讃岐 津田 富田茶臼山古墳は四国最大

四国最大の古墳『富田茶臼山古墳』

全讃史には、仁徳天皇陵、或はその御子難波皇子の御墓なりとの諸説があり、また 古枝皇子あるいは寒川皇子の墳墓ではないかという伝承もある。

富田茶臼山古墳は高さ15メートル、長さは139メートル。
周りには、茶臼山古墳に従属するように『陪塚』という四角い古墳が3基あります。
古墳の横をよく見ると3段になっています。大阪や奈良などの国の中心にあった古墳に良くある特徴なんです。
造られたのは 5世紀前半 400年代で。仁徳天皇の古墳と、この茶臼山古墳は ほぼ同時期に造られ、同じ造りをしているとの報告がある。

この古墳については、江戸時代の文献「三代物語」(1745年の歴史地理書)また「全讃史」(1828年)にも記録が残されている。
これによると周りに濠があって、円筒埴輪が数多く埋められ、黒油石(讃岐岩質玄武岩)と言われる石が墳丘に多量に使用されていたことがわかる。
地元の古老から、昭和の始め頃まで、前方部には茶褐色の丸い土管のようなものが立っていたという話から、円筒埴輪が残存していたことが推測できる。
また明治時代の初め、後円部の石室あるいは石棺が開けられ、人骨や剣、玉等が出土したという話もあった。。 この古墳は誰の墳なのかは解っていない。 前記の史籍では、日本武尊の御墓?。 全讃史には、仁徳天皇陵、或はその御子難波皇子の御墓なりとの諸説について、今俄かには信じがたしと記されている。 古枝皇子あるいは寒川皇子の墳墓ではないかという伝承もある。
昭和14,5年ごろに着工した県道高松長尾大内線工事では地元の反対にもかかわらず、後円部の墳丘と周濠の一部分が削り取られ、茶臼山古墳保存の上では、残念な結果を残すこととなった。

富田茶臼山古墳にほぼ併行する時期の古墳としては、高松市三谷石船古墳、今岡古墳、石舟天神社古墳、坂出市田尾茶臼山古墳、善通寺市青龍古墳、多度津町盛土山古墳等があげられる。
これらは、ほぼ後世の郡単位に1基~2基毎に分散した立地を示し、やはり広範囲な勢力の結集を推定すべきであろう。
また、これらのうちの多くは律令時代の南海道の近くに立地しており、相互に連携をもっていた可能性はある。
とはいえ、富田茶臼山古墳の規模の隔絶性並びに墳丘築成法の畿内との緊密性からすれば、その優位性は動かし難く、畿内政権の各地大連合首長に対する政治基調の先導を担っていた可能性は高い。

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讃岐の津田湾の古墳群
非常に古い時代から、古墳が作られた。
大内町における大日山古墳(4世紀末?)
津田町津田湾——うのべ山古墳(3世紀後半~4世紀初頭)
寒川町北部雨滝山西麓の奥——奥3号墳(3世紀後半~4世紀初頭)
長尾町南郷の塚原—————丸井古墳(3世紀後半~4世紀初頭)

川東・古枝グループ

川東古墳
全長約39mをはかる積石塚で、津田町うのべ山古墳とともに県内の積石塚の東限をなす。
前方部のバチ形屈曲部位が後円部寄りで、後円部は主軸方向に長い長円形を呈している。墳丘主体部の 形状、副葬品ともに不明である。
川東古墳は4世紀初頭前後に築造期が求められている。
古枝古墳
雨滝山から南西方向に延びる尾根先端部に位置し、全面平野部との比高差は約25mをはかる。
墳丘は全長35mをはかり、前方部はやはりバチ形に開く。墳丘主軸に直交し、ほぼ東西方向に平行に構築された竪穴式石室、粘土槨を主体とする。
竪穴式石室からは方格規短四神鏡1、ガラス小玉5、管玉3、粘土槨内から三角縁人物獣形鏡、鉄鏃2等が出土している。
古枝古墳4世紀中葉~後半の築造が考えられる。

奥グループ

弥生時代後期後半~末頃に築造されたと考えられる奥10号、11号墓等、弥生墳丘墓以降の系譜を持つ古墳群である。
古墳時代前期前半に位置ずけられるのは奥3号墳である。前長約40mをはかる前方後円墳で、竪穴石室からは椿井大塚山古墳と同形の三角縁三神五獣鏡が出土している。
後続するのは奥13・14号であろう。いずれも全長30m程度の前方後円墳と推定され、粘土床を有する竪穴式石室を主体部とする。14号墳からは画文帯環状乳神獣鏡が2面出土している。いずれも4世紀後半代と推定される。

塚原グループ

丸井古墳(古墳時代前期前半)、中代古墳、稲荷山古墳等の前期前方後円墳が所在し、この順に築造されたものと推定される。やはり5世紀初頭には首長基系譜は途絶えるものと推定される。

津田湾グループ

津田湾沿岸部には多数の前期古墳が所在している。
その鶴羽地区にはうのべ山古墳(積み石塚で前方部先端がバチ形、広口壷片出土)が古墳時代前期前半の築造をもとめられる。
後続の赤山古墳は全長50m程度の前方後円墳で3基の割竹形石棺が埋地され、仿製方格規矩鏡、変形神獣鏡、石釧、碧玉製管玉等の出土を伝えている。
注目すべきは、石棺の向きが東西(在地色)と南北(近畿色)とがあり、このことから在地色豊かな古墳から畿内色が徐々に強まる分岐点の時代の古墳とおもわれる。
続くけぼ山古墳は全長57mの前方後円墳で、竪穴石室内に割竹形石棺が安置されていたといわれる。
石室の天井石および石棺片(平成22年発見)には縄掛突起がみられる。4世紀末前後に築造された富田茶臼山古墳以前のものである。
湾沿岸の北の羽立地区の岩崎山4号墳は全長49mの前方後円墳で割竹形石棺を納めた竪穴式石室を主体部とする。
2神4獣鏡、4神4獣鏡、石釧、車輪石、勾玉、管玉の出土を伝える。赤山古墳より後、けぼ山古墳より前の古墳時代前期後半に築造されたものと思われる。
同地区の龍王山古墳は直径30m前後の円墳で長さ5.9mの長大な竪穴式石室を有し、仿製内行花文鏡、鉄鏡、直刀が出土している。
岩崎山とともに南北の石室、円筒埴輪などから、畿内勢力の影響が色濃くなっていると考える。

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うのべ山古墳

津田町鶴羽にある、積石塚の前方後円墳です。積石塚とは土の代わりに石を積み上げて造られた古墳で、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)は、香川県と徳島県の一部にしか造られない大変珍しい古墳です。
うのべ山古墳は、これまでも古い段階の古墳であると考えられていましたが、平成16・17年度の調査により古墳の形と出土した土器から、全長37mの大きさをもつ、3世紀後半に造られた四国最古級・津田湾古墳群中最古の古墳であることが分かりました。
これまでに知られていたこと
撥形(ばちがた)の前方後円墳で前方部の幅が狭くて低い。初期古墳の可能性がある。
在地的な積石塚ではあるが、低い場所に造られ、他の積石塚とは異なる特異性がある。
古墳の周りに段を築いている(外周段築)。