熊襲、熊曽

古事記
1.「大八島国の生成」の段
筑紫島は身一つにして面四つありとし、そのひとつに熊曾国は建日別と謂う、とある。
2.「景行天皇」の段
*天皇が「御子(小碓命・日本武尊)の建く荒き情を惶み」「西の方に熊曾建二人あり。これ伏はず禮なき人等なり。故、その人等を取れ」と。
*小碓命は「姨倭比売命の御衣御裳を給はり、剱を御懐に納れて幸行でましき」と。
*「熊曾建の家に到りて見たまえば、・・御室樂せむと言ひ動み、・・その樂の日に臨り・・童女の姿になりて、女人の中に交じり、その室の中に入り」
*「ここに熊曾建兄弟二人、その嬢子を見感でて、己が中に坐せて盛りに樂しつ。故、その酣なる時に臨りて、懐より剱を出し、熊曾の衣の衿を取りて、剱もちてその胸より刺し通し」逃げ回る弟建は今際の際に「西の方に吾二人を除きて、建く強き人なし。しかるに、大倭国に、吾二人に益りて建き男は坐しけり。・・吾御名を献らむ。・・今より後は、倭建御子と称ふべし」「その時より御名を称へて、倭建命と謂う。
*還り上ります時、山の神、河の神、また宍戸の神を、皆言向け和し、出雲建をだまし討ちにした。

3.「仲哀天皇」の段で、
*天皇筑紫の訶志比宮に坐しまして、熊曾国を撃たむとしたまひし時、「西の方に国あり。金銀を本として、日の炎輝く種種の珍しき宝、多にその国にあり。吾(=神)今その国を帰せたまはむ」と。天皇答えて「高き地に登りて西の方を見れば、国土は見えず、・・詐りをなす神」と謂いて、御琴を控きたまわず、火を挙げて見れば、既に崩りたまひぬ。

日本書紀
1.日本書紀の「熊襲」初出は
景行天皇の段十二年秋七月「熊襲反之不朝貢」である。古事記と日本書紀を考え併せると、熊襲が倭・大和に関心を持たれるようになったのは、景行天皇の全国統一からのようである。それまでは筑紫国(魏志倭人伝に言う伊都国、奴国、不弥国か)からの限定的攻撃を受けていただけか。それでも倭(やまと)勢から圧迫されていたと言うことはたいした勢力ではなかったか。その熊襲に関わる天皇の進軍のあらましを記すと、
2.景行十二年十一月 日向国に到りて、行宮を起てて居します。是を高屋宮と謂す。
同年十二月 熊襲を討たむことを議る。相手は襲国で厚鹿文、乍鹿文は熊襲 の渠帥者(いさを)なり。衆類甚多。是を熊襲の八十梟帥と謂う。天皇曰く、少兵では負け、多兵では百姓に害。一の臣曰く、熊襲梟帥には市乾鹿文、市鹿文の二人の女あり。重き幣を示(み)せて市乾鹿文(姉)を懐柔し、兵一人を伴い熊襲梟帥の家に行き、大量の酒を飲ませて酔いつぶれている熊襲梟帥を兵に殺させた。

3.景行十三年夏五月  悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居ますこと六年なり。(但し、十二年八月に発向し、十三年五月に六年間というのはおかしいと言うので、通説は十八年三月に、天皇、京に向さむとし、の間とする)

4.景行十七年春三月 子湯県に幸して、丹裳小野に遊ぶ。ここで、京都を憶び、「思邦歌」を歌う。

5.景行十八年春三月 天皇、京に向さむとして、筑紫国を巡狩す。
夷守(宮崎県小林市) → 四月 熊県(熊本県人吉市) 熊津彦兄弟がおり、見参しなかった弟熊を誅す ー> 葦北(熊本県水俣市)の小嶋 → 五月 火国(熊本県 八代市) → 六月 高来県(長崎県島原市) → 玉杵名邑(熊本県玉名市) 土蜘蛛津頬(つつら)を殺す。 → 阿蘇国(熊本県阿蘇郡)広大無辺の国で人がいないと思われたが、阿蘇都彦、阿蘇都媛の二神がいた。 → 七月築後国御木(みけ、福岡県大牟田市)の高田行宮 倒木・歴 木(くぬぎ)の大樹伝説あり。 → 八女県(福岡県八女市)→ 八月 的邑に到る

6.景行十九年秋九月 天皇、日向より還御
7.景行二十七年秋八月  熊襲亦反きて、辺境を侵すこと止まず。 → 冬十月 日本武尊を遣して、熊襲を撃たしむ。日本武尊は弓 の名人を望み、美濃国の弟彦公と石占横立、尾張国 の田子稲置・乳近稲置を従えていく。 → 十二月 熊襲国に到る。熊襲に魁帥(たける)という者あり。名は取石(とろし)鹿文。亦は川上梟帥という。日本武尊は女装して川上梟帥の宴の室に入り、酒に酔った川上梟帥を刺し殺そうとした時、川上梟帥は尊号を奉り日本武皇子と称した。
倭への帰路、吉備の穴済(広島県福山市)の神、難波の柏済(淀川の河口)の神を殺す。
8.景行二十八年春二月 日本武尊、熊襲を平定し凱旋。
9.「仲哀天皇」の段、
仲哀二年三月 熊襲、叛きて朝貢らず。天皇、是に熊曾国を討たんとす。
仲哀八年秋九月 熊襲を討たむことを議る。皇后に託りて「天皇、何ぞ熊襲の服はざることを憂へたまふ。是、膂宍の空国ぞ。豈、兵を挙げて伐つに足らむや。・・津に向へる国有り。金、銀、彩色、多に其の国に在り。是を栲衾新羅国と謂う。・・天皇、猶し信けたまはずして、強に熊襲を撃ちたまふ。得勝ちたまはずして還ります」
仲哀九年春二月 天皇、忽ちに痛身みたまふことありて、明日に、崩りましぬ。

熊襲は邪馬台国の卑弥呼女王の頃には既に存在。

熊襲国の位置であるが、日本書紀の景行天皇九州巡幸では明らかに熊本県球磨地方から宮崎県西都市以南を想定できるが、記紀いずれでも日本武尊や仲哀天皇の征討ではいずれの地かはっきりしない。かえって、九州北部を連想させるくらいだ。それ故か、魏志倭人伝の狗奴国を熊襲国に比定する説もあるが、熊襲国が筑紫国、豊国、肥国以外の地域、ないし、日本書紀の景行天皇の行軍地名からして後の日向国、大隅国、薩摩国、肥後国の球磨郡を指すのではないか。

一般には肥後国球磨郡(日本書紀では熊県と表記)と大隅国贈唹郡(日本書紀に言う襲国か)の熊と贈を合体し熊襲としたものと解されている。
熊に重きを置けば、今の人吉市になり、襲に重きを置けば、今の西都市と言うことになるのであろうか。(もっとも、贈唹を今の霧島市界隈とし、熊を高隈山と考えることもできる)