裴世清、多利思比孤、阿輩台

裴世清
多利思北孤

『隋書』には大業三年(607)隋に朝貢し、その国書に「日出る処の天子」との記述があり更に多利思北孤の使者の言として隋の煬帝を「海西の菩薩天子」と呼ぶ。自らは「海東の菩薩天子」との自覚に達しているほどに仏法を敬い、帰依していた。

『隋書』俀国伝に、多利思北孤は卑弥呼の後裔だと明記され(魏より斎・梁に至り代々中国と相通ず)ている。
その領域を「その国境は東西五月行、南北三月行。それぞれ海に至る」とする
俀國内において、卑弥呼時代からの「左治天下」の伝承であろうが、「天を兄とし、日を以って弟と為す」という、兄弟統治の形態をもっていたと『隋書』は記します

上宮法皇は多利思北孤であり、聖徳太子ではない
釈迦三尊像銘文<読み下し>
『法隆寺の中の九州王朝』著:古田武彦 235ページから
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法興元31年、歳次辛巳(621)十二月、鬼前太后崩ず。
明年(622)正月二十二日、上宮法皇、枕病してよからず。
千食王后、よりて以って労疾し、並びに床につく。
時に王后・王子等、及び諸臣と共に、深く愁毒を懐き、共に相発願す。
「仰いで三宝に依り、当に釈像を造るべし、尺寸の王身、此の願力を蒙り、病を転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にして、以って世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを」と。
二月二十一日、癸酉王后即世す。
翌日(二月二十二日)法皇、登遐す。
癸未年(623)三月中、願の如く、釈迦尊像ならびに侠侍及荘厳の具を敬造し竟る。
斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主に随奉し、三宝を紹降し遂に彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。
使司馬・鞍首・止利仏師、造る。
————————————-以上引用

法興元31年は元号である。上宮法皇の在位期間は591~622年であり、多利思北孤の在位期間を含んでいる。(600~608)
上宮法皇の死亡年月日は622年2月22日であり、聖徳太子は621年2月5日に死亡。(『日本書紀』推古29年春2月5日夜半、聖徳太子は斑鳩宮に薨去された。~この月、太子を磯長陵に葬った

「隋書俀国伝」によると、
大業四年(608年)隋は文林裴清(裴世清)を俀国に遣わした。
俀王多利思北孤は自ら会って歓待した。
しかし隋は多利思北孤の国書(「日出処の天子の国書」)に対して怒り心頭に達していたらしく、「朝命既に達せり」(隋の意思はすでに決定している)として、
裴清は俀国に国交断絶を宣言する。裴清の帰国後両国の関係は途絶えてしまう。

日本書紀では、推古十五年(607年)に小野妹子を「大唐」に遣わしたことになっている。翌年小野妹子は裴世清と共に帰国する。
裴世清を歓迎する席上で小野妹子は、「煬帝からの親書は帰路百済で百済人に盗み取られた」ことを白状する。
国交断絶宣言が書かれているはずの煬帝の親書を小野妹子が失くしてしまった?

隋は618年、唐によって滅ぼされている。隋が裴世清を倭国に送ったのは西暦608年、隋の滅亡は618年、その間10年しかない。そして、隋が滅亡した大きな要因は高句麗遠征の失敗であり、この遠征の第一回は西暦612年に行われている。

日本書紀が言う「大唐」はまだ存在しない。

また、隋書俀国伝は隋の意思は固まっていると言って、俀国の歓待にもかかわらず国交の断絶を宣言している。

俀国と大和朝廷は別の国であろうか?
1.600年の記録が、大和朝廷にない
2.推古天皇は、女王であり、男性の多利思比孤ではない。
3.多利思比孤を聖徳太子とみなすのにも、無理がある。
4.隋書の旅行記に大和朝廷までの地域記録が不十分である。九州、四国あたりの国が俀国か。九州王朝が俀国説があるが、、、?

裴世清は大業4年3月に帰国したとも考 え得るが、『三国史記』百濟本記第五(武王紀)の 9年(大業4年、608年)條に
九年 春三月 遺使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使 倭國 經我國南路
(『完訳 三国史記』下*2、514頁)
と記述されている。このことから、裴世清が俀国 に到着したのは、大業4年3月以降である。
すなわち、大業4年3月隋に朝貢した倭(俀)遺 使と裴世清とは、すれ違いであると思われる。

『日本書紀』に記された、大唐に派遣された遣隋使?を列挙してみると
①推古15年(607)(第1回遣隋使)大礼小野妹子を大唐へ派遣、鞍作福利を通訳とした。
②608年、小野妹子が裴世清(鴻矑寺の掌客)と下客12人を伴って帰国。妹子、煬帝からの国書を紛失したことを奏上する。
③推古16年(608)(第2回遣隋使)小野妹子を大使、吉士雄成を小使として派遣、鞍作福利を通訳とし、裴世清らを送る。学生や学問僧のあわせて8人を唐に送る。
④609年、小野妹子ら大唐から帰国、通訳の福利は帰らず。
⑤推古22年(614)(第3回遣隋使)犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に派遣
⑥615年、犬上君御田鍬ら大唐から帰国

『隋書』には大業4年(608)に「其後遂絶」と記述されていますが、推古22年(614)「犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に派遣」する記事を載せて混乱。

『隋書』(魏徴580-643)俀国伝には
「軍尼が百二十人あり、ちょうど中国の牧宰のようである。八十戸に一伊尼翼をおくが、今の里長のようなものである。
十伊尼翼は一軍尼に属する」とあり

『中国正史日本伝(1)』石原道博著:岩波文庫では
①軍尼:クニで国造のことであろう。
②伊尼翼はイナギ(稲置)か。伊尼冀の誤りであろう。・・・・としているのだが!

「伊尼翼は今の里長のようなもの」の今は『隋書』を執筆している時ですから里長は唐の組織形態であって、宋→斉→梁と続く南朝サイドに立った組織が伊尼翼ではなかろうか?

軍尼・伊尼翼が如何なるものかが不明となって今に伝わっていない。
王朝の統治組織が解体され記録が消滅してしまったからではないか。

『旧唐書』倭国・日本国伝に二国併用記事があり、「日本国は倭国の別種なり。~或いは云う、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」

続日本後紀 文武天皇 700年
「薩末の比売・久売・波豆・衣評(の)督の衣君県・同じく助督の衣君弖自美、又肝衝の難波、これに従う肥人らが武器を持って、先に朝廷から派遣された覔国使の刑部真木らをおどして、物を奪おうとした。そこで、筑紫の惣領に勅を下して、犯罪と同じように処罰させた」との記述があり、「比売・久売・波豆・評督・助督・肝衝」等々の役職がいかなるものだったのかが不明である。

699年(文武3年)、衣評督(えのこおりのかみ)衣君県らが肥人(ひひと、九州西部の島嶼部の人々)を従えて覓国使(べっこくし、南九州に令制国設置と南島路の開拓を進めるための朝廷からの使い)を剽却(ひょうきょう)する事件が起こった。このことから7世紀末には南九州に衣評という評が設定されていることが分かる。

「衣」は襲(曾)。「肥人」は火国ではないのか。

『続日本紀』文武天皇四年六月三日(700)に

「薩末比売・久売波豆、衣評(の)督の衣君県・同じく助督の衣君弖自美、又肝衝の難波、これに従う肥人らが武器を持って、先に朝廷から派遣された覔国使の刑部真木らをおどして、物を奪おうとした。そこで、筑紫の惣領に勅を下して、犯罪と同じように処罰させた」との記述があり、「比売・久売・波豆・評督・助督・肝衝」等々の役職がいかなるものだったのかが不明である。

ついに軍事衝突が生じました。「肥人」とは、太宰府の中枢にいた人でしょう。その人が、薩摩の巫女や評督・助督を従えて大和の勅使に反逆したのです。もうこの頃には、大宰府は大和から派遣された「筑紫惣領」なる官名あるいは人物に抑えられていたようです。だからこそそのことを良しとしない肥人が、薩摩や大隈の隼人に檄を飛ばしたのでしょう。

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古田氏の説:随から唐への移行と裴世清の降格
唐の高祖は、名は「禅譲」ながら、その実際は一部将であった彼が天子に成り上ったのであるから、そのさいの信賞必罰・論功行賞にもとづき、「昇格」「降格」例を大量に生んだことは当然だ。右は、その一例にすぎぬ。(古田さんは『旧唐書』から2例をあげているが省略。)

 裴世清の場合も、そうだ。彼は隋代「文林郎」の職にあった。これは秘書省に属し、いわば煬帝の懐刀的な存在として、俀国に派遣された。正規の外交官僚ではなかったのである。口頭外交にふさわしい。彼はそれに見事成功して帰国した。
隋滅亡後、唐朝が興ってより、煬帝の恩寵を受けていた彼は、当然ながら「降格」された。それがわずかにとどまったのは、唐朝もまた、彼の才能を利用せんと欲したからであろう。そして正規の外交官僚たる「鴻臚寺の掌客」に任用されたのである。

『日本書紀』(巻第22)
「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐(当時の中国は隋の時代)に渡る。推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失。一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小徳
小徳(しょうとく)は、604年から648年まで日本にあった冠位である。冠位十二階の第2で、大徳の下、大仁の上にあたる。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、并て十二階。
《将軍》 (推古三一) 大徳 境部臣雄摩侶 (推古 三一)

史料に見える小徳の人物は18人
43年の施行期間には世代交代があろうし、地位が高いほど史書に記されやすいので全体の、また同時点での人数をここから推し量るのは難しい。しかし3人しか知られない大徳よりずっと多かっただろうし、1人の大将軍と7人の副将軍が小徳であった推古天皇31年(623年)には、それを上回る人数がいたわけである。

阿輩台(大河内糠手?)- 大業4年・推古天皇16年(608年)(隋書)
中臣国 – 推古天皇31年(623年)。群卿(マエツキミ)の一人。新羅征討軍の大将軍。(日本書紀)
河辺禰受 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
物部依網乙等 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
波多広庭 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
近江脚身飯蓋 – – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
平群宇志 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
大伴某 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
大宅軍 – 推古天皇31年。新羅征討軍の副将軍。(日本書紀)
巨勢大海 – 推古朝(続日本紀)
平群神手 – 推古朝 (上宮聖徳太子伝補欠記)
秦川勝 – 推古朝(上宮聖徳太子伝補欠記、聖徳太子伝暦)
中臣御食子 (弥気) – 推古・舒明朝(中臣氏本系帳)
長徳 – 皇極天皇元年(642年)8月13日授。百済の質。達率。(日本書紀)
巨勢徳太 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
粟田細目 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
大伴馬飼 – 皇極天皇元年(642年)12月13日。(日本書紀)
高向黒麻呂(玄理) – 大化2年(646年)9月。遣新羅使。(日本書紀)

小野妹子【略歴】
『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされているが??
推古15(607年)年7月、隋に遣わされた。時に大礼。隋国は妹子を号して蘇因高といったという。
同16年(608年)4月、隋より帰朝した。
同16年6月、奏して、臣が帰国するとき、隋帝は書を臣に授けたが、百済を経過したとき、百済人が探りかすめ取ったので、 献上することができないと述べた。群臣は議してその罪を難じ、流刑に処するべきであるとしたが、天皇は妹子の書を失う罪を赦し たという。
同16年9月、裴世清の帰国に際し、再び大使となり、小使吉士雄成、通事鞍作福利とともに、隋に遣わされた。
同17年(609年)9月、隋より帰朝したが、通事福利は帰国しなかった。(書紀)
小野妹子の墓と伝えられる唐臼山古墳(志賀町小野水明)が残されている。

「推古紀」(『日本書紀』)「小野妹子を隋に通わした」?

「推古紀」における「唐」との外交記事。

607年(推古15年)7月3日
 大礼(だいらい)小野臣妹子を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通訳とした。

608年(推古16年)
4月
 小野妹子が大唐から帰ってきた。大唐の国では妹子を名づけて、蘇因高(そいんこう)とよんだ。大唐の使人裴世清(はいせいせい)と下客(しもべ)12人が、妹子に従って筑紫についた。難波吉士雄成(なにこわのきしおなり)を遣わして、大唐の客裴世清らを召した。大唐の客のために新しい館を難波の高麗館(こまのむろつみ)の近くに造った。

6月15日
 客たちは難波津に泊った。この日飾船(かざりふね)30艘で、客人を江口(えぐち)に迎えて、新館に入らせた。中臣宮地連烏摩呂(なかとみのみやどころのむらじおまろ)・大河内直糠手(おおしこうちのあたいあらて)・船史王平(ふねのふびとおうへい)を接待係とした。
 このとき妹子が奏上した。
「私が帰還の時、唐の帝が書を私に授けました。ところが百済国を通った日に、百済人が探りこれを掠(かす)めとりました。書をお届けすることができません。」
 群臣はこれを詮議して言った。
「使者たるものは死をもっても、任務を果すべきである。この使いはなにを怠って、大国の書を失ってしまったのか。流刑に処すべきである。」
 このとき、天皇は次のように言った。
「妹子は書を失った罪があるが、軽々に処罰してはならない。大国の客人の耳に入ってはよろしくない。」
 妹子を赦して罰しなかった。

8月3日
 唐の客は都へはいった。この日、飾騎(かざりうま)75匹を遣わして、石榴市(つばきいち)の路上に迎えた。額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)がお礼の言葉をのべた。

8月12日
 客を朝廷に召して使いのおもむきを奏上させた。阿倍鳥臣(あべのとりのおみ)・物部依網連抱(よさみのむらじいだき)の二人を、客の案内役とした。大唐の国の進物を庭の中に置いた。使者裴世清は自ら書を持ち、二度拝して使いのおもむきを言上した。その書に曰く、
「皇帝、倭皇をとぶらう。使人の長吏(ちょうり)大礼蘇因高らが訪れて、よく意を伝えてくれた。私は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を弘めて万物に及ぼそうと思っている。人々を恵み育もうとする気持は土地の遠近にかかわりない。皇は海のかなたにあって国民をいつくしみ、国内は平和で人々も融和し、深い心映えには至誠あって、遠く朝貢することを知った。そのねんごろな誠意は私の嘉するところである。ようやく暖かな時節である。私は常の如く過ごしている。鴻臚寺(こうろじ)の掌客(しょうかく)(外国使臣の接待役)裴世清(はいせいせい)を遣わして送使の意をのべる。あわせて別途のように送り物をする」と。
 そのときに阿倍臣(あへのおみ)が進み出て、その書を受けとり進んだ。大伴囁連(くいのむらじ)が迎え出て書を受けて、帝の前の机上に置いた。儀式が終って退出した。このときには皇子・諸王・諸臣はみな冠に金の飾りをつけた。また衣服にはみな錦・紫・繍(ぬいもの)・織(おりもの)および五色綾羅(あやうすはた)をもちいた。

8月16日 客たちを朝廷で饗応した。
9月5日 客たちを難波の大郡(おおこほり)でもてなした。

9月11日
 唐の客裴世清たちは帰ることになった。また小野妹子臣を大使(おほつかい)、吉士雄成(きしのおなり)を小使(そいつかい)、鞍作福利を通訳として随行させた。このとき天皇は唐の帝をとぶらって次のような書を持たせた。
「東の天皇が西の皇帝に敬い申し上げます。使人鴻膿寺の掌客裴世清らがわが国に来り、久しく国交を求めていたわが方の思いが解けました。秋となりようやく涼しくなりましたが、貴国はどのようでしょうか。貴方はいかがお過ごしでしょうか。当方は無事に過ごしています。今、大礼蘇因高・大礼雄成らを使いに遣わします。意をつくしませんが謹しんで申し上げます」
 このとき唐に遣わされたのは、学生倭漢直福因(やまとのあやのあたいふくいん)・奈羅訳語恵明(ならのをさえみょう)・高向漢人玄理(たかむこのあやひとげんり)・新漢人大圀(いまきのあやひとおおくに)・学問僧新漢人日文(いまきのあやひとにちもん)・南淵漢人請安(みなふちのあやびとしようあん)・志賀漢人慧隠(しかのあやひとえおん)・新漢人広済(いまきのあやひとこうさい)ら合せて八人である。

609年(推古17年)9月
 小野妹子らが大唐から帰った。ただ通訳の福利だけは帰らなかった。

614年(推古22年)6月13日
 犬上君御田鍬(いぬかみのきみみたすき)・矢田部造(やたぺのみやつこ)〈名前は不明〉を大唐に遣わした。

615年(推古23年)9月
 犬上君御田鍬・矢田部造が大唐から帰った。百済の使いが犬上君に従ってやってきた。

631年(舒明3年) 3月1日
 百済王、義慈(ぎじ)は王子豊章(ほうしょう)を人質として送ってきた。

631年の時の百済王は武王であり、義慈王ではない。義慈王の在位年代は641年~660年である。朝鮮側の年代は、中国側の年号で書かれているので、これを間違っていると言うことはできない。間違っているのは「舒明紀」の方であり、「推古紀」の場合と同様、10年以上のずれがある。 おそらく12年後、推古記の記事を遅らせる必要があるか。

 相手の国名は全部「(大)唐」である。しかし、隋が滅亡して唐が建国されたのは618年なのだ。上の記事は年代にはまだ唐は存在しない。隋の時代だ。

『隋書』倭国伝

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

 後漢の光武帝の時(25-57年)、遣使が入朝し、大夫を自称した。
 安帝の時(106-125年)、また遣使が朝貢、これを倭奴国という。
 桓帝と霊帝の間(146-189年)、その国は大いに乱れ、順番に相手を攻伐し、何年もの間、国主がいなかった。卑彌呼という名の女性がおり、鬼道を以てよく大衆を魅惑したが、ここに於いて国人は(卑彌呼を)王に共立した。弟がいて、卑彌呼の国政を補佐した。その王には侍婢が千人、その顔を見た者は極めて少なく、ただ二人の男性が王の飲食を給仕し、言葉を伝えるため通じる。その王の宮室や楼観、城柵には皆、兵が持して守衛しており、法は甚だ厳しい。魏より斉、梁に至るが、代々中国と相通じた。

 開皇二十年(600年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩雞彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。使者が言うには、倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす、天が未だ明けない時、出でて聴政し、結跏趺坐(けっかふざ=座禅に於ける坐相)し、日が昇れば、すなわち政務を停め、我が弟に委ねるという。高祖が曰く「これはとても道理ではない」。ここに於いて訓令でこれを改めさせる。

 王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。城郭はない。内官には十二等級あり、初めを大德といい、次に小德、大仁、小仁、大義、小義、大禮、小禮、大智、小智、大信、小信(と続く)、官員には定員がない。
 軍尼が一百二十人おり、中国の牧宰(国守)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。

 その服飾は、男子の衣は裙襦、その袖は微小、履(靴)は草鞋(わらじ)のような形で、漆(うるし)をその上に塗り、頻繁にこれを足に履く。庶民は多くが裸足である。金銀を用いて装飾することを得ず。故時、衣は幅広で、互いを連ねて結束し、縫製はしない。頭にも冠はなく、ただ髮を両耳の上に垂らしている。

 隋に至り、その王は初めて冠を造り、錦の紗(薄絹)を以て冠と為し、模様を彫った金銀で装飾した。婦人は髮を後で束ね、また衣は裙と襦、裳には皆(ちんせん)がある。攕竹を櫛と為し、草を編んで薦(ムシロ)にする。雑皮を表面とし、文様のある毛皮で縁取る。
 弓、矢、刀、矟、弩、欑、斧があり、皮を漆で塗って甲とし、骨を矢鏑とする。兵はいるが、征服戦はない。その王の朝会では、必ず儀仗を陳設し、その国の音楽を演奏する。戸数は十万ほどか。

 そこの俗では殺人、強盜および姦通はいずれも死罪、盜者は盗品の価値を計り、財物で弁償させ、財産のない者は身を没収して奴隷となす。その余は軽重によって、あるいは流刑、あるいは杖刑。犯罪事件の取調べでは毎回、承引せざる者は、木で膝を圧迫、あるいは強弓を張り、弦でその項を撃つ。あるいは沸騰した湯の中に小石を置き、競いあう者もこれを探させる、理由は正直ではない者は手が爛れるのだという。あるいは蛇を甕の中に置き、これを取り出させる、正直ではない者は手を刺されるのだという。

 人はとても落ち着いており、争訟は稀で、盜賊も少ない。楽器には五弦、琴、笛がある。男女の多くが臂(肩から手首まで)、顔、全身に刺青をし、水に潜って魚を捕る。文字はなく、ただ木に刻みをいれ、繩を結んで(通信)する。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている。

 毎回、正月一日になれば、必ず射撃競技や飲酒をする、その他の節句はほぼ中華と同じである。囲碁、握槊、樗蒲(さいころ)の競技を好む。気候は温暖、草木は冬も青く、土地は柔らかくて肥えており、水辺が多く陸地は少ない。小さな輪を河鵜の首に掛けて、水中で魚を捕らせ、日に百匹は得る。
 俗では盆や膳はなく、檞葉を利用し、食べるときは手を用いて匙(さじ)のように使う。性質は素直、雅風である。女が多く男は少ない、婚姻は同姓を取らず、男女が愛し合えば、すなわち結婚である。妻は夫の家に入り、必ず先に犬を跨ぎ、夫と相見える。婦人は淫行や嫉妬をしない。

 死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。如意宝珠があり、その色は青く、雞卵のような大きさで、夜には光り、魚の眼の精霊だという。新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している

 大業三年(607年)、その王の多利思比孤が遣使を以て朝貢。
 使者が曰く「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと聞き、故に遣わして朝拝させ、兼ねて沙門数十人を仏法の修学に来させた」。
 その国書に曰く「日出ずる處の天子、書を日沒する處の天子に致す。恙なきや」云々。帝はこれを見て悦ばず。鴻臚卿が曰く「蛮夷の書に無礼あり。再び聞くことなかれ」と。

 翌年、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

 倭王は小德の阿輩臺を遣わし、従者数百人、儀仗を設け、鼓角を鳴らして来迎した。十日後にまた、大禮の哥多毗を遣わし、二百余騎を従えて郊外で慰労した。
 既に彼の都に至り、その王、裴世清と相見え、大いに悦び、曰く「我、海西に大隋、礼儀の国ありと聞く故に遣わして朝貢した。我は夷人にして、海隅の辺境では礼儀を聞くことがない。これを以て境内に留まり、すぐに相見えなかった。今、ことさらに道を清め、館を飾り、以て大使を待ち、願わくは大国惟新の化を聞かせて欲しい」。
 裴世清が答えて曰く「皇帝の德は併せて二儀、恩恵は四海に流れ、王を慕うを以て化し、故に使者を来たらしめ、ここに諭を宣す」。
 既に裴世清は引き上げて館に就く。その後、裴世清が人を遣わして、その王に曰く「朝命は既に伝達したので、すぐに道を戒めることを請う」。
 ここ於いて宴を設け、裴世清を遣わして享受させ、再び使者を裴世清に随伴させて方物を貢献させに来た。この後、遂に途絶えた