熊野別当(くまのべっとう)または熊野三山別当(くまのさんざんべっとう)は、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄にあたった役職で、諸大寺や神宮寺、門跡寺院に於いて、別当・門跡などの責任者に近侍した坊官の中に於ける最高の地位である。
熊野三千六百峰の大山塊から発した熊野大権現の社家・鈴木氏はのちに紀州の藤白の地に移り、日本諸国に散在する「鈴木」の総本家となった。家紋は「稲穂丸」、替紋は「藤の丸」、幕紋は「熊野烏(八咫烏=ヤタガラス)」であった。「稲紋」は熊野神に稲穂を捧げて、穂積の姓を賜った故事による。「藤紋」は熊野三山の初代長官・熊野別当の藤原氏のゆかりともいうが、藤白の藤にちなんだものであるようだ。
鈴木氏の藤白神社は熊野権現九十九王子社の別格五体王子の一つで、源義経(みなもとよしつね)に仕えた鈴木三郎重家は藤白地頭である。
藤白鈴木家に伝わる系図には、物部氏族の祖・饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が東征して来た神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後にその子孫・穂積国興(ほずみくにおき)の三男・穂積基行(ほずみもとゆき)が分家に際して鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。
「物部」は職掌(軍事警察・司法及び手工業諸物品の管掌)から生じた氏の名であるが、その原始的姓氏が何であったか
これは、出雲積、鰐積(和珥臣の原始的姓氏)、津積(同、尾張連)や阿曇(同、阿曇連)などの例から見て、「穂積」(穂は「火」の意か)であり、物部氏は本来、穂積であり、
その本宗は穂積臣であって、豪族系の臣姓をもっていた。
「物部」という名から知られるように、「部の成立以後でなければ存在しえない」という直木孝次郎氏の指摘もある(「物部連に関する二、三の考察」『日本書紀研究』第二冊)。 ただ、初期国家制度が整う崇神朝以降であれば時期的に問題はなく、その意味で「物部賜姓」が垂仁朝と伝えることも矛盾しない。
武士を「もののふ」と呼ぶ語源が、物部氏族の「もののぶ=物部(もののべ)」で、物部(もののべ)の「物」は武器を指し示すもので、鈴木姓は、「もののふ」の語源になった物部氏族の穂積国興の三男基行が鈴木を称するに始まり、鈴木(苗字/名字)・穂積(ほずみ/氏)物部朝臣(もののべあそみ/姓/カバネ)・基行(もとゆき/名/名前)である。
つまり大姓の出自の主流が源平藤橘と称する中で、鈴木姓は穂積を主流としている物部朝臣(もののべあそみ)なのである。
藤白鈴木家に伝わる系図には、饒速日命(ニギハヤヒのミコト)の子孫、千翁命(チオキナのミコト)が神武天皇に千束の稲を献上したので穂積の姓を賜った。
そして、この時榔(ナギ)の木に鈴をつけて道案内をしたので後に穂積国興の三男・基行が鈴木を称するように成り、その鈴をつけた椰(ナギ)は御神木となった。
鈴木を名字とする家は多くの流れが知られているが、そのほとんどは穂積を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。穂積姓鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系である。
木氏族は、この物部系の穂積氏より出て、はじめ紀州新宮を本拠としたが、のちに名草郡藤白湊に移り、その地の王子社の神官となり、ここを中心に発展し、同じく熊野に勢力を扶植していた大伴系の榎本・宇井( 丸子氏の本姓 )とともに三家と称された。すなわち、諸国の鈴木氏の多くは、この流から分かれる。
『熊野権現縁起』に、「鈴木氏が稲穂を紋とするは、先祖穂積氏が熊野の神に稲の穂を献じたことによる」とある。
鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集してつくっていた雑賀衆の有力な家系のひとつで、十ヶ郷の指導者的な立場にあった
穂積氏
太古以来の大族で、物部氏と同族の饒速日命後裔で大和国山辺郡穂積邑発祥と伝えられる。
伊香賀色雄命の子大水口宿禰の子孫が穂積臣、穂積朝臣を賜姓されるに始まる。
後裔の紀州熊野系の穂積氏からは、熊野神社が全国に勧請されて大いに穂積姓鈴木氏が栄える。
饒速日命──宇麻志麻治命──彦湯支命──意富禰命──出石心大臣命──鬱色雄命──大水口宿禰─建忍山宿禰命──大木別垂根命──【穂積】真津─阿米──能寸──鎌子──押山─巴提──福良
緒川の伝説をもとに「穂積氏」は大和国山辺郡穂積邑に起きた氏族と言われ、現在の奈良県天理市あたりだそうです
穂積氏忍山宿弥命は伊勢国物部氏
物部氏族の主居住地
穂積の遺称地・保津(奈良県磯城郡田原本町保津)は弥生期の大遺跡たる唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置するし、河内国の哮ヶ峰(現在の生駒山)への降臨伝承が残る石切劔箭命神社(河内国河内郡の式内社で、東大阪市東石切町に鎮座。穂積堂と呼ばれた摂末社もある)の社家は、地域的に見て物部の初期分岐とみられるが、初め穂積と称し、いま転訛して「木積(コツミ)」を名乗る事情もある。鈴木真年翁も『史略名称訓義』で、可美真手命が大和国十市郡穂積里に居たとして、穂積臣氏本宗説を記している。
河内国渋川郡は、物部守屋大連が決戦の本拠を置いて破れ滅亡した地、渋河の家(阿都の別業)の所在地であり、物部氏の初期分岐たる阿刀造・連の本貫も渋川郡跡部郷(大阪府八尾市跡部・渋川一帯)にあったと太田亮博士はみている。
唐古・鍵遺跡の主体たる物部氏が布留遺跡などに移り、纏向遺跡は別途、王都として大王家により造成され、崇神がその主となったとみ られる。物部の祖の伊香色雄や十市根は石上神宮に関与し、穂積から分かれて神宮の周辺から南方にかけての地域に本拠を移したのであろう。物部嫡宗家は代々 山辺郡の天理市中央部辺りを本拠(山辺郡に穂積郷をあげる『和名抄』もあり、これが妥当ならその郷域か)としてきて、西山古墳など同市杣之内町・勾田町・守目堂町一帯の古墳群(杣之内古墳群)は物部一族築造の可能性が大きい
内色男命系(穂積系)の関係系譜
饒速日命の第五世孫(以下、⑤のように表現する)の内色男命-その子の⑥大水口宿祢(崇神朝。穂積臣・釆女臣、末盧国国造祖)、その同母弟の⑥大矢口宿祢(崇神朝。大新河命、武諸隅命、大毋隅連、武牟口命と同人)-⑦大売布命(景行朝の東国遠征に供奉したと『高橋氏文』に見)-⑧大小木宿祢(成務朝に遠江国造になった印岐美。豊日連、同上遠征に供奉)-その子の⑨樫石宿祢(志紀県主)、その兄弟の⑨舩瀬宿祢(成務朝に久自国造)、同じく⑨印播足尼(仲哀朝に久奴国造)。大小木宿祢の兄弟の⑧大小市宿祢(成務朝に駿河国造になった片堅石命のことで、大新川命の子と「国造本紀」に見える)-その子の⑨阿佐利連(応神朝に風早国造)、その兄弟の⑨子致命(応神朝に小市国造。大新川命の孫と「国造本紀」に見える)。大売布命の兄弟の⑦意布美命(建新川命に当たるか。春道宿祢の祖の布都弖は、その子か同人か)-⑧伊其和斯彦宿祢(伊福部氏系譜に成務朝に稲葉国造。伊福部臣祖)、その兄弟の⑧臣賀夫良命(成務朝に三野後国造。景行朝に見える美濃県主角鏑)。
成務天皇の母、弟財郎女=穂積の娘
若帶日子天皇は近淡海の志賀高穴穗宮に住んで天下を治めた。この天皇が穗積臣らの祖、建忍山垂根の娘、弟財郎女を娶って生んだ子は、和訶奴氣王である。<一柱>
この天皇の漢風諡号は成務天皇という。
成務天皇には皇子が一人だけだったが、何故かその皇子を野見宿禰の養子としている
志賀は和名抄の「近江国滋賀郡」のことである。【今も志賀というところがある。郡は南は勢多の川から、北は比良山の北にまでわたっている。いにしえから広い範囲を指していたのだろう。】
万葉巻一【十七丁】(30)
「樂浪之、思賀乃辛碕(ささなみの、しがのからさき)」
(31)「左散難彌乃、志我能大和太(ささなみの、しがのおおわだ)」
、巻二【十五丁】(115詞書)に
「近江の志賀の山寺」、
また【三十七丁】(206)
「神樂浪之、志賀左射禮浪(ささなみの、しがのさざれなみ)」、
巻三【二十二丁】(288)に
「志賀乃大津(しがのおおつ)」、
巻七【二十四丁】(1253)に
「神樂浪之、思我津乃白水郎者(ささなみの、しがつのあまは)」などこの他にも多く、後世の歌にも詠まれている。
後世の歌に、「志賀の故郷」とあるのは天智天皇の大津の宮の跡のことである。万葉巻一の長歌、またその反歌で知ることができる。これを高穴穂の宮の跡と考えるのは誤りである
一向宗・顕如(れんにょ)上人に味方して織田信長と石山合戦を戦った猛将・雑賀孫市(鈴木重意/しげおき)もこの白藤鈴木氏流である。
雑賀孫市
「鈴木孫三郎重朝、のちに雑賀孫市と改む。姓は穂積、紀州の人なり、世々鈴木氏を称す。しかるにその家督を継ぐもの一人に限って雑賀を称す」とある。これは『水戸系纂』雑賀条によるものであるが、この「孫三郎」の事績をみれば、他の史料・史書にあらわれる「孫市」と同一の人と思われる。すなわち『姓氏家系大辞典』に「豊太閤、その勇気を感賞し、赦免ありて大和大納言秀長に仕ふ。その後、石田三成に属し伏見の城にて鳥居元忠を討ちて、東国に奔り水戸家に仕ふ」と。
鈴木孫三郎、のちに改め雑賀孫市。初め太閤秀吉公に仕えて朝鮮征伐のとき、肥州名護居(屋)に在陣、与力同心を附せられる。二百人の食糧、馬七匹の飼料を賜う。慶長五年庚子、関ヶ原の役に伏見城寄手に従って鳥井(居)彦衛門元忠と闘って遂にその首を獲りたり。秀頼公より感状を賜う。太刀馬代・銀子十枚、並びに千石の領地を給ってその軍忠を賞せらる。石田敗北ののち松平(伊達)陸奥守政宗について奥州に行く。その後神君(家康)、政宗を召して関ヶ原の軍労他に異ると称し褒賞せしとき、政宗、今鈴木孫三郎重朝、奥州に居れり、このこと御宥免を蒙むれば政宗がために過分の御恩恵なるべしと偏えに願い奉る也と直訴す。神君驚き給いて、今政宗が望むところ高慮の外なり、重朝はわが寵臣鳥井元忠を討ったる仇敵なれば重朝の首を斬って差出すべしと御鬱憤止むべからず。然しこのことにおいては政宗が一命を換えて望み奉る由を再三言上に及ぶ。他日又政宗を召して、重朝が一命を扶けるも急ぎ他郷につかわすべしとの御諚あり。政宗感佩して退く。これによって、重朝、常州石塚に移り住す。慶長十一年丙午七月十三日、神君より彼地において三千石を賜う。御手印並びに領地の目録及び神君の御書一通、秀頼の文書二通あり。のち威公(頼房)に奉仕して旧地三千石を賜い、家老に准ぜられる。元和年中死す。
江戸幕府将軍家である徳川家の祖は三河松平氏を名乗り、「賀茂神社の氏子であった」と言う。三河の国加茂郡松平郷が、郷士として発祥した徳川家の故郷である。
また、近世大名本多氏(徳川・三河松平傍流の家臣)も「賀茂神社の神官と関係があった」と伝え、いずれも鴨の葵紋を用いている。岡崎の東郷中(ひがしごうなか)に三河松平氏の祈願神社、伊賀八幡宮がある。
伊賀の服部氏も紀州雑賀郷の鈴木氏にしても三河松平家とは縁が深く、また明智光秀の妻・煕子(ひろこ)の実家・妻木氏も、賀茂朝臣(かもあそみ)・勘解由(かでの)で、三河松平家とは「同じ賀茂朝臣(かもあそみ)」と言う事になる。
鈴木氏の藤白神社は熊野権現九十九王子社の別格五体王子の一つで、源義経に仕えた鈴木三郎重家は藤白地頭である。
子之神社
悠久二千数百年の歴史を有する穂積宮司家には、天皇家と同様に、剣・鏡・玉の三種の神宝が伝えられています。八握神剣・八稜神鏡・八尺瓊勾玉と呼ばれるものがそれで、当神社本殿(奥の院)に奉安されています。このうち、八握神剣・八尺瓊勾玉は、当家始祖 饒速日尊以来伝えられたもので、十種の神宝の根本ともいわれる霊宝です。そして八稜神鏡は、朝廷に古来より伝わった、日月二面の八咫の鏡のうちの一面といわれ、『月輪 八稜の鏡』と称され、これは南北朝時代末期、代々南朝に仕えてきた当家祖先が、南北朝の合一後、後亀山天皇より南朝の正統を受け継がれた南帝 小倉宮良泰親王(第100代 招慶院天皇)より託された神宝と言われ、この時、この神鏡とともに、歴代の天皇が行われた『はふりのみわざ』という、天皇のみが行い、伝えてきた神法(南朝 大覚寺統にのみその正法が伝えられ、南北朝統一後、南朝の正統を受け継ぐ小倉宮家にひそかに伝えられた。)をも託され、現在まで守り伝えられています。