讃岐三宮 由良大明神

由良・清水神社
清水神社 祭神 神櫛明命
 由緒
景行天皇五十四年(784)の創祀と言う。古くは好井社・由良明神・正一位清水大明神と奉称せらる。『全讃史』によれば、「景行天皇の皇子神櫛王封を山田郡に受け屋島の下に止り給ふ。千摩命・能摩命(須米保禮命)・森葉摩命・大別命・古美大人を経て油良大人封を山田郡油良に移す油良氏の祖なり。」とあれば、油良氏の奉斎する所なるべし。

『別当自性院記録』によれば、
「大同三年(808)正月勅伊豫親王定荘厳寺之三綱及び二伯三師神祇職於好井社焉自性院為上綱・・・・文章博士阿刀氏制冊税及び諸律也其某者神田の里(亀田村也)・・・今之實有之千石千貫之例也千爰荘厳寺初営也」とあり。

社内に嵯峨天皇勅封御撫物金筒一個、醍醐天皇封御撫物金筒一個といふ重寳として保存せり。承和八年(841)大草の際刺史高公輔僧眞雅に乞ひて雨を當社祈りしことの「古記」あり。
當社往古より大甕を存す。此の甕神櫛王が酒を醸し給ひし器と称し、古くは十二口ありしが後三口となり今二口を存し地中に蔵す。甕塚と云ふ。
 當社は往古より著明の神社にして、『官社考證追録』に「由良神社 上田井村にあり。清瀧宮神名帳、千手堂神名帳等に見え、又延享神社記實暦神社帳等には正一位清水大明神と記せり」と載せられたり。

由良山城
 所在地 香川県高松市由良町
 略  歴 由良山城の築城年代は不明であるが、三谷景久の弟兼光が分封された際に築城して移り住んだと言われている。兼光は由良氏を称し、伊豆守を名乗った。
嫡男遠江守景広も由良山城を居城としたが、永正5(1508)年香西豊前守元定の三谷氏攻めで、押し寄せる香西勢に抗せず和睦をしたこれ以降由良氏は香西氏の武将となり、天正10(1508)年の長宗我部元親の讃岐侵攻では、由良氏も由良山城に籠城して防戦したが、遂に城を棄てて十河城に逃れた。
現況 由良山城は北側から山頂にかけてが採石場となっており、山様は無残に崩壊しており、どのような縄張りであったか知る術はない。現在の山頂には、水神を祭る平場が唯一残されているのみである。

菅領 細川家臣団
管領・讃岐・摂津・丹波・土佐守護 上屋形細川氏(清氏系、京兆家、澄元系、高国系)、
細川一門 下屋形(阿波守護)、奥州家(頼貞系、業氏系、忠興系)、典厩家(西成郡守護)、野州家(備中守護)、頼有系(和泉半国守護、長岡氏)、満之系(備中・和泉半国守護)、養宜屋形(淡路守護)、
細川一族 上野氏、上地氏、綾氏、十市氏、池氏、佐井氏、天竺氏、

京兆家内衆 秋庭氏、長塩氏、安富氏、香川氏、奈良氏、香西氏、上原氏、内藤氏、薬師寺氏、寺町氏、若槻氏、庄氏、

讃岐国人 十河氏、寒川氏、三谷氏、由良氏、三木氏、前田氏、池内氏、長尾氏、光井氏、秋山氏、鴨井氏、牟礼氏、羽床氏、有岡氏、由佐氏〈藤氏一揆収録〉、

王佐山城祉(おうさやまじょうし)
 上佐山の頂上は平坦で、かつて王佐山城の本丸跡といわれている。永和元年(1375)、三谷氏がここを拠点にしたと伝えられている。頂上から北西と北東に延びる屋根は急峻で堅固な防壁が施されていたらしい。北に由良山城(由良氏)、南に神内城(神内氏)、南東に戸田城(植田氏)、北西に三谷城(三谷氏)、東麓の池田城(池田氏)を見下ろし、この附近の要衝の地である。
 文明十二年(1480)、寒川氏を迎え討ったが、讃岐での武士同士の合戦(讃岐の戦国時代)の始まりといわれている。
天正十年(1582)に土佐の長宗我部氏に敗れ、廃城になる。

三谷氏と同族武士集団

三谷氏は植田、神内、十河などと同族で、神櫛王を遠祖とする讃岐氏二十八烟の一つだといわれているが、それが、武家の世になってから、郡内険要の地に居を占め、植田郷を中心に一門が近隣に分かれ、それぞれ居所によって、名字(氏)を植田、神内、十河、池田、由良などと称したもので、いずれも同族の武士集団の形をとって割拠した。それでこれは、同族武士集団と名付けるべきのものであった。
 三谷氏はその有力な一族として、居を三谷に構え、上佐山をその要城としたのである。長い戦国時代を通じ、ともかく、この同族武士集団によって、山田郡二千貫(二万石)の地が、まずまず確保されて来たのであるが、その一つ一つは、数ヶ村、或いは一邑の主という小豪族に過ぎなかった。
植田氏は、戸田山、一名城山を要城とし、植田美濃守安信が、西植田、東植田、菅沢、朝倉(三木郡)四邑の領主。

香川県立図書館蔵「三谷郷史」より転載