讃岐東部 白鳥神社、寒川神社

讃岐 寒川神社

讃岐の国の寒川氏ですが、旧香川県大川郡寒川町史他には地域の名族である寒川氏についての筋目について多くの記述があります。また南海治乱記他などにもある。
最も有力な説は、
讃岐の国の寒川氏は、景行天皇の皇子、讃岐の国の国造神櫛王の末孫で、讃岐の国の大内、寒川郡の郡司として地域では有名な氏族で、同流には十河氏等があり讃岐では有力でした。
歴史が下り南北朝戦国時代には、細川氏の被官の安富氏に屈し領地を割譲し、豊臣秀吉の島津征伐の際には戸次川の戦いでは、讃岐の諸名族と同じく嫡流ははぼ絶え、国元での家勢は下ってしまいました。

讃岐 白鳥神社
東かがわ市
日本武尊伝説及びこの神社に因み、所在地町名は大川郡白鳥町だったが、2003年4月1日に大川郡3町が合併

日本武尊
阿波国風土記と常陸国風土記はこの御祭神である日本武尊(倭建命)を「倭建天皇」として記している。
下の讃岐の史書「西讃府志」の137ページ。「弟橘姫ハ讃岐人穂積氏忍山宿禰ノ女也…..」とあります。
現在は讃岐の善通寺市「大麻(おおま)神社」に祀られております。

穂積忍山宿弥 弟橘媛の父
弟橘比売命,(弟橘媛命)は日本武尊の奥さん ほづみおしやまのすくね 相模国国造・穂積忍山宿弥の娘,
            橘元彦 ─────── 弟橘媛(稚武彦王の母)
           (別名 穂積氏)  
           (忍山宿弥)
           (押山命)
物部の系図
饒速日尊-宇麻志麻治命-彦湯支命-大禰命-出石心大臣命-大綜杵命-伊香色雄命-大水口宿禰命-建忍山宿禰→弟橘媛

能褒野(三重県亀山市)で戦死し葬られたのち、白鳥となって飛び去った日本武尊の霊が舞い降りた、という伝説が残る。当地に降りた白鳥は間もなく死んだため、日本武尊の子である武鼓王が廟を建て手厚く葬ったという。白鳥神社はこの時に始まるとされている。

白鳥神社の松原
播磨灘に面して4万坪の広がりを有し、瀬戸内海国立公園の区域に指定され、日本の白砂青松100選に選定されている。

讃岐 白鳥神社
白鳥神社(旧県社)
鎮座所 香川県東かがわ市松原69番地
祭神 日本武尊 両道入姫命 橘姫命

由緒
「日本武尊は人皇十二代、景行天皇の皇子に存らせられ、勅命に依りて九州中国を、その後東国を征定し給ひ環啓の途次、近江国の伊吹山にて癘病に触れさせ給ひ尾張国を経て伊勢国能褒野に至り病篤く、遂に薨じ給ふ。
御年三十、実に、景行天皇四十一年なり、天皇其の功を録し武部を定め群臣に命じ其の地に山稜を造り厚く葬り給ふ、群臣入棺し奉りしに、神霊白鶴に化し西方に飛び去る、棺内には只衣冠のみ空く在す、其の白鶴は大和国琴弾原に、又飛て河内国旧市の邑に至り亦更に飛て讃岐国大内郡鶴内の里に止り給ふ、依て此の所に神陵を建てさせ給ふ。
成務天皇の御宇、天皇の御兄弟神櫛王をして日本武尊の御子、武鼓王に従随せしめ給ひ讃岐の国造に封じ神陵を監せしめ給ふ。(武鼓王の神陵は綾歌郡に、神櫛王の神陵は木田郡牟礼町にあり)日本武尊の御子仲哀天皇の御宇神籬を建て封戸を寄せらる。
今の神社即ち其の御跡なり。爾後一盛一衰ありしも武家は弓矢の神と為し崇敬深かりき。寛文四年讃岐守高松藩祖松平頼重侯大に其の規模を拡め、社殿の修築をなし、領地を割き神領に寄し、幕府の朱印地に改めたり。明治五年県社に列せられ現在に及べり。」

猪熊家住宅(長年神官を務めた猪熊氏の屋敷。香川県指定文化財)
一族の猪熊夏樹は京都白峯神宮の宮司から京都府立第一高女教諭、宮中進講(皇族のための教師)になり、その息子・猪熊浅麻呂、孫・猪熊兼繁もそれぞれ国学者として時代考証などで活躍した。

20140803-100935-36575593.jpg

讃岐大内群水主神社
由緒
 弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返 され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命は、この争乱を 避けて、この地に来られたと伝えられています。
 姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々 のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを 助けたといわれています。
 境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、 山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多 くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造り で統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に 今も残っています。

寒川比古命寒川比女命を祀る大蓑彦神社
大蓑彦神社
 当社は延喜式神名帳に「讃岐二十四座の一」とす、里人蓑神明神と奉称す、神社の北方に寒川渕ありて名水なり、寒川郡名之によって起ると云う。

神名帳考証に「寒川郡大蓑神社水霊郡名寒川郡因此神歟」と云う。 特選神名牒に「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なりとある。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」と記されたり。
http://www.genbu.net/data/sanuki/oominohiko_title.htm より

牟弥乃神社 伊勢
寒川比古を祀る。灌漑の神様という。

水主神社
「この神社は、讃岐の国でも一二を争う格式のある神社」との話があり、義経さまは、屋島の合戦の前、ご自身の鞍(くら)を奉納(ほうのう)し、ひたすら勝利を祈りました。
伝承  社伝によると、倭迹迹日百襲姫命都の黒田宮にて、幼き頃より、神意を伺い、まじない、占い、知能の優れたお方といわれ、7歳のとき都において塵に交なく人もなき黒田宮を出られお船に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き、水清きところを求めて、8歳のとき今の水主の里宮内にお着きになり成人になるまでこの地に住まわれた。土地の人に弥生米をあたえて、米作り又水路を開き、雨祈で、雨を降らせ、文化の興隆をなされた御人といわれる。
http://www.genbu.net/data/sanuki/mizusi_title.htm
京都府城陽市にも水主神社がある。
日本書紀の仁徳天皇の時代・・・ 仁徳天皇12年冬10月、山城の栗隈県(くるくまのあがた)= 現在の、宇治市大久保周辺 に大溝を掘って、田に水を引いた。これによって、その地は、毎年豊かになった。とあるのデス。
http://www3.kcn.ne.jp/~mamama/kyoto/temple/mizusi-shrine-06.htm
近鉄寺田駅の西に「水主(みずし)神社」がある。「水主」は「みぬし」とも読む。水主氏は栗隈大溝を管理した者と伝えられる。後、水主の神は雨ごいの神ともなっている。栗隈王の名は「美努王」によって伝えられる。また栗隈黒媛娘は采女として天智天皇との間に「水主皇女(もひとりのひめみこ)」をもうけている(天智七年二月)。橘諸兄は孫に当たる。
美努王と水主神社が関連があった。
田村神社
讃岐一ノ宮で倭迹迹日百襲姫を祭っている神社。
祭神 倭迹迹日百襲姫命、吉備津彦命、猿田彦大神、天隠山命、天五田根命この五柱の神を田村大神という。
由緒  倭迹迹日百襲姫は吉備津彦命と西海鎮定の命を奉じ讃岐路に下り給ひよく鎮撫の偉功を立て当国農業殖産の開祖神となられた。   1.境内の西側に花泉がある。倭迹迹日百襲姫命が手を洗ったところと伝える。   2.境内の東側に袂井(たもとい)がある。倭迹迹日百襲姫がこの地にこられたとき、里人の奉る鳥芋(ごや)を食し熱病にかかった。このとき侍女が袂を浸して水を奉ったと伝える。   3.神社の東三丁のところにある。休石は倭迹迹日百襲姫命が憩はれた石と伝えられる。

大水上神社
大水上神社由緒略記
香川県三豊郡高瀬町大字羽方
御祭神 大山積命・保牟多別命・宗像大神
延喜神名式に「讃岐国三野郡小大水上神社」とあり、香川県内二十四社の一にして、一宮田村神社に次ぎ第二の社として「讃岐二宮」の称がある。 三代実録によれば、貞観七年十月従五位上より正五位下に次いで同十七年五月正五位上とある。景行天皇の御孫子武殻王当社を尊信し三野、豊田両郡を社領とし給い、延暦二十三年弘法大師入唐の際、参篭祈願し後小松天皇、後花園天皇、称光天皇より勅書を給わり、又源平屋島の戦に両氏戦捷を祈願せり。 皇室を初め武門武将並国中の崇敬篤く「建久九年二宮社領目録」によれば、二百町歩を有し一大荘園として勢力あり、古く恒例臨時の造営用途等公武官司の正税を以て之を弁す。建長年中の大造営に次ぎ、応永末年社殿大破したる時、朝旨により讃岐一円に人別銭を、永享年間に於いては国中の用脚を以て再建し、江戸時代に至っても累代藩主の崇敬深く、京極氏は社領三十石を寄せ奉る。