阿蘇ピンク石、宇土墓、茅渟の菟砥

古い時代の肥後の国造は火国・葦北・阿蘇の三つで吉備津彦命の子の三井根子命が初代葦北国造となりその子供が大伴金村の命で軍を率い任那を制圧した阿利斯等でさらに日羅と続く。それから阿蘇国造の方は健磐龍命の子とされる速瓶玉命が初代阿蘇国造となっている。

茅渟の菟砥川上宮に在った垂仁皇子・五十瓊敷入彦命は三十九年の冬十月「剱一千口」を作り石上神宮に納めたとされ、この時大王から楯部、倭文部、神弓削部、神矢作部、大穴磯部、泊橿部、玉作部、神刑部、日置部、太刀佩部など十箇の品部を賜ったと書紀が記録しています。崇神朝とは時間的に見ても、余り離れてはいないはずなのですが「笠縫」部の名前は何故か見当たりません。古代氏族が伝えた系図によれば、この時、皇子の手足となって「裸伴」とも「川上部」とも呼ばれた「剱」の製造を支えたのも天津彦根命の後裔(加志岐弥命、白根造の祖)だったようです。和泉国日根郡にある宇度墓は、この皇子のものだとされていますが、阿蘇ピンク石の産地である「宇土」半島と同じ名を負っているのはそれなりの理由があるのか?

健軍神社
大山田女:熊本市内の健軍本町(けんぐんほんまち)にある健軍神社です。県内有数の大きな神社であり、「熊本市最古の神社」とも言われています。阿蘇系の四大神社「阿蘇四社」の一社でもあるとか。
主祭神 健軍大神・健磐龍命

健磐龍命、天御中主神、仲津彦神、仲津姫神、神渟名川耳命(綏靖天皇)、阿蘇津姫命、草部吉見神、速甕玉命、彦御子命、比咩御子命、新彦命、若比咩命、若比古命、新比売命、弥比咩命等を祀るが(天御中主神、仲津彦神、仲津姫神の3柱以外は全て阿蘇神社祭神)、もともとは境内にある国造社の神、火(肥)国造 の祖である健緒組(たけおくみ。健緒純にも作る)と見る説もある
健緒組は『肥前国風土記』や『肥後国風土記』逸文によれば景行天皇の時代に肥(火)君(ひのきみ)の姓を賜ったといい、『国造本紀』によれば崇神天皇朝に火国造に定められたという

社伝によれば欽明天皇19年(558年)に阿蘇神社の大宮司が同神社を勧請して創祀し、異賊征伐の為に社号を「健軍」と称したといい、後に阿蘇四社の一として阿蘇神社の別宮とされた。

(由緒:パンフレットより)
欽明天皇(二十九代)十九年勧請の由来は、阿蘇神社神事祭祀執行の折々国司(藤原法昌)阿蘇神社へ供え物等運送するに夏は洪水旱魃、冬は、雪霜早く降りて五穀不熟を憐れみ、p
或る年冬十二月十三日国司阿蘇宮参詣の時此の原にて俄の大雪道路を塞ぎて
進退に迫り椎の樹下に野陣を張り遥拝して国司心底に阿蘇大神を勧請し
老弱者阿蘇参詣の労を救えればと念願なるに五更(現在の四時頃)の頃に至り
三歳ぐらいの童子忽然として石上に現れ国司に向かい
「汝阿蘇大神を尊信し二心なく厳寒積雪を厭はず此に来たりあまるに衆人遠路の労を憐れみ
大神を此の地に勧請せんと欲ふ神明何ぞ感応せさらんや宜くこの所に勧請すべし、
然るに阿蘇宮は皇城鎮護の為東に向かい当社は夷賊新羅鎮退の為西に向かい
健軍と号すべし汝に託す吾則阿蘇大神也」と宣り終えて去り給ふ国司驚き感じ此由、
見聞に依って、直ちに社宇を造建し阿蘇大神の荒霊を鎮祭して健軍神社と号す。
(文化四年の古文書より抜粋)
健軍神社は、承平年中肥後守保昌修宮殿と言う、健軍神社は、健諸組命を鎮祭すと言う。
健諸組命は、景行天皇の御代益城郡朝来那山の賊を誅め給いたる命にして
御功も有れば此の命を祀り給うことも有りしか此の命は阿蘇大神五世の孫と云い又、
阿蘇大神淑父に当り給ふ命なりと云う、朝来那山は当神社より東南に当り、
二里半に遠く三里に近しとある。現在は朝来山という。
(明治十八年の古文書より抜粋)

古墳

今城塚古墳の被葬者が継体天皇(在位507~531年)、植山古墳の被葬者が推古天皇(在位592~628年;日本初の女帝)である可能性が高いらしい。
宮内庁が継体天皇陵としているのは、大阪府茨木市の三嶋藍野陵(みしまのあいののみささぎ)=太田茶臼山古墳であるが、今城塚古墳は陵墓参考地からも何故か漏れていたために、発掘調査ができた珍しい例である
この発掘調査で、多数の埴輪群が出土している。中には、高さ170cmもある高床式の家形埴輪もある。屋根に千木(ちぎ)や堅魚木(かつおぎ)があり、太い棟持柱(むなもちばしら)のある建物で、建築学的には神明造り(しんめいづくり)とよばれる皇祖神を祀る伊勢神宮の正殿とそっくりなのである
この古墳は13世紀に盗掘にあっており、石室の中の副葬品や石棺はすでに失われているが、石棺の破片が残っていて、3種類の石材が使われていたことが分かった。そのうちの1つが、阿蘇ピンク石というわけだ。3種類の石材とはどういうことなのだろう。見つかった3種類の石材はいずれも石棺の蓋の1部分であることがわかっている。

奈良県の植山古墳

奈良県の植山古墳からは、平成12年の発掘調査により、蓋が割れてはいたが、ほぼ完全な形で阿蘇ピンク石製の石棺が発見された。『日本書紀』の記述などから、この植山古墳は、推古天皇の息子の竹田皇子を埋葬した古墳で、遺言によって、息子と一緒に推古天皇が埋葬された初陵である可能性が高まった。

紀ノ川沿いに築造された大谷古墳(全長67m、方円墳、和歌山市大谷)から阿蘇石の組合せ石棺が出土しているのです。この古墳は紀氏一族のものではないかと見られており、築造年代は五世紀後半まで降りますが、九州と和泉、紀州との間に古くから交流があり、葬送に関わる重要な資材が運び込まれていたことが明らかになっているのです

熊本の宇土と茅渟の菟砥

西暦925年に完成を見た「延喜式」諸陵寮に、
宇度墓
五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町、南北三町、守戸二烟

岩戸山古墳
阿蘇石(ピンク石ではない)で作られた石人(せきじん)・石馬(せきば)とよばれる石の埴輪が百体以上あった

 阿蘇ピンク石の石棺・破片十数例のうち、古墳の大きさ(墳丘長二〇〇メートル前後以上)から見た大王級のものは、今城塚古墳の石棺破片だけしかなく、ほかの古墳は出所不明のもの二つ(桜井市慶運寺の石棺身、同金屋の石棺蓋)を除いても全て一〇〇メートル以下。

古墳・遺跡名 古墳の形  墳丘長・径メートル  石室   築造時期   所在地
兜塚     前方後円墳    四五      竪穴式  五世紀後半  奈良県桜井市浅古
長持山    前方後円墳    四〇      竪穴式  五世紀後半  大阪府藤井寺市
野神     前方後円墳    二二?     竪穴式  五世紀末   奈良市南京終
金屋石棺蓋  (出所不明)                五世紀末   奈良県桜井市金屋
備前築山   前方後円墳    八二      竪穴式  五世紀末   岡山県長船町
峰ケ塚(破片)前方後円墳    八八      竪穴式  六世紀初頭  大阪府羽曳野市
円山     円墳       三〇      横穴式  六世紀初頭  滋賀県野洲町
甲山     円墳       三〇      横穴式  六世紀前半  滋賀県野洲町
東乗鞍    前方後円墳    七二      横穴式  六世紀前半  奈良県天理市乙木
別所鑵子塚  前方後円墳    五七      直葬   六世紀前半  奈良県天理市別所
慶運寺石棺身 (出所不明)                六世紀前半  奈良県桜井市箸中
今城塚(破片)前方後円墳   一九〇      横穴式  六世紀前半  大阪府高槻市

岡山市新庄の造山古墳
石棺(周辺の陪塚から出土したもの)が阿蘇ピンク石とされていますが、この石棺は阿蘇溶結凝灰岩に間違いはありませんが、阿蘇ピンク石ではありません

 阿蘇ピンク石石棺の謎は「何故、九州から遙か東方へ運ばれ、使われたのか」ということのほかにもまだあります。
 その一つに、地元の九州では石棺材として使われた形跡が現在のところ見つかっていないのです。九州の古墳を築造できる支配層は阿蘇ピンク石を石棺に使用することを嫌ったのでしょうか。
 その二は、瀬戸内海沿岸や奈良盆地を含む畿内地域のいくつかの古墳や遺跡で、阿蘇ピンク石ではない阿蘇溶結凝灰岩でつくられた石棺が見つかっていることです。

八幡茶臼山古墳(京都府八幡市)や唐櫃山古墳(大阪府藤井寺市)、前出の長持山古墳(大阪府藤井寺市)からは、阿蘇ピンク石の家形石棺よりも古い形式とされる舟形石棺が出土しています。長持山古墳の阿蘇ピンク石ではない方の石棺などは、五世紀後半以後畿内を中心に盛行する刳抜式家形石棺の最も古い形とされていましたが、その石材が阿蘇溶結凝灰岩であることが判明しているのです。また、岡山県最大の巨大前方後円墳である造山古墳(岡山市下新庄)在の刳抜式石棺も阿蘇ピンク石ではない阿蘇溶結凝灰岩製であり、そのほか愛媛県や香川県にも同じ阿蘇溶結凝灰岩製の舟形石棺が出土しています。阿蘇ピンク石の家形石棺よりも前に、九州の石材でつくられた石棺が瀬戸内海沿岸や畿内に運び込まれているのです。

先ず、阿蘇産の凝灰岩はそれぞれ①氷川下流域、②菊池川下流域、③宇土半島(馬門)の順序で採石されたと考えられています。
その内の最も早い時期に造られたと思われるものが、

Ⅰ 京都府八幡市・八幡茶臼山古墳(旧山城国、八幡市八幡荘)推定四世紀後半   
Ⅱ 兵庫県たつの市御津町・中島石棺(旧播磨国)推定五世紀初頭

の石棺です

その次に古いと言われている「長崎鼻古墳、丸山古墳、青塚古墳(推定五世紀前半)」の三つが何れも旧讃岐国に築造されたものなのです。つまり、現在知られている九州、阿蘇溶結凝灰岩製の石棺は、最も早い時期に「京滋山城(八幡)」に持ち込まれた後、四国讃岐および吉備播磨地方の豪族が自分たちの終の棲家の石材として利用し、その後、河内や大和更には摂津、近江へと広がったと考えられる訳です。
ところで、上で見た二人の皇子の母・五十河姫(イカヒメ)と神櫛王の別名・五十河彦(イカヒコ)の名前に着目し、先代旧事本紀の景行段で「五十河彦命は讃岐直、五十河別の祖」と記してある事を合わせて考慮すると、この二人が元々「夫婦」の関係であったと推測できます。若し、この想像が許されるなら、稲背入彦王の父親こそが「讃岐直、讃岐国造、五十河別の祖」であり、景行帝と同皇子との[親子関係]は「後世、人為的に造られたもの」だと言えそうです。また、二人の皇子が「親子」だったとしたら、阿蘇の凝灰岩が「讃岐~播磨」へと伝わったとする考古学の研究成果とも齟齬をきたしません。(山城を地盤とした景行皇子・息長彦人大兄瑞城を祖とする茨田勝が、ここでも注視されます。息長を中心に考えると針間阿宗君の祖・息長日子王--息長宿禰王--加邇米雷王--山代之大筒木真若王のラインも併せて考慮すべきかも知れません。更には「息長」を冠した名前の娘・息長水仍比売が彦坐王に嫁ぎ、天津彦根命の一族に山背国造が在ることにも注目すべきでしょう。その天津彦根命が倭淹知造の祖でもあるのです。八幡茶臼山古墳からは少し南方に離れていますが、八幡市岩田という土地に五十日足彦命を祭神とする石田神社もあるので、息長族と天津彦根一族との濃厚な関係が垣間見えます)

中島石棺  阿蘇ピンク石  女九神社

ただ稲背入彦王についても古事記は何も語らず謎の人物というしかありませんが、唯一の手がかりになりそうなものが、垂仁帝の系譜段にある、

  また旦波比古多多須美知宇斯王の娘、氷羽州比売命(日葉酢媛)の弟、阿邪美能伊理毘売命を娶して生みませる御子、阿邪美都比売命。
  (中 略)次に、阿邪美都比売命は稲瀬毘古王に嫁ひたまいき。

の一文です。岩波古典文学大系の編集者も、この王子が景行の子・稲背入彦皇子か、と注釈を付けていますが恐らく「稲背入彦命」という王族の一員が垂仁帝の娘と一緒になること(婿入り?)で帝室の内部に組み込まれたものだと考えられるのです(唯、古事記が皇后・針間之伊那毘能大郎女の産んだ王子として、何故、櫛角別王と神櫛王の名前を別個に上げているのかは不明。書紀の神櫛王[五十河媛所生]兄弟に対応させたと考えるのが穏当だとは思うのですが…。尚、混乱を避けるため上の”円環”の所では敢えて註文を入れませんでしたが、古事記は櫛角別王を[茨田の下の連らの祖]、神櫛王を[宇陀の酒部の祖]だと書き分けています)。さて、非常に複雑な「改編」が施された稲背入彦王の事績を知る手掛かりは意外な所に在ります。それが、近江にある神社、兵主大社の『兵主大明神縁起』という資料です。

八千矛神(大国主神)を主祭神とする同社には、

  オオクニヌシが天孫に国を譲った時、御杖にと「国平御矛」を授けられ宮中で祀っていたが、景行帝はその神威を畏み穴師に神地を選び
  兵主大神として、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をして、これを祀らしめた。その後、同天皇が近江国に遷都される時、また同皇子が宮城の
  近くの穴太に社地を求め、部属を率いて遷し祀った。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を東に移住するに際し、
  再び大神を奉じて今の地に鎮祭し御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め祀り、神主(氏上)の祖神と仰いだ。

とする極めて具体的な「言い伝え」が残されています。日本書紀は「景行五十八年春二月」に近江へ行幸した帝はそのまま三年住み続けたと記録し、これを滋賀高穴穂宮としたらしいのですが、兵主側の伝承の背景には『景行帝の頃、稲背入彦皇子が大いに武威を発揮した』といった意味合いの他に、近江への遷都も同皇子の先導?があり、欽明朝にも子孫一族が近江国以東の発展に大きく寄与したとでも言いたげな口調が感じられます。この点について筆者は、かつて景行帝あるいは日本武尊の九州遠征に貢献した一族があり、その子孫の一人が稲背入彦王という人物ではないかと想像していたのですが、今回の阿蘇ピンク石の「移動ルートと時期」を調べてみて、更に、その思いを強くしました。また、河内楯原神社に伝わる「河内息長氏」の伝承にも「大国主が国を平らげた剣」を祀るという主題があって、息長との深い関連性も見逃せません。ここまでの推理をまとめると、以下の事項に集約されます。

  ① 継体帝が妃の一人として迎えた関媛の実家、茨田連は仁徳朝(つまり何代も前)から続く旧家であり祖先も親戚同志という伝承のある氏族だった(茨田屯倉の管理者か)。
  ② 同名の茨田勝は、景行帝の皇子、息長彦人大兄水城王を祖先とする一族だった。本貫の地は山城にあり茨田連との同族関係は不明。
     息長彦人大兄瑞城命=息前彦人大兄水城王=日子人大兄王=大江王(息長一族の祖?、仲哀皇后の父親)≒稲背入彦王?
  ③ 先代旧事本紀は櫛角別王という人物が茨田連の祖であり「新撰姓氏録」は五十香彦命(亦名、神櫛別命)が讃岐公の祖先だと記している。
     この「櫛角別王」と「神櫛別王」更には「神櫛王」は何れも同一人と思われ、日本書紀は景行帝と五十河媛との間に神櫛王と稲背入彦王が産まれたと記している。
     櫛角別王=神櫛別王=神櫛王=五十香彦命=五十河彦命(同様の書き分けが息子の稲背入彦王についても随所に施されていると考えられる。②参照)
  ④ 天皇本紀は五十河彦命が「讃岐直、五十河別の祖」と記し、茨田連の祖である「神櫛王」と同一人であると見られることから、書記が系譜上「兄弟」としてきた、
     神櫛王(讃岐国造、酒部公の祖)と稲背入彦王(針間直、播磨別)は実は「親子」の関係にあったと思われること。

ホムタワケ・応神帝の父親は仲哀帝ではなく「稲背入彦命」だったか?

「古事記伝」で知られる国学の大家、本居宣長は、その神櫛王について興味ある解釈を残しています。第二十九に含まれる「讃留霊王」にまつわる文章なのですが、大意を訳すと、

  讃岐国鵜足郡に祠があり、景行23年、倭建命の子讃留霊王が土佐の南の海に居た悪い大きな魚を退治した。そして留まり国主となった。
  これが綾氏、和気氏らの先祖ということだが、或いはこれを景行帝の御子・神櫛王なりとも又は大碓命なりとも云い伝えている。 
  讃岐の国主の始まりは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えているので、或いは武卵王のことかも知れない。

つまり宣長は「讃留霊王=神櫛王=大碓王=武卵王(たけかいこ)」である可能性について示唆している訳で、武卵王の「両親」に関して書記と古事記は珍しく一致した系譜を記しています。父は日本武尊そして母が吉備武彦の娘・吉備穴戸武媛の間に産まれたとされる王子の存在が、吉備播磨と讃岐の一方ならぬ関係を意味していることは言うまでもありません。しかし、いずれにしても悪い「大魚」を征伐した王は、元々から讃岐に居たのではなく「外」からやってきて四国に「留まった」人なのです。では、王の本当の「生国」は何処だったのか?それを「証言」してくれる物証こそ「阿蘇」溶結凝灰岩なのだと思います。阿蘇が「火の国」「肥の国」であることは論を俟ちませんが、その「火国造」に崇神朝の頃、大分国造と同祖の神武皇子、神八井耳命を遠祖とする多氏族の志貴多奈彦の息子・遅男江命が任じられたと「国造本紀」が伝え、正史の書紀は『景行帝の皇子、豊戸別皇子が火国造の祖』であると記録し、肥前風土記は「敷桁彦命の子の健緒組が火国造の祖」だと主張しています。正に三者三様の記述にも思えるのですが、先代旧事本紀の「天皇本紀」は、

  景行皇子・豊門別皇子  三嶋水間君、奄智首、筑紫火別君、壮子首、粟(阿波)首らの祖

としているのに対して日本書紀は、襲武媛の生んだ三人の皇子のうち、

  兄の国乳別皇子は、これ水沼別の始祖なり。  弟、豊戸別皇子は、これ火国別の始祖なり。

と書き記しています。「水間」と「水沼」、「火別君」と「火国別」は明らかに書き分けの典型だとすれば旧事本紀の謂う「豊門別皇子」と書紀が記した「豊戸別皇子」は同一人に違いありません。そして、この推理を前提にするなら、敷桁彦命(シキタナヒコ、志貴多奈彦と同一人?)の子供だとする健緒組(タケオクミ)と、志貴多奈彦命の子供・遅男江命が同じ人物である可能性があり、書記の言う国乳別皇子も同一人であると考えられなくありません。今回のまとめを想像も含めて系譜風に書くとすれば、

  神武帝--神八井耳命(彦八井耳命)……敷桁彦命--健緒組命(豊戸別)--武卵王(神櫛王)--稲背入彦王(息長彦人大兄王・大江王)……茨田勝

となって「息長」の源流が意外に奥深い処から出ている様に見えます

 古墳時代の石棺の形は、前期・中期の刳抜き式石棺(割竹形、舟形)、中期後期の組合せ式石棺(長持形、家形)、後期の刳抜き式家形石棺などがありますが、石棺の材質分析から産地を推定できます。
 石材の種類は竜山石と二上山の凝灰岩のほかに、鷲ノ山石(香川県綾歌郡国分寺町の石英安山岩質凝灰岩)、九州の阿蘇溶結凝灰岩などがあります。

 阿蘇石の使用例は、熊本県宇土市の鴨篭(かもご)古墳の家形石棺、熊本県玉名市の江田船山古墳の組合せ式家形石棺、奈良市南京終町(みなみきょうばてちょう)の野神古墳の初期家形石棺、奈良県桜井市の兜塚古墳の石棺、奈良県橿原市の植山古墳の石棺、京都府八幡市の八幡茶臼山古墳の舟形石棺、滋賀県野洲市の甲塚古墳と円山古墳の石棺、岡山市北区の造山古墳の長持形石棺などがあります。

 二上山白色凝灰岩の使用例は、奈良県桜井市の赤坂天王山古墳の刳抜き式石棺、奈良県生駒郡平群町のツボリ山古墳の刳抜き式家形石棺、奈良県桜井市のホケノ山古墳の石棺、奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳の石棺などがあります。

 竜山石の使用例は、王墓を始めとして、岡山市北浦の八幡(やはた)大塚2号墳の組合せ式家形石棺、奈良県桜井市の艸墓(くさはか)古墳の刳抜き式家形石棺、奈良県広陵町の牧野古墳の組合せ式家形石棺、大阪府茨木市の耳原古墳の刳抜き式家形石棺と組合せ式家形石棺など非常にたくさんあります。