近江商人 滋賀の特性

湖西の石積み職人「穴太衆」のルーツが渡来人であると同様、湖東の近江商人のルーツも渡来人であるという説がある。石塔寺や百済寺の起こりをみても分かるように、湖東地方にも早くから朝鮮半島からの渡来人が集住して高い文化が形成されていたので、そのことが計数に明るい多くの商人を生んだと言う説である。

司馬遼太郎も、前述の「歴史を紀行する」の滋賀の章で、近江人の商才という特質は、朝鮮からの帰化人に帰すると考えるのが一番素直であるとし、菅野和太郎氏の著書「近江商人の研究」を紹介している。その大意は、商人的素質をもった高麗の帰化人が湖東に移住し、本国に習って市を開き、叡山と結んで専売権を確立、商権を拡張して飛躍し、農民、武士からの転向者を加え、全国の行商行脚に力を伸ばした、というようなことである。

また商才があるということは利害損得にさとく、義理人情とは縁遠い行動をとる感じがするが、歴史上の著名な近江人を列挙すると、どうもそうではない人物が多いとも指摘している。近江人の武将には浅井長政、蒲生氏郷、石田三成、大谷吉継、木村重成、大石良雄たちがいるが、彼らはむしろ節を曲げなかったことで有名である。

ただし彼らの多くは、計数観念や経済観念が発達していた。蒲生氏郷は、故郷の近江では日野商人を発達させ、転封先の伊勢では伊勢商人を育成し、さらに会津では漆器職人を移住させ、関東に日野椀を売る商人を育成した有能な財政家であった。石田三成は薩摩征伐の後、島津家に帳簿の作り方や経理技術を指導した有能な財政コンサルタントであった、とも言っている。