美濃王(みののおおきみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。旧仮名遣いでの読みは「みののおほきみ」。御野王、三野王、弥努王、美努王はいずれも同音
672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に味方し、天武朝の皇親政治の一翼を担った。同時代に壬申の乱で中立を保った同名の美努王がおり、文献に出る「みののおおきみ」のどれが誰なのかについて諸説ある。
壬申の乱において尾張は、天武天皇こと大海人皇子(おおあまのおうじ)に味方し、尾張宿禰大隅は館と軍資を提供し、尾張国司の小子部連(ちいさこべのむらじ)は二万もの兵を率いて帰属しています。
「稲沢の地には、あの天武朝のきっかけを作った初代尾張国守(国司)小子部(わかこべ)連さひちを祭る浅井神社(式内社カ)が存在しているという。」
栗隈王の子の三野王
壬申の乱で別に筑紫大宰の栗隈王の子として三野王が登場するからである。三野王は中立を保つ父とともに筑紫にあり、距離が離れ態度が異なるので美濃王とは明らかに別人である。
『日本書紀』『古事記』『新撰姓氏録』では三世王とする。
敏達天皇-難波皇子-栗隈王-美努王
『尊卑分脈』では四世王とする。
敏達天皇-難波皇子-大俣王-栗隈王-美努王
天武天皇4年(675年)3月16日に、諸王四位の栗隈王が兵政官長に、大伴御行が大輔に任じられた。天武天皇5年(676年)6月、四位で病死した。『続日本紀』『新撰姓氏録』に贈従二位とある。なお、『姓氏録』を基に栗隈王の父を難波皇子とする説が広く行われているが、二者の活動年代には隔たりが大きく(約80年)、父子関係を疑問視する向きもある。この場合、『公卿補任』『尊卑分脈』の記載から、難波皇子と栗隈王の間に「大俣王(おおまたのおおきみ)」を1代補うことが出来る。
県犬養三千代は天武朝から命婦として仕えたほか文武天皇の乳母を務めたともされ、後宮の実力者として皇室と深い関係にあった。三千代は初め美努王の妻となり、葛城王や佐為王を生んだ。694年に美努王が大宰帥として九州へ赴任すると、代わって藤原不比等の夫人となり、藤原光明子(光明皇后)らを生んだ。和銅元年(708年)11月25日、元明天皇の大嘗祭に際して、天武天皇治世期から永く仕えてきた三千代の功績が称えられ、橘の浮かんだ杯とともに「橘宿禰」の氏姓が賜与された。
『日本書紀』には、天智天皇7年(668年)7月に栗前王が筑紫率、8年(669年)正月に蘇我赤兄が筑紫率、10年(671年)5月に栗隈王が筑紫帥に任命されたとある。この栗前王と栗隈王は同一人物とされる。7年と10年の任命記事は同じことが別の年に再掲されたものだとする説がある。栗隈王は壬申の乱が勃発したときにも筑紫太宰の地位にあって筑紫にいた。筑紫率、筑紫帥、筑紫大宰は同じ官職の別表記と考えられている。
当時の日本は白村江の戦いで敗れてから朝鮮半島への進出を断念していたが、半島では新羅と唐が戦い続けていた。百済・高句麗は滅ぼされたが、唐は新羅支配下にある百済の復興運動を、新羅は唐支配下にある高句麗の復興運動を後押しし、各国とも日本に使者を派遣して親を通じようとした。それゆえ筑紫帥の役割は軍事・外交ともに重要であった。
壬申の乱
壬申の乱(672年)は6月から7月の一か月間の出来事であった。乱の勃発時、近江宮の朝廷は筑紫大宰に対して兵力を送るよう命じる使者を出した。このとき大友皇子(弘文天皇)は、栗隈王がかつて大海人皇子(天武天皇)の下についていたことを危ぶみ、使者に対して「もし服従しない様子があったら殺せ」と命じた。
使者に渡された符(命令書)を受けた栗隈王は、国外への備えを理由に出兵を断った。「筑紫国は以前から辺賊の難に備えている。そもそも城を高くし溝を深くし、海に臨んで守るのは、内の賊のためではない。今、命をかしこんで軍を発すれば、国が空になる。そこで予想外の兵乱があればただちに社稷が傾く。その後になって臣を百回殺しても何の益があろうか。あえて徳に背こうとはするのではない。兵を動かさないのはこのためである。」(現代文訳)というのが書紀が載せた栗隈王の言葉である。
使者の佐伯男は、大友皇子の命令に従って栗隈王を殺そうと剣を握って進もうとした。しかし、栗隈王の二人の子、三野王(美努王)と武家王が側にいて剣を佩き、退く気配がなかったため、恐れて断念した。
この時、本当に三野王は、太宰府にいたのか?。
大海人皇子と美濃王
壬申の乱が勃発したとき、吉野宮にいた大海人皇子は兵力を持たず、使いをたてて東国で兵を集めさせつつそちらに向かった。莬田(大和国宇陀郡)で美濃王を呼び出したところ、美濃王は一行に従った。その後の内戦での美濃王の行動については記録がない。
(1) 天武天皇2年(673年)12月17日に、小紫(従三位)・美濃王は、小錦下・紀訶多麻呂 とともに造高市大寺司に任じられた。高市大寺は大安寺の前身。
「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」では御野王と記される。
(2) 天武天皇4年(675年)4月10日に、小紫(従三位)・美濃王は小錦下・佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野(奈良県三郷町立野)で風神を祀った。奈良県三郷町立野にあたる。天武朝では、竜田風神と広瀬大忌神の祭りは『日本書紀』に連年記録された重要な祭祀で、その初見がこの年のものである。
(3) 天武天皇10年(681年)3月17日に、天皇は帝紀と上古の諸事を記し、確定させた。その詔を受けたのは、川島皇子、忍壁皇子、広瀬王、竹田王、桑田王、三野王、上毛野三千、忌部首、安曇稲敷、難波大形、中臣大島、平群子首であった。
(4)天武天皇11年(682年)3月1日に、小紫・美濃王及び宮内官大夫等に命じて新城(平城)に遣いして、其の地形をみるように命令する。新しい都を作ろうとされた。
天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(5) 天武天皇13年(684年)の2月28日には、三野王は采女筑羅とともに信濃国に遣わされ、地形を見るよう命じられた。
(6) 天武天皇閏4月11日に、三野王は信濃国の図を提出した。
(7) 天武天皇14年(683年)9月11日に、天皇は宮処王、広瀬王、難波王、竹田王、弥努王を京と畿内に遣わして、人々の武器を検査した。
(8)持統天皇8年(694年)9月22日に、浄広肆(従五位下)三野王は筑紫大宰率に任命された。
美努王
『六国史』による。
持統天皇8年(694年) 9月22日:筑紫大宰率
大宝元年(701年) 正五位下(大宝律令施行による)。11月8日:造大幣司長官
大宝2年(702年) 正月17日:左京大夫
時期不詳:従四位下
慶雲2年(705年) 8月11日:摂津大夫
和銅元年(708年) 3月13日:治部卿
美努王
父:栗隈王
母:大伴長徳の娘
妻:県犬養三千代
男子:橘諸兄(684-757)
男子:橘佐為(?-737)
女子:牟漏女王(?-746)
壬申の乱 最大の功労者か
『壬申紀』に記録されている兵士の数は、順を追って、
「草壁皇子・忍壁皇子他二十人あまり」
「女孺十人あまり」
「猟師二十人あまり」
「鈴鹿で五百の軍勢」
「美濃の軍勢三千人」
「馬来田の同族数十人」
であるから、最後についた「尾張」の二万人が、いかに多勢であるか。
「壬申の乱」は一般に、地方豪族が「大海人」に味方した、という図式
で語られることが多いようである。
しかし、『日本書紀』をみる限りでは、その全部と言っていいくらい「美濃・尾張」の兵だけで占められている。
「大海人」軍の構成は、まさに「美濃・尾張」の軍勢といっても過言ではないだろう。
おそらくこの軍勢は、もともとは「近江朝」の命令により、天智天皇の山稜を造成するために駆り出された人夫であったかもしれない。
「美濃国」の国司は誰だかわからない。しかし、「甘羅村」を過ぎたあたりで遭った「美濃王」が、そうであったのかもしれない。
「不破の郡家に至る頃に、尾張国司小子部連鋤鉤が、二万の兵を率いて帰属した。」
となるのだが、考えてみれば、総勢二万もの兵が一度に移動してきたとなると、恐ろしく統率がとれていたことになる。
続日本紀の天平宝字元年(757)十二月九日の条に次のようにみえる。
「従五位上尾張宿禰大隅が壬申の年の功田卅町、淡海朝廷の諒陰の際、
義をもちて興し蹕を驚せしめ、潜に関東に出たまふ。時に大隅参り迎へて
導き奉り、私の第を掃ひ清めて、遂に行宮と作し、軍資を供へ助けき。そ
の功実に重し。大に准ふれば及ばず、中に比ぶれば余り有り。令に依るに
上功なり。三世に伝ふべし。」
三世に伝ふべし”とは、霊亀二年(716)四月、『壬申の乱』の功臣の子息ら十人に田を賜ったことを指しているのだが、この十人の中の一人に、「尾張宿禰大隅」(おわりのすくねおおすみ)の子「稲置」(いなき)の名がみられる。ちなみにこの中には、「男依」の子「志我麻呂」(しがまろ)の名もあげられている。
その理由として、「大隅」の功績を具体的に述べていることだ。
「大海人」が東国へ逃れたとき、「大隅」は私邸を行宮として差し出し、さらに軍資までも提供するという、惜しみない多大な援助をしたという。
『日本書紀』はこの事実に完全に沈黙し「大隅」の名前すら記していない。
尾張大隅(?-?)
①父:多々見 母:不明
②妻:不明 子供:稲置
③壬申の乱で天武天皇方に味方し功臣となった。尾張宿禰姓を賜り、熱田大神宮宮司。
稲置(?-?)
①父:大隅 母:不明
②妻:不明 子供:稲興
③この代から熱田神宮大宮司家となる。
④別名:稲公。
断夫山(だんぷさん)古墳(名古屋市熱田区)6世紀
全長151m 前方部幅112m 後円部径80m 高さ16m 尾張地方最大の前方後円墳
4世紀から6世紀にかけて近畿地方を中心として大王や豪族の墓である古墳が造られた。古墳が造られた時期を前期・中期・後期の3つに分けると,大阪府堺市の大仙古墳に代表される大規模な前方後円墳が全国で造られているのは中期である。しかし,尾張地方では後期になって熱田神宮の北に位置する断夫山(だんぷさん)古墳(名古屋市熱田区)などの墳丘長が150mを越える比較的大きな古墳が造られた。断夫山古墳は,県下1位の規模で,この近くに熱田神宮があることからも,伊勢湾沿岸の海人(あま)を率いた尾張氏の墓とされている。
断夫山古墳に埋葬されたのは日本武尊の后となりながら伊吹山で死亡した日本武尊に操を立てて生涯、独身を貫いた宮簀媛と記紀神話では伝えられていたが、年代調査からして古墳が設立された時期と記紀神話の間で齟齬が生じており、現代では尾張国の権力者である尾張国造(おわりくにのみやつこ)、尾張連草香(おわりむらじくさか)の墓ではないかとされている。特に尾張連草香は継体天皇の后である目子媛の父であり、この目子媛が産んだ二人の皇子が後、安閑天皇と宣化天皇として即位しているので、天皇の祖父に当たる尾張連草香の陵墓として断夫山古墳は相応しい規模であるというのが現段階での論である。
中田憲信編の『諸系譜』第二冊に記載の「飛騨三枝宿祢」系図や『皇胤志』に拠ると、鐸石別命の後裔は、吉備に残った磐梨別君のほか、東方に移遷して飛騨の三枝乃別や尾張の三野別・稲木乃別、大和の山辺君の祖となったとされる。これは、『古事記』の垂仁段の大中津日子命の子孫とも合致するが、大中津日子命は鐸石別命の別名である。尾張の三野別・稲木乃別は中島県に住み、後に稲木壬生公を出したとの記載も系図にあり、『姓氏録』には左京皇別に稲城壬生公をあげて、「垂仁天皇の皇子の鐸石別命より出づ」と見えるから符合する。中島郡に式内の見努神社(比定社不明で、論社に稲沢市平野天神社〔廃絶〕など)もあげられる。山辺君も、『姓氏録』には右京・摂津の皇別に山辺公をあげて「和気朝臣と同祖。大鐸和居命の後なり」と記される。
大海人皇子(後の天武天皇)の乳母は,尾張郡海部郷出身で,その首長である大海氏の娘であった。
古代の海-伊勢湾岸は現在の熱田区までであり,断夫山古墳は海岸線近くに造られていた。海を支配していた尾張氏はやがて内陸地の広大な水田地帯も支配する。
味美(あじよし)二子山古墳 5世紀末~6世紀初
全長約95m 前方部幅65m 高さ8m 後円部径48m 高さ8m 前方後円墳
白鳥塚古墳に次いで尾張地方第4位の規模,国の史跡に指定されている
味美二子山古墳は断夫山古墳とほぼ同時期に造られた前方後円墳。
これら2つの古墳は墳形や出土品が類似していることから,被葬者は何らかのつながりがあったと考えられる。
春日井市西部地域は,尾北の丘陵地と伊勢湾に挟まれて水田開発をするには最適な平野部にある。ここに味美二子山古墳のような大きな古墳が造られていることから,早くから水田開発に取り組んでいた豪族たちの姿も見えてくる。伊勢湾岸や名古屋市一帯を支配し強大な勢力となっていた尾張氏はこれら豪族ともつながり,内陸への勢力を拡大した。
尾張連草香(おわりのむらじくさか)は娘の目子媛(めのこひめ)を継体天皇に嫁がせて,天皇の外戚となった。継体天皇と目子媛との2人の子は大王となる。これにより尾張氏は大和王権とも密接につながり,益々その支配力を大きくしていった。味美二子山古墳の被葬者は尾張氏の勢力下にあった豪族と考えるが,断夫山古墳を尾張連草香の墓,味美二子山古墳を目子媛の墓とする説もある。
「壬申の乱」では,物部氏の働きにより,この二子山古墳の豪族の子孫たちが活躍したと考えられる。
大海人皇子側の物部雄君(もののべのおきみ)は尾張一帯を治めていた尾張氏と深くつながっていた。物部雄君によって情勢を的確に判断した尾張氏は,大海人皇子につくことを決意する。 そのころ,朝廷から派遣されていた役人の小子部さ鉤(ちいさこべのさひち)は朝廷の命を受けて,先帝の陵を造るために現在の名古屋市,春日井市,西春日井郡を含む尾張国一帯から30000人を集めていた。尾張地域の権力者尾張氏がこの者たちを大海人皇子側の兵となるよう小子部さ鉤を説得し,不破に向かわせた。不破に着いた兵たちは,大海人皇子によって分散され,美濃や三河からの兵と一緒に,新しい将軍のもとで再配備されて行動した。小子部さ鉤にとっては大海人皇子につくことは本意ではなかったのかもしれない。朝廷に対する裏切り行為と考えた小子部さ鉤は,後に自害している。
天武紀朱鳥元年六月、
天武帝が不治の病に罹った際、「草薙剣に祟れり。」と占いに出たと記述されている。
尾張国司守少子部連鉏鉤の自死と無関係とは言えないだろう。