倭迹迹日百襲媛命と倭姫命

倭迹迹日百襲媛命
「古事記」には書かれていない。
「日本書紀」
崇神7年2月条 崇神天皇の御代になって災害が多いので原因を卜占しようとしたところ、倭迹迹日百襲媛命が神がかりして、「倭國域内所居神」、名を大物主神を告げ、崇神天皇は教えのまにまに祭祀したが、効験あらたかならず。その後、夢に大物主神が現れ、「大田田根子」に吾を令祭(まつ)りさせればたちどころに天下太平となると宣ったので、そのとおりしたところ奏効した。(11月)
崇神10年9月条 倭迹迹日百襲媛命が、大彦が遠征の途中で聞いた童女の歌を、武埴安彦の謀反と解釈し、崇神天皇が諸将を集め謀反を鎮圧した。その後、倭迹迹日百襲媛命は大物主神と結婚、事故死、箸墓築造の話がある。

倭姫命
「古事記」
景行天皇条 日本武尊が熊曽建征討する際、御衣、御裳、剣を与えている。
日本武尊の東国征討に際しては、草薙剣と御囊を与えている。
「日本書紀」
垂仁25年3月条 豊鍬入姫命に代わって天照大神を託された。笠縫村に祀っていた天照大神を若干の移動を経て、伊勢に鎮座させた。(伊勢神宮起源譚)。異伝あり。
景行51年1月 伊勢神宮に献上された蝦夷等が、昼夜喧嘩をして出入に無礼があるので、倭姫命が「これより蝦夷等神宮に近づくべからず」と言い、朝廷に進上した。