難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)にあった古代宮殿。
前期難波宮 645-686
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
後期難波宮 744ー785
奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。
784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。
40年あまりで、使われなくなった?
住居や集落は残ったか
孝徳天皇
敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。
『日本書紀』の評によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退して、古人大兄皇子を推薦したが、古人大兄は辞退して出家した。
孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。
孝徳天皇
皇后:間人皇女‐舒明天皇皇女
妃:阿倍小足媛‐左大臣阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)女
皇子:有間皇子
妃:蘇我乳娘‐右大臣蘇我倉山田石川麻呂女
皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣にした。中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。僧旻と高向玄理を国博士とした。
余豊璋
20代百済王。百済王義慈王の子。
強力な統一王朝・唐帝国成立により圧迫の強まる国際情勢のなか、631年、人質として日本へ行く。以後30年間日本で生活。
その間、唐の圧迫からの武力防衛をめざし高句麗の泉蓋蘇文や日本の中大兄皇子がクーデターを決行。
日本にやってきた金春秋(のちの新羅王武烈王)との会談はあったのか?
660年、唐の攻撃により百済降伏。義慈王は捕虜となる。
亡国の王子となった彼は亡命政府のあるじとなる。
662年、天智天皇(中大兄皇子)の支援を受け帰国するべく出撃。
新羅の武烈(ぶれつ)王は即位する前から唐と親交があり,即位してからも唐の制度を国の政治に採り入れるなど唐から信頼されており,唐と新羅は同盟関係にあった。
戦い開始
655年,朝鮮半島北部で,かねてより対立していた唐と高句麗(コグリョ,こうくり)が戦いを始めた。南部では,百済が新羅(シルラ,しらぎ)へ侵攻したため,新羅は唐に救援を求めた