毛野氏族の祖たる御諸別命の名や毛野氏族の姓氏・分布などから見て、大和の御諸山(三輪山)や三輪氏族との関連性がかなり顕著であり、両毛地方の主要神社の祭神としての大己貴命の広範な存在もあって、毛野氏族の実際の系譜は、三輪氏族を含む海神族の東国分岐とみられる。
毛野前代の系譜については、世代などから推定して、磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、その孫が豊城入彦命(能登国造の祖・大入杵命にあたるか)、その子に八綱田命(吉備氏族の祖・彦狭島命と同人)であり、これが御諸別命の父ではないかとみられる。また、八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。
なお、彦狭島命とは吉備下道系の祖たる稚武吉備津彦命と同人であり、毛野は吉備の分流であることが分かってきている。
○ 毛野氏族の分布は、起源地の茅渟地方を出て摂津・河内に入り、近江から北陸道(特に能登)、信濃を経て毛野地方(上野、下野の両国)に到る経路をとって、畿内から東国へと続いていたとみられる。
毛野出身の氏族として「東国六腹朝臣」と総称される上毛野氏・下毛野氏・大野氏・池田氏・佐味氏・車持氏ら6氏が、朝廷の中級貴族として活躍を見せた。
7世紀には、白村江の戦いにおいて、倭国主力軍の将軍として上毛野君稚子が朝鮮半島に派遣され一定の戦果を収めたたほか、三千は『帝紀』と上古諸事の記定に携わり、いずれも中央貴族として活躍した。天武天皇13年(684年)には上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、池田朝臣、車持朝臣、大野朝臣のいわゆる「東国六腹朝臣」が「朝臣」姓を賜り、中央の中級貴族として活躍した。また、下毛野古麻呂は藤原不比等らとともに『大宝律令』の編纂に関わり、のちの三戒壇の1つ・下野薬師寺を氏寺として建立したとも伝えられる。
8世紀に入ると、初期には陸奥守に小足・安麻呂、陸奥按察使に広人、後半には出羽介・出羽守に馬良、陸奥介に稲人が任じられたように、蝦夷に対する活動が行われた
東国六腹朝臣全体においても、下毛野石代が副将軍、大野東人が陸奥按察使兼鎮守府将軍、池田真枚が鎮守府副将軍に任じられた。蝦夷対策を担当した点については、後世に陸奥国の豪族に「上毛野陸奥公」や「上毛野胆沢公」等の賜姓がなされていること、俘囚の多くが上毛野氏系の部民に多い「吉弥侯部」を名乗ったことからもうかがわれる。しかしながら、広人が蝦夷の反乱に遭い殺害され、宿奈麻呂が長屋王の変に連座して配流された後は没落した。以後は、代わって田辺史系の上毛野が中核を占めるに至った
渡来系の上毛野氏は、豊城入彦命(第10代崇神天皇第1皇子)の五世孫・竹葉瀬(たかはせ)を祖と称する皇別氏族。「上毛野君(公)」のち「上毛野朝臣」姓を称した。
出自
『新撰姓氏録』の上毛野朝臣(皇別 左京)条には「豊城入彦命五世孫・多奇波世君の後」であり「天平勝宝2年(750年)に田辺史から上毛野公と改姓した」と注記されている。この多奇波世君(たかはせのきみ、竹葉瀬に同じ)の後裔と記される氏族は他にも住吉朝臣・池原朝臣・桑原公・川合公・商長首があり、これらの氏族は渡来系のグループと解されている。
『日本書紀弘仁私記』序においても「諸蕃雑姓」に注として、田辺史・上毛野公・池原朝臣・住吉朝臣4氏が百済からの渡来人でありながら竹合(竹葉瀬に同じ)後裔を仮冒したことが記載されている
竹葉瀬(たかはせ)は、古墳時代の人物。多奇波世、竹合とも。また氏の名を冠して上毛野竹葉瀬、上毛野竹合とも。
上毛野君の祖。仁徳天皇年間に朝鮮へ派遣されたという武将である。
『日本書紀弘仁私記』序には「諸蕃雑姓」に注として、
「田辺史、上毛野公、池原朝臣、住吉朝臣らの祖、思須美(しすみ)、和徳(わとく)の両人、大鷦鷯天皇(おおさざき-、仁徳天皇)御宇の年、百済国より化来す。しかして言うに、おのれらの祖、これ貴国将軍上野公竹合(たかはせ)なりといえり。天皇、矜憐して彼の族に混ず。しかして、この書に諸蕃人(= 渡来人)というなり。」
歴史
前述のように天平勝宝2年(750年)に「上毛野君」を賜姓され、弘仁元年(810年)に「上毛野朝臣」を賜姓された。以降は朝廷の要職に就き、東国系氏族に代わり上毛野氏の中核をなした。
○ この氏族からは、天武~文武朝には、「帝紀」編纂にも参加した大錦下上毛野君三千や、律令撰定に関与して参議・式部卿・大将軍となった下毛野朝臣子麻呂、奈良朝初期にも参議大野朝臣東人などの有力官人も出したが、いずれもまもなく衰え、奈良朝後期からは旧姓田辺史であった上毛野氏が外記局の官人として見える。
平安前期頃からは上毛野氏や下毛野氏の者が世襲的に近衛府の下級官人・舎人として見えてきて、近世まで続く家もあった。これらは東国在地土豪層の系譜を引くようにみられるものの、具体的な系譜・出自は不明である。
毛野氏族から出た地方の国造としては、上毛野国造、下毛野国造、針間鴨国造、浮田国造(及び能登国造)があげられる。この氏族奉斎の神社としては、下野国河内郡宇都宮の二荒山神社(宇都宮大明神)及び豊城入彦命を祭る示現太郎宮があげられる。
近江の犬上君・建部君も、毛野・能登氏族の出自か。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の子・稲依別王の後裔と『記紀』に記載される地方豪族・犬上君(いぬがみのきみ、犬上氏)が勢力的地盤としていた地域であり、郡名も一族の名に由来している
犬上神社
琵琶湖のほとり、湖東の犬上郡中央部、豊郷町に鎮座する古社です。犬上郡のある近江の国は、百済から入植した帰化人が開いた土地で、犬上郡の地名にもなっている犬上氏は、天日槍(あめのひぼこ)とともに百済から渡来した豪族であり、犬上郡の県主(あがたぬし)だったといわれています。犬上神社は犬上氏の祖を祀っているとのことです。
中世の近江犬上郡
下記の荘が置かれた。
犬上荘(いぬかみのしょう) – 領家は、広隆寺領、興福寺領、山門家領、ほか。
多賀荘 – 領家は多賀神社(現・多賀大社)。
水沼荘(みぬまのしょう) – 水沼村を前身とする荘園。領家は東大寺[3]。
高宮庄 – 領家は山門領。
甲良荘(かわらのしょう) – 尼子郷(尼子氏発祥地)、下之郷(多賀氏の本拠地)、藤堂村(藤堂氏発祥地)、法養寺村(甲良氏発祥地)、ほか。
安食荘(あじきのしょう、あんじきのしょう)
安養寺荘
覇流荘(へるのしょう) – 覇流村を前身とする荘園。領家は東大寺[3]。
阿直岐(あちき)は、記紀によれば、百済から日本に派遣されたとされる人物。阿自岐神社の祭神であり、子孫が始祖を祀ったとも考えられている、また彼は同時代の人物の阿知使主と同一人物だったのではないかとも言われている。
東の国へ移った毛野族、荒河刀辧―豊木入日子命の『日本書紀』に出てくる 系譜をあげると次のようになる。
豊城入日子命―八綱田命―彦狭島命―御諸別命―大荒田別命―上毛野君
坂本から十キロほど北方の小野に小野神社がある。和迩の地名や和迩川が琵琶湖に流こんでいるように、和迩族の居住地である。式内社小野神社を祀る小野氏も和迩族から出た。祭神は和迩氏祖の天足彦国押人命と七世孫で小野氏祖の米餅搗大使臣命を祀る。付近一帯に近江国有数とされる古墳時代前期の前方後円墳の大塚山古墳はじめ、多数の古墳がある。
倭国を追われた出雲族は鐸を祭祀していたとすれば、この和迩族出身の小野氏が最も崇福寺から出土した銅鐸を祭祀した可能性が高い。というのも、小野氏は信州伊那の小野神社を祀り、諏訪神社などと同じく鉄鐸を祭器としている。諏訪地方は天竜川を溯った三遠式銅鐸の終着地点である。
小野氏が祭祀したであろうと思われる鉄鐸は、さらに東山道を南下して、毛野国は毛野族の聖地ニ荒山に祀られた。ニ荒山頂から百三十一口の鉄鐸が出土している。ニ荒山神社の初期の神主は小野氏であり、小野猿丸大夫の伝説をのこしている。因みに猿を神の使いとしたのは日枝神社である。
「近江の鏡村の
谷の陶人は天日槍の従人なり」とある
陶人というのは、須恵器の制作に携わる人々のことであり、鏡村
は、滋賀県蒲生郡竜王町鏡に比定されています。竜王町には須惠と
いう地名も存在しています。
それに鏡には、アメノヒボコを祭神として祀る鏡神社も鎮座して
いるのです。
また、竜王町に隣接した野洲市の小笹原大岩山からは、日本で発
見された銅鐸の中では最大を誇る高さ134.7センチの銅鐸が発
見されているのです。
東近江市 百済寺
百済寺は、今から1400年前の推古14年(606)に、渡来人のために聖徳太子さまが創建された近江の最古刹です。
像高2.6mの十一面観音を本尊とし、御堂は百済の「龍雲寺」を模して創建され、開闢法要には、高句麗僧「恵慈」を咒願とし、百済僧「道欽」や暦を伝えた「観勒」も永く住したと伝えられております。
その後、鎌倉時代からは「天台別院」と称され、1,300人が居住する巨大寺院となりましたが、惜しくも天正元年4月11日に信長の焼討ちに遭いました。
百済寺(ひゃくさいじ)は、滋賀県東近江市にある天台宗の寺院。山号を釈迦山と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は聖徳太子とされる。金剛輪寺、西明寺とともに「湖東三山」の1つとして知られる
663年の白村江の海戦で百済-日本連合軍は、新羅-唐連合軍に壊滅させられた。豊璋は北方へ逃げ百済は完全に滅亡した。日本軍の生き残りは百済の亡民を保護して日本に戻り、その後も百済から日本への亡命者が絶えなかった。
王族に連なる鬼室集斯の一行もこのような亡命者であったが、一行には法制、学術、兵法、医薬などに優れた人材がいたと思われ、天智天皇の近江朝廷は鬼室集斯に位階を与えて優遇した。日本書紀天智紀8(669)年には、佐平(百済の官位)余自信、佐平鬼室集斯等男女七百余人を近江国蒲生郡に遷す、という意味の記載があるので、鬼室集斯はこのときに蒲生郡に定着したらしい。
司馬遼太郎の「街道をゆく」には、天智天皇のときにはじめて大学寮が設けられ、鬼室集斯がいきなり文部大臣兼大学総長ともいうべき「学識頭」に補せられているのである、とある。
敢国神社
伊賀国阿拝郡に登載のある式内大社で、伊賀国一宮。
現在の祭神は大彦命だが、ほんらいは阿倍志比古を祀っていたという説もある。
式内・穴石神社はこの伝承に登場する「穴志の社」のことで、阿倍志比古は阿閉アエ氏(=敢アエ臣)の祖神だ。柘植郷は機内から東海方面に出る際の交通の要衝で、鈴鹿越えをする際の関門にあたっている。この伝承は機内勢力の先駆けであった阿閉氏の祖先が、伊賀を通って東海方面に進出しようとした際、柘植郷にいた土着勢力から強い抵抗を受けた記憶を伝えるものだろう。この伝承で阿倍志比古は、伊勢津彦に敗れたことになっているが、実際のヤマト王権は、雄略朝の頃にはとっくに関東まで勢力を広げていたのであり、柘植郷にいた土着民たちも、その頃には機内勢力に屈し、阿閉氏の支配下に入っていたはずである。
車持氏のいわれと群馬
車持氏の場合は、越(こし)、および上野国群馬(くるま)郡、筑紫、摂津の四地域に関わりが見られるが、車持とはきわめて特異な氏名であり、結論的に記せば、その名は居地にもとづく名というよりも職掌にもとづく名と考えられる。つまり天皇(大王)に近侍してその日常や儀礼に供奉した主殿の任務分掌のひとつである興連の供御、すなわち輿(もちこし)をかかげ、こしぐるまをひくことにもとづく負名の氏が車持氏の本来の姿であった可能性が高い。したがって、車持氏はかなり古くから王権と深く結びついた氏で、その性格は物部氏や大伴氏に近かったと考えられる。
群馬は現在県名ともなり「ぐんま」と読まれているが、『和名類聚抄』は「久留末(くるま)」と訓んでおり、藤原宮木簡でも、「車評(くるまおこほり)」である。
そして、つい最近まで群馬郡には久留馬村(榛名町東部)・車郷村(くるまさとむら)(箕郷町西部)が存在していた。「クルマ」が本来の名だったのである。
その群馬郡内あるいは上野国内に車持郷や車持氏の存在は確認できないが、平安時代中期成立の『上野国神名帳』群馬西郡条には従五位車持明神、正五位車持若御子明神が見えており、群馬西部にあたる榛名山山麓に車持氏が一大勢力を築いていたことは否定できないであろう。
車持神社
所在地 群馬県高崎市十文字町地内
祭神 火産霊神 埴山姫神 車持公
由緒勧進年月はあきらかでないが、上野国神名帳書載の従五位上車持明神は当社のことである。本村は榛名山に登る東南の入り口なので、昔から榛名神社の分霊及び車持の公をいつきまつる。境内の鳥居にかけてある古い額面に満行宮と彫刻がしてある。一説に本村は和名抄にある群馬郡郷名群馬の郷で、上野国造豊城入彦命の子孫の住んでいた所である。字名上野と称する所にその子孫にあたる車持公が住んでおられたので、後人が、この公の住居した跡に祠を建て、車持公に榛名神社大神を合わせ祀つたのだといわれている。創建以来社殿の改築は幾回か重ねられたのであるが、現在の社殿は天正八年(1580)九月の造営である。
豊城入彦命 と十文字朝日の原
豊城入彦命は、人皇第十代崇神天皇の長皇子で、東国統治の大任を帯び詔を奉じて遙かに東国に下向、上上野朝日の原の地を相し、居城を築いて東国統治の根城とし、久しく統治されておったが、遂に此の地におかくれになったという。墓所は実に此の処にありなさる。築城のさい、此の地に用水の便がなかったので、北方久留馬川より新たに水路を開き、それを引いて飲料に供せられた。その堰跡は今も尚存在している工を起こすにあたり、命は水神の加護を祈って御神木とし、一本の松をお手植えあそばした。この松こそ名勝「群馬の松」の起源である。 上野君豊城入彦命の後裔射狭君の後車持公は世々榛名山の南麗のこの辺一帯の地を領地とされたから,古くから「車の里」とよびなした。 雄略天皇の時乗輿を作って献納した功により、車持の姓賜わり、子孫はこの地に封土を得て、各所に居住し、やがて地名となった。
天皇の乗輿を製作、管理することを職業とした氏族で、その職務を果すための費用を貢納する車持部を与えられていた。「新撰姓氏録」の左京皇別の項に、豊城入彦命〔とよきいりひこのみこと〕の八世の孫の射狭君〔ささのきみ〕の後で、雄略天皇の代に乗輿を供進したため車持公〔きみ〕の姓〔かばね〕を賜ったとある。また摂津国皇別の項にもみえるので、摂津国にも居住していたらしい。そのことは「日本書紀」の履中天皇5年10月条の記事にっよても裏づけられる。すなわち車持君が筑紫国に行き、宗像神社に割き与えられていた車持部を奪いとった祟りで天皇に妃が死んだため、天皇はその罪を責めて、長渚崎〔ながすのさき〕で祓〔はら〕え禊〔みそぎ〕を行なわせたとあるが、長渚崎は現在の尼崎市長洲付近にあった海岸で、車持氏が摂津国河辺郡とかかわりがあったことを暗示している。