魏志倭人伝の奴国
(奴国の記述)倭奴国でなく奴国
【帯方(たいほう)郡から倭(わ)へ行くのには】
朝鮮半島の海岸づたいに、海上を行く。南に行ったり東に行ったりしながら進むと、狗邪韓(くやかん)国に着く。ここまでの距離は7,000余里である。
始めて海を渡ると、1,000余里で対馬国に着く。
更に南に海を渡ると、1,000余里で一支国に着く。
更に海を渡ると、1,000余里で末盧国に着く。
陸上を東南に500里行くと、伊都国に着く。
東南に奴(な)国がある。距離は100里である。
東に行くと不弥(ふみ)国に着く。距離は100里である。
南に投馬(とうま)国がある。海上を20日かかる。(水行20日)
南に邪馬台国がある。女王の都する所である。海上を10日・陸上を1月かかる。(水行10日・陸行1月)
【ここに女王の勢力範囲内の21カ国が国名のみ記されている。次に女王の勢力範囲に入らない狗奴(くな)国が記されている。】
帯方(たいほう)郡より女王国までの距離は12,000余里である。
奴国の描写
「次に奴国ありて、これ女王の境界の尽くる所なり。其の南に狗奴国ありて、」、
「其の八年(二四七年)、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ヒミココ、天孫火瓊瓊杵)と素より和せず。」
「国の高官を馬觚(しまこ)、副官を卑奴母離(ひなもり)という。」
伊都国の描写「国の高官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)という。代々(だいだい)王がいるが皆女王国に服属している。帯方郡使が往来するときには常に留まる所である。」
このように伊都国は奴国と違い、代々王がいること、郡使が常に留まる所など、王権が強かったと思われる書き方である
魏志倭人伝の戸数
【女王勢力の範囲内とされる諸国】
狗邪韓国 戸数記述なし
対馬国 1,000余戸
一支国 3,000許家(約3,000戸)
末盧国 4,000余戸
伊都国 1,000余戸
奴国 20,000余戸
不弥国 1,000余戸
投馬国 50,000余戸
邪馬台国 70,000余戸
その他の21カ国 戸数記述なし
「世有王皆統屬女王國」について「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、それは倭の国々のことである。これを裏付ける資料として『魏志倭人伝』と同時代に書かれた『魏略』逸文がある、『魏略』逸文では「東南五百里 到伊都國 戸万餘 置曰爾支 副曰曳渓觚 柄渠觚 其国王皆屬王女也」とあり『魏志倭人伝』にある「世有王」が『魏略』にはなく、『魏略』の文中で「皆」が指しているのは其国王で倭国の王達のことである。従って同一の資料(又は『魏略』)を参考に作成されたと見られる『魏志倭人伝』の「皆統屬女王國」の「皆」も同様に倭国の国々を指していると考えられる。「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
狗奴国の位置
邪馬台国はその南にある狗奴国という国と争いを続けていたことや、その国の男王がヒミココで、官にクコチヒコがいたこと、その争いはかなり激しく、それも邪馬台国が郡に窮状を訴えるほど不利な状況もあったことがわかる。さらに、郡より応援にきた郡使が詔書と黄幢(こうどう)を伊都国王の難升米にさずけ、魏の支援があることを狗奴国に示したことと、郡使が檄文を発して告諭したとある。
筑肥山脈の南、熊本平野の山鹿市、菊地市、玉名市、熊本市等がある一帯である可能性が強い。その理由は、この地が想定される邪馬台国の南にあたり、邪馬台国を追いこむほどの力を持った国の存在として大きな生産力を持つ熊本平野があり、また、官名の狗古智卑狗(クコチヒコ)の呼称が菊地彦を連想させるため、この地にある菊地郡や菊池市がその名の由来ではないかと考えられるためである。狗奴の読み方もクナと読んでいるが正確にはわからず、クォノ、クマノなどの可能性もあり、九州南部に存在していたクマソと呼ばれる勢力との関連性が注目される。熊本県南部には球磨郡、球磨川などがある。
後漢書<倭伝>の「倭奴国」
5世紀前半成立
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印
綬。(『後漢書』卷八十五、東夷列傳第七十五)
●● (中元)二年春正月辛未,初立北郊,祀后土。東夷倭奴國王遣使奉獻。(『後漢書』卷一下、光武帝紀第一下)
(光武帝の)建武中元2年(西暦57年)倭奴国が朝貢してきた。使者は自ら大夫と称している。(倭奴国は)倭国の極南界である。
光武帝は印綬を下賜した。
「隋書」倭国伝の「倭奴国」
安帝の永初元年(107年)
7世紀前半成立
「難升米」と「帥升」
後漢の光武帝(こうぶてい)の時(西暦57年)に、朝貢してきた。使(つかい)は自ら大夫を名乗っている。
また、(同じく後漢の)安帝の時(西暦107年)、使(つかい)が来て朝貢した。この国は倭奴国である。
(「後漢書」<光武帝紀>に倭奴国の(注)
「倭は帯方から東南の方角の大海の中にある。」とあるのは、(注)の記述者が「倭奴国」を「倭の奴国」と読んだために「倭」について説明したのである。
(参考) 「後漢書」<光武帝紀>
(本文)5世紀前半成立
(光武帝の中元)2年(西暦57年)1月、 東夷の倭奴国王は使(つかい)を送って朝貢した。
(注)7世紀後半完成
倭は帯方から東南の方角の大海の中にある。
『三国志』魏書東夷伝馬韓の冒頭
「韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接(韓は帯方の南に在り、東西は海を以って限りと為す、南は倭と接す)」
とあり、韓と倭は接していた(陸続きであった)。
続いて「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里(帯方郡より倭に至ること、海岸を水行し循って韓国を歴する。たちまち南し、たちまち東す。その北岸狗邪韓國に到る。7,000余里である。)」とあり帯方郡より倭北岸狗邪韓國までは、7,000余里である。
韓半島南部にあったにも係わらず狗邪韓国は『魏志倭人伝』に記されており、また「其北岸狗邪韓國」「其(倭国)の北岸の狗邪韓国」とあるので、狗邪韓国は倭人の国である。
隋書倭国伝
倭国は百済・新羅の東南にある。水陸三千里、大海の中において、山島によって居る。魏の時、訳を中国に通ずるものが三十国、みなみずから王と称した。(略) その地勢は、東が高くて西が低く、邪摩堆に都する。すなわち『魏志』のいわゆる邪馬台というものである。(略)
漢の光武帝の時(25~57)、使を遣わして入朝し、みずから大夫と称した。安帝(106~125)の時、また使を遣わして朝貢した。これを倭奴国という。桓帝(147~167)・霊帝(168~188)の間、その国大いに乱れ、たがいに攻伐し、歴年、主がなかった。女子がおり、名は卑弥呼、よく鬼道をもって衆を惑わした。(略)
魏(220~265)から斉(479~501)・梁(502~557)に至り、代々、中国とたがいに通じた。
開皇二十年(600)、倭王がおり、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雛弥と号した。使を遣わして闕に詣った。(略) 使者がいうには「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理務をとどめ、わが弟に委せよう、という」と。(略)
阿蘇山がある。その石は、故なくて火がおこり天を接するもので、習慣として異となし、よって祷祭を行う。
これを素直に読むかぎりには、魏志倭人伝の卑弥呼の頃よりずっと、倭国が続いており、代々中国側と交渉があり、ったと言っている。そして近くは、開皇二十年(600)、倭王・多利思比孤が使を遣わして闕に来た、と言っている。また、その国には、阿蘇山がある、と言っている。
「旧唐書倭国日本伝」
倭国と日本を分けて書いてある。
倭国は古の倭奴国なり。(略) 世々中国と通ず。(略)
貞漢五年(631)、使を遣わして方物を献ず。(略)
ここでは、「倭国は、昔の倭奴国、つまり、1-6で検討した後漢書の倭奴国の頃の1世紀より、代々中国と通じていた そして、631年に使いが来た」と言っている。
日本国は倭国の別種なり。其の国日辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或は曰う、倭国自ら其の名の雅ならざるをにくみ、改めて日本と為すと。或は曰う、日本はもと小国、倭国の地を併せたりと。(略)
長安三年(703)其の大臣朝臣眞人、来りて方物を貢す。(略)
ここで初めて、大和朝廷がつかった日本国の名が出てきたのだが、日本国と名乗る使節に対して、中国側のとまどった様子が書かれている。 そして703年に初めて大和朝廷は、粟田眞人を遣唐使として派遣したのである。
「倭国改め日本という名を、近畿の王朝が踏襲した」と。或いは、「日本(近畿王朝)は旧は小国で、倭国の地を併せた」と言っております。
『旧唐書』は、二つの王朝を、明確に表記しています。
また、『新唐書』「百済伝」でも、白村江の戦いでの唐の交戦相手は「日本」ではなく「倭国」としています。
倭国が滅びた段階で近畿の日本国(近畿王朝)は、大宝二年(702)に唐(事実は「周」)の則天武后に承認され、大宝三年(703)新たに正式な外交関係を樹立したのです。それは「唐朝」から始まりました。
即ち、新生「日本国」の成立は、大宝元年(701年)3月21日“文武天皇”に始まります。
九州年号の最後の「大化七年」が九州王朝の終焉と一致し、続く「大宝元年」(701年3月21日)が近畿王朝の最初の年号となっておる。