景行天皇の子・神櫛別命の孫須売保礼命が応神朝に讃岐国造を賜うに始まる。
敏達朝に凡直姓を賜姓、延暦10年(791)讃岐公に改賜姓、承和3年(836)讃岐朝臣に改賜姓。
更に嫡流は本貫を京都に移して、貞観6年(864)に和気朝臣に改賜姓。
讃岐で繁栄した後裔は、神内、三谷、寒川、由良、十河の庶子家を分出する。
景行天皇─神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鯽魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君
和気氏、植田氏/十河氏、寒川氏、三谷氏などが後継氏族
妃五十河媛、生神櫛皇子、稲背入彦皇子、其兄神櫛皇子、是讃岐国造之祖也、相伝フ
神櫛皇子・神櫛別命・五十香彦命(いかひこのみこと)とも。第12代景行天皇の第17皇子。『書紀』によれば、母は五十河媛(いかわひめ)で、同母弟に稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)がいたとするが、『古事記』では、母を針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)とし、兄に櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命がいたとする。
神櫛王は
讃岐国造(讃岐公)・紀伊国の酒部阿比古(さかべのあびこ)・宇陀酒部・酒部公の祖
景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀で記述が異なる。
先代旧事本紀巻第七 天皇本紀では
日本武尊は東夷を平らげて、帰ってこられるときに途中の尾張の国で薨去された
吉備武彦(きびのたけひこ)の娘の吉備穴戸武媛(きびのあなとたけひめ)を妃とし、武卵王(たけみこのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)を生んだ。また、穂積氏(ほずみのかばね)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘の弟橘媛(おとたちばなのひめ)は稚武彦王(わかたけひこのみこ)を生んだ。
ケイコウ天皇が
皇子に定めた六人の中、男五人、女一人。
大碓命(おおうすのみこと)[守君(もりのきみ)等の先祖]
次に小碓命(おうすのみこと)[日本武尊(やまとたけるのみこと)と追贈する]
次に豊国別命(とよくにわけのみこと)[日向の諸縣君(もろあがたのきみ)等の先祖]
次に稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)
次に五十城入彦命(いほきいりひこのみこと)
次に五十野姫命(いほのひめのみこと)[伊勢の天照大神を斎祠]
この頃の伊勢の天照大神を五十野姫命が斎祠している。
讃岐公は景行天皇の子神櫛命の後裔で讃岐国造家の嫡流子孫。平安時代初期までは讃岐国寒川郡の郡司を務めていたが、平城朝以降永直の祖父広直・父浄直と続いて明法博士に任ぜられた。
祖父・父に続いて永直も明法家の道を歩み、弘仁6年(815年)明法得業生、天長7年(830年)に明法博士に任ぜられる。承和元年(834年)外従五位下・大判事に遷任。承和3年(836年)に、弟永成・従兄弟当世らと共に朝臣の姓を賜与される。だが、嘉祥元年(848年)に親族和気斉之の罪に連座して土佐国に配流となった。2年後に帰京を許されて貞観元年(859年)に77歳で従五位下に叙せられた
寒川氏
寒川氏は讃岐国造の始祖である神櫛王(景行天王皇子)の流をを汲むものである。
神櫛王の子孫は東讃で栄え、敏達天皇の代に国造であった星直(ほしのあたえ)は、国を押し統べるという意味で大押直(おおしあたえ)の姓(かばね)を賜い、のち凡直と改めたが、延暦10年(791)願い出て讃岐公の姓を許され、任明天皇の承和3年(836)にはその一族二十八家に讃岐朝臣の姓を賜った。寒川氏は讃岐氏の一族で、代々寒川郡司をしていたので、寒川をもって氏とした。
室町時代になると寒川氏は京都法華堂領長尾庄の地頭をしたり(京都三宝院文書にあり)、その一族は京都東寺領上久世庄の公文職をしたり(東寺百合文書にあり)したが、やがて法華堂領などはその支配下に置き、細川氏の被官となって大内・寒川領郡を分領し、昼寝城を本拠に、台が山城(長尾名)を支城とし、東の備えとして虎丸、与治山の二城を構えたのである。
昼寝城跡 昼寝城は矢筈山の中腹に聳えた昼寝山頂に営まれたもので海抜400㍍、山上の平坦部は西方に約1㌃、東方はやや高くなり約2㌃あり、その間を馬場と思われる巾2㍍の通路で結んでいる。山上の平坦部はこのように狭く、しかも山は険しいので、平素居住できる所ではないが、一たん立て籠もると難攻不落、昼寝をしていても攻められないという要害からその名が出たといわれている。
平素の居館はこの城の北方山麓にあったといわれているが、所在地は確認されていない。山上平坦部西方に寒川社という小祠があり、現在も寒川四朗太家が祭っている。
昼寝城は東讃の名族寒川氏の居城であった。そのためいまも寒川姓を名乗る家は、長尾町内にも62軒あり、そのうち前山では19軒を数えている。寒川氏は「三階松」を家紋にしたが、前山の寒川姓を名乗る家で三階松、またはその替紋である「枯枝付三階松」や「三本松」を家紋にしている家は数軒。
寒川氏は讃岐公凡直千継の一族で、世々寒川郡の郡司を務め、その後裔が寒川氏を称したと伝えられている。大内・寒川の二郡および小豆島を併せ領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えて東讃岐に威勢を振るった。永正の初めごろ大内氏に属していたが、のちに細川氏に属し大内郡内で一万石を領した。
文明のころの寒川左馬允元家は、文明元年(1469)山田・寒川の二郡の民事で三谷景久と争った。左馬允も兵を起こして三谷氏を攻撃しようとしたが、細川政元の命によって兵をおさめた。しかし、翌年十一月、三谷城を攻め、景久を王佐山に遂い、さらに王佐山をも攻めたが落すことができず兵をおさめた。
永正六年(1509)、大内義興に従って上洛。同九年、伊予の能島氏より瀬戸内の某小島に明人が逃れてきて盛んに貿易を行っているとの情報が寄せられ、左馬允はこれを攻めて貿易の利を得んとした。大内義興からも許しを得た左馬允は香西・安富氏らと図って引田の浦より備後鞆に渡り能島・因島勢らとともに、明人の島に押し寄せた。明人は和を乞い、以後、明人から多大な貿易の利を得るようになったという。
永正四年(1507)三好元長らは管領細川政元を謀殺し、澄元および三好之長らの澄元派を京から一掃して、将軍足利義澄に細川家後嗣として澄之を認めさせた。しかし、その直後、澄元を支援した細川高国・尚春によって、澄之・元長らは京で討たれ敗走する。そのため、細川家の家督は澄元が継ぐことになった。
この京での対立は讃岐国内にも波及し、阿波の三好氏は東讃の十河氏や植田一族と図り、香西氏を中心とする讃岐国人衆と対立させ、讃岐への侵攻を始めた。讃岐国内では、細川・三好の後押しを得た勢力と、後盾を持たない香西・寒川氏らの勢力が明確となり、香西氏らは次第に劣勢となっていった。
元政の子元家は、隣国阿波の十河氏としばしば戦った。大永六年(1526)十二月、十河氏が三好氏から援兵三千余人を受けて、元政を攻めてきたとき、地理を知り尽くした元政は、柳津に伏兵を起き十河軍の背後に廻り、前後から挟み討ちにして十河軍に大勝した。とはいえ、十河・植田・神谷・三谷氏らに加え、阿波の三好氏が加勢となれば、寒川氏にとても勝ち目はない。元政は要地を守って十河軍に対峙した。十河軍の讃岐侵攻を聞いた香川山城守・香西豊前守らは、一宮大宮司とはかって、寒川氏を援けるため一宮に大兵を出した。これを知った阿波軍は戦わずして兵を退いていった。
天文元年(1532)、十河一存は長尾名村の池内城の寒川元政の居館を攻めた。このとき、元政の臣、鴨部神内左衛門と同源次の兄弟は精兵五十人を以て十河一存の本陣に突っ込み、神内左衛門のふるう槍が一存の左腕を貫いた。一存はこれに屈せず太刀をもって左衛門を討った。源次も奮戦したが、兄とともに戦死した。一方、一存は槍を切り折り、そのキズに塩をすりこみ、藤のかづらを巻いて帰陣した。 これを見た世人は一存の人間離れした行動に対して、「鬼十河」と呼ぶようになったという。ところで、神内左衛門は寒川氏恩顧の侍で、鴨部の御殿山に城を持っていた。源平藤戸合戦で勇名を馳せた鴨部某の子孫といわれる。左衛門の弟源次は十河城に仕えていたが、寒川氏と合戦になったことで一存が無理に鴨部に帰した。そのとき「戦のときは遠慮なくかかってまいれ」と励ましたという。そして、兄弟とも十河の本陣に斬り込み討死したのである。
勝端城の細川晴元はこの合戦をを聞き、書状を送って寒川・十河氏との和睦をすすめ、両氏はこれに従い争乱は おさまった。しかし、安富氏はおさまらず、天文九年正月、寒川郡七郷に攻め入り、四月に双方合戦におよび、 寒川氏は敗れて敗兵をまとめ、本城を焼き昼寝城に入り、以後、安富氏との攻防は三年におよんだ。
元政の子元隣は、虎丸城を居城としていた。元亀三年(1572)、安富筑前守が阿波の篠原入道の女を室とし、筑前守は篠原氏と図って、寒川氏を攻め滅ぼそうとした。そして、三好長治に謀って、寒川氏に大内郡を引き渡すように使いを送った。これに対し寒川氏は、否といえば、攻め滅ぼされることは必定として、止むを得ず、大内郡四郷および挙山・虎丸の二城を付けて屋形へ差し出し、その身は昼寝に退いた。
その後、篠原氏は不慮の変で没落し、安富氏も天正三年(1575)九月、阿波の海部左近の攻撃で落城してしまった。やがて、土佐の長宗我部元親が四国平定の軍を発した。このころ元隣は、三好存保のもとへ行き勝端城に居たが、天正十年八月三好存保の軍に加わり、阿波中冨川において土佐軍と戦い、ついに同所で討死したという。
ところで、寒川氏が最後に拠った昼寝城は、元隣の弟光永が守っていたが、天正三年、阿波の海部氏に攻められて落城した。光永は兄の許にいき、兄が討死したあとは流浪の身となり、月日を過ごしたという。その後、讃岐に生駒一正が入部してくると、光永は一正に召されたが陪臣たることを恥じて仕えず、髪を降ろして浄慶と号し、旧臣に養われ正保二年に没したと伝える。
元隣の子七郎は、天正十四年(1586)十二月、豊臣秀吉の命を受け、九州島津征伐軍に従軍、豊後戸次川で奮戦した。長宗我部信親・十河存保らが戦死するという苦戦であったが、無事に帰郷したと伝える。その後の七郎の動向は詳らかではない。
阿波 海部川の海部氏
『富田家文書』という古文書によれば、海部氏の祖先は鷲住王であると書かれている。それによれば、鷲住王はその家来たちとともに大里海岸に住みつき、はじめは漁業などに従事していた。やがて鷲住王の後裔は、海部川下流の平野を開拓して農業を行うようになり、平安時代から鎌倉時代にかけて、北の日輪庄と南の宍咋庄という二つの荘園にはさまれた地域の開発領主として武士化していった。
鷲住王とは、履仲紀に「六年二月癸丑朔、喚鮒魚磯列王之女、太姫郎姫、高鶴郎姫、納於后宮、並為嬪、於是二嬪恒欺之曰、悲哉吾兄王何處去耶、天皇聞其欺而問之曰、汝何欺息也、對曰、妾兄鷲住王、為人強力軽捷、由是獨馳越八尋屋、而遊行既経多日不得面言、故欺耳、天皇悦其強力、以喚之不参来、亦重使而召猶不参来、恒居住吉邑、自是以後廃不求、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見える伝説上の人物である。鷲住王のことはともかくとして、阿波南部の荒野を開拓した海部氏の先祖を中心として、海部武士団が成立したことは疑いのないことと思われる。
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、朝鮮半島や中国沿岸地帯において和冦が恐れられていた。和冦とは、武士や商人たちによる民間貿易の行き過ぎたかたちであり、和冦のすべてが略奪者というものではなかった。水軍の側面も有する海部氏も特産品である海部刀をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によっておおいにうるおった。記録によれば、享徳年間(1452~54)から天文年間(1532~54)の約百年間にかけて、百十四万振の海部刀が輸出されたことが知られる。
まことに膨大な量の海部刀が、海部氏によって朝鮮・中国に輸出されたのである。海部氏が海外交易に従事していたことは、海部氏と関係の深かった大山権現に朝鮮鐘が伝わっており、海部氏が和冦として活躍していたことを裏付けている。
応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、足利幕府の威信は地におち、全国的に下剋上が蔓延する戦国時代となった。各地に新興勢力が割拠し、かれらによって荘園は押領され、領地の一円支配を行う戦国領主が登場してきた。それは海南地方も例外ではなく、鷲住王の子孫を称する各氏が城を築き、それぞれの地域の支配者となり、互いに勢力を競い合った。
海部氏は、それら諸勢力と拮抗しながら、経済力を強大化し、海部川流域の名主たちを支配下に収めていった。そして、永正八年(1511)、海部吉野城主の藤原持共は覚成寺を建立、ついで享禄三年(1530)には藤原持定が杉尾神社を建立したことが、残された棟札から知られる。海部氏は吉野城を本拠として、海部川流域に確固たる勢力を築きあげていったのである。
一方、長宗我部軍の攻撃を受けた海部城では、友光が鉄砲の名手である栗原伊賀右衛門らを指揮して防戦につとめたが、衆寡敵せず海部城は落城し海部氏は没落した。城を逃れた友光は、紀州の縁者を頼って落ち延びたと伝えられるが、その最後は不明である。一方、讃岐に出陣していた吉清は、海部城も落ちたため、帰るところを失い阿波の西方美馬三好に落ちていったという。
三好氏が阿波南部の押えとしてもっとも頼りにしていた海部城が落ちたことで、牟岐・日和佐・由岐・桑野などの諸城も次々に落城していった。海部氏が没落したのち、海部城には香宗我部親泰が入り、長宗我部氏の阿波侵攻の拠点となった。そして、天正十年(1582)には三好氏のあとを継承した十河氏が長宗我部軍に敗れ、阿波は長宗我部氏が支配するところとなったのである。