難波吉士、鵲森宮、玉造

『新選姓氏録』には 吉志 難波忌寸同祖 大彦命之後也 となっている。大彦命は第八代孝元天皇の子であるから皇別氏族と言うことになるが、これを信じるわけにはいかない。大彦命のが蝦夷征伐のおり、大和兎田の墨坂で嬰児を得、これが難波忌寸の祖とある。血のつながりはない。大彦命は阿倍氏の祖でもある。
 吉士は海上交通の要路を管掌し、対外交渉に専従した船頭、水手集団であり、さらに屯倉の管理、史(フミヒト)をつとめている。
吉士を名乗った氏族では難波吉士、草香部吉士、日鷹吉士、大国吉士など多くの名前が見える。
 『雄略紀十四年四月』に、大草香皇子(仁徳天皇の皇子)の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士と言う姓を与えた記事がある。 日鷹吉士は紀の国日高郡に在住していた一族、大国吉士は河内国石川郡にいたようである。

 『雄略紀九年二月』に、胸方神(宗像大社の神)を祀る為に凡河内直香賜と采女を遣わしたが、壇所に至りてその采女を犯し、難波日鷹吉士を遣わして凡河内直香賜を殺そうとした記事が見える。難波吉士が吉士の頭領のように思える。

難波氏(難波吉士)は渡来系の氏族であるが、吉士族は阿倍氏の管理下に置かれていたことから、阿倍氏の遠祖である大彦命の後裔を称した。

難波吉士木蓮子
(なにわのきしのいたび)

敏達4年(575年)4月、任那に使す。時に新羅へは吉士金子、百済へは吉士訳語彦が使した。 
敏達13年(584年)2月、新羅へ使したが、至りえずして任那に赴いた。
崇峻4年(591年)11月、任那を再興しようとして、紀男麻呂ら4人の大将軍が、2万余の兵を率いて筑紫に出陣したとき、任那に遣わされ任那のことを問うた。(この時、新羅へは吉士金が遣わされている)
推古8年(600年)2月、新羅王が任那を攻めたとき、天皇は大将軍境部臣らを遣わし新羅を撃たしめた。新羅はわれに降伏し、六城を割いたが、天皇はさらに難波吉士神を新羅に、難波吉士木蓮子を任那に遣わして、事の状を検校せしめ、両国はわが国に貢調したとある(書紀)

森ノ宮神社
大阪市中央区森ノ宮
推古六年の夏四月に、難波吉士 磐金、 新羅より至りて、鵲二隻を献る。乃ち難波杜(なにわのもり)に養はしむ。因りて枝に巣ひ て産めり。」
吉士氏(吉師/吉志)は外交担当

鵲森宮
御祭神と鎮座の起源
大阪が「押照や難波」と詠まれた今から千四百数年前、崇峻天皇二年(589年)七月、聖徳太子は物部守屋との戦いに必勝を祈願され、勝った暁には四天王像を造ることを誓われました。その戦いに勝利されて、先ず父母の用明天皇と穴穂部間人皇后を神としてお祀りなさいました。その後、太子は四天王像を造り、この森に元四天王寺を創建なされたのです。御父用明天皇崩御の後追慕の御孝心が深かったので、太子は自ら尊像を彫刻なさって、かつ宮殿を造営なさり、そこは四方の崇敬いよいよ篤い神廟となりました。
用明天皇(欽明帝第四皇子、橘豊日命)並びに穴穂部間人皇后を祭る日本唯一の神社です
 なお用明天皇御陵は南河内郡太子町にあります、磯長原陵(しながはらりょう)です。
色かはる下葉よりこそ散にけり森之宮の秋の初かぜ    直 好

社名の起因
社名を鵲森宮(かささぎもりのみや)と云うのは、上古難波の杜(もり)と云っていた推古天皇の御代に、難波の吉士磐金(きしいわかね・聖徳太子の命により新羅へ使者として渡る、鉄鋼業の祖)と云う人がいまして、新羅国より還って来て、鵲(俗に朝鮮烏)二羽を献上しました。(「日本書紀」推古六年夏四月の条に載っています)
 この森に飼わせなさったことから「鵲の森]と称え、遂に宮の名となり略して「森之宮」又は「森明神」とも云うようになりました。鵲とは日本の烏(からす)によく似ており、全体が黒く、腹部の白い烏で、韓国や北中国には多く生息しています。
来ても見よ日影はもれていつしかと緑さしそふ鵲の森    貞 丈
秋風のおと身にしみてかささぎの森の梢は神さびにけり  熊 彦
今年より桜を森の宮なれば神よ心を花にゆるすな       直 好
社領と氏地

 当社の造営当時は、方ハ町にして神領神田広大といいます。また神頷は千石余あったと伝えています。その後元亀天正の時代、織田信長の石山攻めの時、武人の為に掠奪され、かつ建造物もまた兵火に被って、社殿はことごとく灰塵と化しました。

難波玉造について
5世紀末の話

『日本書紀』の仁賢天皇六年九月の条には、興味深い説話が記述されている。
日鷹吉士が高句麗へ派遣された後、飽田女(あきため)は難波の御津(みつ)で「私の母にとってもせ(兄)であり、私にとってもせ(夫)である。やさしいわが夫はああ」と泣き悲しんだという。

その哭声は断腸の想いにみちて、人びとの胸にひびいた。
菱城邑(ひしきむら)(大鳥群菱木のあたりか)の鹿父(かそそ)が飽田女に「どうしてそのように泣き悲しむこと、はなはだしいのか」と問うた。飽田女は「二重の悲しみです。察してください」と答えた。
鹿父は「わかりました」という。朋友はその真意を悟らず、
「どうしてわかるのか」とたずねた。
鹿父はそれに答えて、つぎのように語ったという。

「難波の玉作部鮒魚女(たまつくりべのふなめ)が韓(から)の白水郎(あまのはたけ)にとついで哭女(なくめ)を生んだ。その哭女が住道(すみぢ)の山杵(やまき)にとついで飽田女を生んだ。そして韓の白水朗とその娘の哭女はすでになくなった。 ところが住道の山杵が玉作部魚女を奸して麁寸(あらき)を生み、その麁寸が飽田女をめとった。飽田女にとって麁寸は夫である。日鷹吉士が高句麗へ派遣されたのに従って麁寸は高句麗へ旅だった。したがって飽田女はこのように泣き悲しむのだ」と。

仁賢天皇紀に日鷹吉士は高句麗から帰り、工匠 須流枳(スルキ)、奴流枳(ヌルキ)らを奉った。

三宅吉士について
 新撰姓氏録(山城国諸蕃、摂津国諸蕃)に 三宅連 新羅王子天日桙命之後也 とある。この三宅連は天武天皇十二年以前は三宅吉士であったが連のカバネ、更に天武天皇十三年には宿禰になっている。
難波吉士が忌寸までであるのと比べて高いカバネにのぼっているのである。この三宅吉士は難波吉士とはまた違った素性のようである。