神代上 第六段
「其の十握剣は、是素戔嗚尊の物なり。故、この三の女神は、悉くに是爾が児なり」とのたまいて、便ち素戔嗚尊に授けたまう。此則ち、筑紫の胸肩君等が祭る神、是也。
神代上 第六段一書第三
即ち日神の生れませる三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋に降り居さしむ。今、海の北の道の中に存す。号けて道主貴と日す。此筑紫の水沼君等が祭る神、是也。
景行天皇十八年七月七日
時に水沼県主猿大海、奏して言さく、「女神有します。名を八女津媛と日す。常に山の中に居します」
雄略天皇十年九月四日
身狭村主青等、呉の献れる二の鵞を将て、筑紫に到る。此の鵞、水間君の犬の為に喰われて死ぬ。是によりて、水間君、恐怖り憂愁えて、自ら黙あること能わずして、鴻十隻と養鳥人とを献りて、罪を贖うことを請す。天皇、許し給う。
以上が「日本書紀」に出てくる水沼君、水沼県主、水間君。
神話では、阿遅志貴託日子根神は大国主神と宗像の田心姫との間に生まれた御子神であり、この宗像大社には織物にまつわる伝承があります。
一つは応神紀四一年、呉からの織工女を胸形大神の求めで奉献したとあります。
もう一つは『肥前国風土記』基肄郡の姫社神社の創祀譚
昔、姫社郡を流れる山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺害され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合。「筑前の宗像の郡の珂是古に祭らせよ。さすれば凶暴な心はおこすまい」との託宣があった。珂是古は幡を高くあげて風のまにまに放した。その幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機類が出てきたので、女神であることを知った。社を建てて神を祭ったところ、災いがおさまった。」と云う
難波の比売碁曾神社
珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります
ほかに景行天皇の子孫という水沼別がいる。同天皇の皇子という国乳別皇子(くにちわけのおうじ)が始祖と言い、母は襲武媛(そのたけひめ)と言う。同皇子は久留米市三瀦町高三瀦にある弓頭(ゆみがしら)神社の祭神で、水沼君一族の氏神神社が判然としない中にあって、いわゆる、由緒来歴がはっきりとした一族である。
弓頭と名付ける所以は二説ほどあり、その一つは、成務天皇紀で「吾が国造(くにのみやつこ)を任命する時には必ず楯矛を授けてあかしとする」とあって、第12代景行天皇の皇子、国乳別皇子が「古式にのっとり、弓矢楯矛をいただいて下向し、高三瀦の地に在所を定めて、久しく筑紫地方を治められた」と書かれた部分に由来する、と言い、その二つは、「神功皇后韓攻撃の時、弓大将だったために、弓頭大明神と称えられた」と言うものである。
水間氏(みずまうじ)は日本の古代氏族で水沼(みぬま)氏に同じ。
『日本書紀』によれば景行天皇と襲武媛(そのたけひめ)の間に生まれた国乳別皇子(くにちわけのみこ)を始祖とするという。国乳別皇子は、神功皇后が新羅を攻めたとされる際に弓頭(もしくは弓大将)として従ったとされ、現在の久留米市三瀦(みずま)にある弓頭神社に祭られている。
水沼氏は大和政権の一員として筑紫地方を支配していたとみられ、久留米市大善寺(だいぜんじ)には、水沼氏のものとされる御塚(おんつか)と権現塚(ごんげんづか)の二つの古墳が残っている。また、日本書紀には、雄略天皇の時代に呉から天皇に献じられた鵞鳥を水間君の犬が喰ってしまい、鴻10羽と養鳥人(とりかい)を献じて罪を贖い許されたとの記事も残っており、大陸から有明海、筑後川を経て筑紫に到った使者を迎える役を担っていたとも推察される。なお、電話帳の記載によると、現在、水間を名乗る世帯は日本に1300余である。
万葉集の歌
「大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ」
(四二六一、読み人知らず)
○御船山玉垂宮 高良玉垂大菩薩御薨御者自端正元年己酉
○大善寺 大善寺は玉垂宮に仕る坊中一山の惣名なり、古ノ座主職東林坊絶て其跡に天皇屋敷と名付て聊残れり
大善寺玉垂宮のことだ。しかも、座主がいた坊跡を天皇屋敷と言い伝えている。
○高三瀦廟院 三瀦郡高三瀦ノ地に廟院あり(略)玉垂命の榮域とし石を刻て墓標とす(略)鳥居に高良廟とあり
筑後国三潴(みずま)郡一帯を支配していた。 水間君の祖
水沼県主猿大海(ぬむまのあがたぬしさるおおみ) 猿は県と同義 大海は支配者の意味 で水沼県を治める人の意
【日本書紀 景行天皇十八年七月丁酉条】(18年7月7日)
八女県(やめのあがた)に着いた景行天皇が藤山を越え、南方の粟岬(あわのさき)を望んだ。そして詔して「その山の峰は幾重にも重なってとても美しい。もしや神がその山におられるのか」と言った。
そこで水沼県主猿大海が「八女津媛(やめつひめ)という名の女神がおられます。常に山の中においでです」と言った。