にある荒神山。この地に強い勢力があった とは考えられていなかったが、物流拠点を握る大都市集落がベールを脱ぎ、そして その地に前方後円墳 の存在。この稲部の首長がヤマト王権と密接に結びついて重要拠点を握っていたと考えることをよく示し ており、日本の国造りに新しい視点を提供する。

彦根市南部の中心拠点として、市は荒神山古墳(市指定文化財)を国指定の史跡にするため、これまでの調査結果などをまとめた報告書を作成し、年内にも文化庁に提出。年度内の史跡指定を目指している。

市南部の振興は、現市政の諸課題の一つにあがっており、荒神山の整備は南部振興の足掛かりになるとみられるため、史跡指定の行方が注目される。

荒神山は市の西南、琵琶湖岸の宇曽川左岸に位置する標高約284・1㍍の独立の丘陵。山中には前方後円墳(荒神山古墳)、群集墳、日夏城跡など、数多くの文化財がある。

古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳は、山頂から北方へ張り出した斜面に築造。市教委文化財課が平成15年度から19年度にかけて4回の調査をしており、全長124㍍、後円部が径80㍍・高さ16㍍、前方部が幅61㍍・高さ10㍍で、県内2番目の規模を誇ることがわかっている。円筒や筒型の埴輪なども見つかっており、赤色顔料を塗っているなど4世紀後半に作られた埴輪の特徴があるという。同古墳は平成16年度に市指定文化財に指定されている。

古墳時代後期の「群集墳」は、これまでの調査で、稲村神社の奥に17基以上(山王谷支群)、県立荒神山少年自然の家の裏手に6基(日夏山支群)、ほかの単独のものを含めて30基以上が確認されている。これらの群集墳は直径10㍍前後の円墳で、中央に横穴式石室、石室内には棺が置かれ、「須恵器」などが供えられていた。

荒神山古墳調査レポートに

荒神山古墳は琵琶湖に向かって眺望が開けており、琵琶湖を意識した築造となって
いる。荒神山古墳や瓢箪山古墳が築かれた古墳時代前期後半には、それ以外にも大津市膳所 茶臼山古墳・湖北町若宮山古墳・志賀町和迩大塚山古墳などの前方後円墳が、琵琶湖を望む 湖上交通の要衝に築かれるという共通点がある。荒神山古墳に埋葬された首長は、湖東北部 地 域 を 統 括 し た 有 力 首 長 で あ り 、大 和 の 王 権 と も 深 い つ な が り を も っ た 首 長 で あ る と と も に 、 環琵琶湖の湖上交通の権益も掌握していたことが推定され、古墳時代前期の近江の歴史を解き明かす上で重要な首長墳ということができよう。

県内の前期の古墳
東近江市神郷亀塚古墳 (弥 生時代後期末 。全長37.9m)。 高島市熊野本古墳群中の6号墳 (弥生時代後期末・全長27 m)。 長浜市高月町古保利古墳群中の小松古墳 (弥生時代後期末・全長60m)そ して大津市皇子山1号墳 (古墳時代前期前半・全長60m)などが知られている。中でも愛知川左岸に位 置する神郷亀塚古墳は3.8mの盛土を残しており、明らかに高塚を意図して構築されている 点でも従来の方形周溝墓とは異なっている。
参考に、氏族調べ

犬上君の出自につきましては、『日本書紀』景行天皇五十一年八月四日条に、犬上君の始祖系譜が掲載されています。これによりますと、犬上君は日本武尊の子稲依別王の子孫とされております。「是犬上君・武部君、凡て二つの族の始祖なり」とあります。この始祖系譜から言える事は、日本武尊というのは、悲劇の皇族将軍と言われるように、大和政権の軍事的な活動との関わりを指摘されております。ご存知の通り上田正昭先生は、早く「武部」については日本武尊の名代・子代ですけれども、軍事的な部と考えておられます。またこの始祖系譜に犬上君とともに見える武(建)部君は、宮殿の十二の門を守る「宮城十二門号氏族」の中に見えておりまして、天皇の親衛隊、軍事的な氏族と考えられています。したがって犬上君も、この系譜によりますと、やはり軍事的な背景を持った氏族ではないかということが言えるのではないか。

そのことを裏付けるのが、『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条の記事でございます。これはご存知の神功皇后が朝鮮半島へ渡るという記事で、その帰途、筑紫で応神天皇を生んだ後、母と子がともに大和に戻ることが書かれ、その時、応神天皇の異母兄弟である坂王と忍熊王が皇位を奪おうと反乱を起こすという記事があります。この記事の中に、「犬上君の祖倉見別と吉師の祖五十狭茅宿禰と、共に坂王に隷きぬ」とあり、続けて「因りて将軍として東国の兵を興さしむ」と書かれています。この記事から犬上君の祖倉見別が、五十狭茅宿禰と共に、坂王・忍熊王側の将軍として重要な役割を果たしていることが判ります。この反乱は、坂王・忍熊王の敗北で終わるのですが、五十狭茅宿禰はこの後も、瀬田川で殺されるという記事があります。

稲部なので、稲依別命に関わる遺跡か

日本武尊が近江の安(野洲)の国造の祖の意富多牟和気の女布多遅比売を娶って生んだ稲依別王が犬上君と建部君らの祖となった。

あるいは、伊勢の忌別か

海人族にも関わらず、奉斎するのは作金者(かなだくみ)の神、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と兄弟または同神とされる、天之御影命(あめのみかげのみこと)。「古語拾遺」によれば、筑紫・伊勢の忌(斎)部氏の祖も、この神とされている

あるいは、海上氏か

莵上王を祀る神社は、実は三重県にあります。いなべ市の莵上神社と四日市市の菟上耳利神社(うなかみみみとし神社)がそれです。四日市市の神社の名前が莵上耳利とあるのは、明治時代に耳利神社が合祀されたためで、それまでは莵上神社でした。どちらの神社も祭神は莵上王です。
参考

滋賀の神郷亀塚古墳:最古級の前方後方墳
滋賀県能登川町神郷亀塚古墳が、3世紀前半の最古級の前方後方墳と分かり、同町教委が1日発表した。3世紀前半は弥生時代から古墳時代への移行期とされ、亀塚古墳も弥生の周溝墓と同様、平地に築かれているが、古墳のような高い墳丘を持つ過渡的な形。前方後方墳の発生過程や、前方後円墳を造った大和の勢力に対抗した狗奴国(くなこく)との関係を考える上で貴重な資料。
同町教委によると、埋葬部付近から弥生時代後期の土器が見つかり、3世紀前半と判断した。古墳の全長は約35.5メートル、周溝は最大幅が12メートル、深さ1.2メートル。後方部は奥がやや広がり、高さは約3.6メートルで、当時の墳丘の1、2メートルより高い。周辺には幾つかの集落があり、地域の有力者の墓とみられる。

前方後方墳は東日本に多く、濃尾平野付近が発祥地とみられているが、亀塚古墳が過渡的な性格を示しているほか、滋賀県内では高月町でも3世紀半ばの小松古墳が見つかるなど古い前方後方墳が多く、近江が発祥地の可能性も出てきた。

前方後方墳ルーツか
石野博信・徳島文理大教授(考古学)の話
平野にある前方後方墳で、すべて盛り土でこれほど古いものがあるのかと思った。滋賀県高月町の小松古墳と併せて、琵琶湖の東・北地域が前方後方墳のルーツになる可能性が出てきた。神郷亀塚古墳を造った勢力が、邪馬台国と仲の善しあしは別にして、交流があったことは間違いなく、当時のクニグニの動向を考えるうえで、極めて重要な発見だ。
2001年2月2日(金)  山陰中央新報より