吉備海部、吉備臣

日本書紀は崇神紀で吉備津彦を四道将軍の一人として西海道の派遣したり、
応神紀で領土を分け与えたりする記述を行うことによって、吉備国に対する優位性をことさら強調しているようだ。
どちらの説話も古事記には全く記載されていない。

『記』孝霊天皇段に、
「次に日子刺肩別命は、高志の利波臣、豊国の国前臣・五百原君、角鹿の海直の祖なり」
角鹿海直と吉備臣との関係については不明であるが、両者ともに孝霊天皇を祖とする同族関係の伝承があることは注目すべき事象である。

葦分国造 12景行 肥後国葦北
吉備都津彦の兒
三井根子命

国前国造13成務 豊後国国崎 吉備臣の同祖
吉備津都彦命の六世孫
牟佐自命

応神紀22年条
応神帝の妃兄媛(えひめ)が里心がついて吉備国の実家に帰京してしまう。
兄媛を忘れられない帝は狩りを口実にして吉備国まで追いかけて行く。
兄媛の兄の御友別は訪れてくれた帝をもてなす。
もてなし方に満足した帝が感激して、吉備国を御友別の兄弟、子供たちに分け与える。

御友別は孝霊帝の子の稚武彦(記では若日子建吉備津日子命)の次男。
長男の稲速別は「川嶋県」(備中国浅口郡:現在の倉敷市西南部)を得て下道臣の始祖になった。(下道国造15応神)
次男の仲彦は「上道県」(備前国上道郡:岡山市東半部など)、「香屋」(備中国賀夜郡:岡山市西部と総社市東部)を与えられて、上道臣、香屋臣の始祖となっている。(上道国造 15応神)
三男の弟彦は「三野県」(備前国御野郡:岡山市北半部)を領し、三野臣の始祖となった。(三野国造 15応神)
御友別の弟の鴨別は「波区芸(はくぎ)県」(笠岡市辺りか)を当てられて、笠臣の始祖となった。(笠臣国造15応神)
御友別の兄浦擬(うらこり)別は「苑県」を任されて、苑臣の始祖となったという。

仁徳天皇段。
吉備海部直の女黒比売
皇妃となるが故郷へ帰る。天皇は比売を慕って吉備へ行幸する。

仁徳天皇四十年二月、
吉備品遅部雄?(おふな)
佐伯直阿俄能胡(あがのこ)と共に隼別皇子、雌鳥皇女を追討する。

雄略天皇元年三月条。
吉備上道臣(名を欠く)
吉備の稚媛の父。清寧天皇即位前紀の星川皇子事件において、星川皇子救援のため軍船を送るが間に合わずして帰る。
吉備窪屋臣(名を欠く)
吉備稚媛の父について、「一本に吉備窪屋臣の女といえり」とある。

雄略天皇七年条。
吉備弓削部虚空(おおぞら)
官人であったが、帰郷した時、吉備下道臣前津屋に引き止められて帰任が遅れたことを咎められ、前津屋の不敬を讒言する。

雄略天皇七年八月、
吉備下道臣前津屋
天皇に不敬ありとして殺される。

雄略天皇七年八月条。
吉備海部直赤尾
吉備上道臣田狭の子、弟君と共に新羅を討つために半島に渡り、弟君がその妻樟媛に殺された後、樟媛と共に百済の工芸技能者を率いて帰国する。

 雄略天皇七年、
吉備上道臣田狭
任那へ赴任を命じられ半島に赴くが、妻の稚媛を天皇に奪われたために新羅へ走る。
 吉備上道臣の女稚媛(一本に窪屋臣の女)
 もと上道臣田狭の妻となって兄君、弟君を生み、後に雄略天皇の皇妃となって磐城皇子と星川皇子を生み、清寧天皇即位前紀の星川皇子事件において皇子と共に殺される。
 吉備上道臣兄君
 吉備上道臣田狭と稚媛の間の子。清寧天皇即位前紀の星川皇子事件において、星川皇子と共に殺される。
 
雄略天皇七年
吉備上道臣弟君 吉備上道臣田狭と稚媛の間の子。
新羅討伐を命じられて半島に渡るが、妻の樟媛に殺される。

雄略天皇八年二月条。
吉備臣小梨
膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが)、難波吉士赤目子(なんばのきしあかめこ)らと共に、任那日本府より新羅救援に出撃して、高麗の軍を破る
 
雄略天皇九年三月条。
吉備上道采女大海
紀小弓宿祢の妻となり、小弓と共に新羅討伐に向かうが、小弓が病死したため、遺骸を奉じて帰国する。

敏達天皇二年五月、
吉備海部直難波
越の海で難破漂着した高麗の使者を送り返す役を仰せつかるが、使者を海中に投じて引き返す。その言動を疑われて帰郷を許されず、雑益に使役されたが、やがて悪事が露見して処罰される。

敏達天皇十二年七月。
吉備海部直羽嶋
肥後国葦北郡の国造の子で、百済で高官になっている日羅を、我が国に招くために、紀国造押勝と共に百済に行く。
(なお、旧事紀国造本紀によると葦名国造を吉備津彦の子、三井根子命に賜うとある)

雄略天皇二十三年七月、
吉備臣尾代
征新羅将軍として五百人の蝦夷の兵を率いて西下し、吉備の我が家の前を通って立ち寄った時、蝦夷たちは天皇が薨じたことを聞いて、逃亡して近くの郡を占拠したので、我が家から飛び出して蝦夷たちを追って弓矢で射殺してしまう。

日本書紀雄略23年
征新羅将軍・吉備臣尾代が500人の蝦夷を率いていたが,その蝦夷たちが広島県か山口県の海岸と推定される娑婆水門・ サバで反乱をおこし,最後は丹波国・浦掛水門(久美浜)でやっと鎮圧された

欽明天皇五年
吉備臣弟君
 欽明天皇の当時、安羅(あら)国にあった任那(みまな)日本府において、的臣(いくはのおみ)、河内直(かわちのあたい)らと共に高官の一人。欽明天皇二年四月、および五年十一月、任那諸国の高官らと百済に赴き、新羅の侵略下にある任那の復興について、百済の聖明王と協議する。

583年
吉備海部羽嶋 きびのあまの-はしま
敏達(びだつ)天皇12年(583)日羅をまねくため百済(くだら)(朝鮮)へ派遣されたが,百済王に拒否される。同年に再派遣され,日羅の助言にしたがって百済王を説得し日羅の渡日をみとめさせた。

推古天皇10年(602年)2月
来目皇子
任那を滅ぼした新羅に対する新羅征討計画の際、新羅征討将軍として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営したが、6月に病を得て新羅への進軍を延期とした。征討を果たせぬまま、翌年(603年)2月4日、筑紫にて薨去

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