蘇那曷叱知(そなかしち、蘇那曷叱智)
『日本書紀』
崇神天皇65年7月に任那国から朝貢のため来朝し、垂仁天皇2年に帰国したという。
。また、その帰国に際して天皇から任那王へと赤絹100匹(200段)が贈られたが、途中でこれを新羅に奪われたといい、これが任那と新羅の争いの始まりであるとしている。
蘇那曷叱知に関する『日本書紀』の説話は、加羅諸国からの渡来開始を説明するものであるとともに、加羅と新羅との争いの始まりを伝えるものである
名前の「蘇那曷叱知」とは朝鮮における借音字と考えられており、その訳語としては金仇亥(金官国第十代)の子の金奴宗とする説、于斯岐阿利叱智干岐(都怒我阿羅斯等の別名)とする説、金官国邑君とする説、弁辰の渠帥(貴人)とする説などがある
また、垂仁天皇2年の分注には大加羅国(金官加羅)王子の都怒我阿羅斯等による「任那(みまな)」の語源伝承が載せられているが、この都怒我阿羅斯等と蘇那曷叱知とを同一視する説がある。
都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)
『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。
別名を「于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)」。意富加羅国(大加羅国;任那)の王子。
『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている
1つ目として崇神天皇(御間城<みまき>天皇)の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが、のちの敦賀)」の語源であるとしている。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとも伝える。
2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした[1]。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波と豊国国前郡の比売許曽社の神になったという。
天日矛 アメノヒボコ
古事記においてアメノヒボコと阿加流比売神の子孫・曾孫が、菓子の祖神とされる多遅摩毛理(たぢまもり・田道間守{日本書紀})であり、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。しかし日本書紀において結婚したのはアメノヒボコでなく意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)とされている点で異なる。また古事記ではアメノヒボコの話は応神天皇の段にあり、応神天皇の治政を述べるくだりで出現する。日本書紀では応神天皇は神功皇后の子であり、神功皇后の母はアメノヒボコの末裔の葛城高顙媛(かずらきのたかぬかひめ)であるため、古事記と日本書紀では系譜(アメノヒボコが出てくる話の時系列)が逆転している。