ホツマツタヱの記事
ヒタカミの天之忍穂耳の二人の子供、火明と邇邇芸
天照(祖父)ーーー天之忍穂耳ーー火明命と邇邇芸命の兄弟ーー
第十代アマカミのホノアカリ(兄)の時に、二人のアマカミが並立したが、もう一人の第十代アマカミは弟のニニキネであった。この兄弟は第九代アマカミのオシオミミの子。
- 8代アマテルカミ → ハラミノミヤに生まれ、イサワノミヤに宮を開いた。国内が乱れ「ハタレの乱(ヤマタのオロチ)など」が起きた。
- 9代オシホミミ → イセノクニに生まれ、ヒタカミのタカヒに宮を開いた。
- 10代テルヒコとニニキネ → テルヒコ(ホノアカリ)は兄でトクサカラ(十種神器)を、ニニキネ(キヨヒト)は弟でミクサカラ(三種神器)を拝受し共にアマカミとなり、二朝廷並立時代となる。兄:テルヒコは、イカルガに宮を開いた。弟:ニニキネは、アマノコヤネとクシヒコを従えて全国を巡行して灌漑事業などを指導し、九州のタカチホの霧島山(霧島神宮?)で亡くなり、妻のコノハナサクヤヒメは富士山で亡くなった。
- 11代ホオデミ → ニニキネとコノハナサクヤヒメの三つ子の三男で、ウド(宮崎県日向)で生まれ、カゴシマからアソ(熊本県阿蘇)に移り住んだ。
木花咲耶姫の3人の御子神
天孫邇邇芸命の妃が木花咲耶姫である。大山津見神の娘。石長比売の妹。火照命(海幸彦)、火須勢理命、火遠理命(山幸彦:日子種穂手見命)の母。
『日本書紀』本文では、御子は、火闌降命(隼人の祖)、彦火火出見尊、火明命(尾張連の祖)。
一書(第二)では、火酢芹命、火明命、彦火火出見尊(火折尊)。
一書(第三)では、火明命、火進命(火酢芹命)、火折彦火火出見尊。
一書(第五)では、火明命、火進命、火折尊、彦火火出見尊。
一書(第六)では、火酢芹命、火折尊、彦火火出見尊。
一書(第七)では、火明命、火夜織命、彦火火出見尊。
一書(第八)では、火酢芹命(海幸彦)、彦火火出見尊(山幸彦)。
ナカ国の火明命、新田開発の邇邇芸
オシオミミの時代にはオシオミミはヒタカミ国を中心に治めていて、引退した父のアマテルはまだ東海地方の半分を治めた。当初はナカクニ(近畿地方:記紀にいうアシハラノナカツクニか?)に就任した兄のホノアカリが第十代アマカミの位についていたのだが、弟のニニキネが各地の新田開発に多大な功績をあげ、兄以上の功績をあげたいたために、やむなく並立してアマカミに就任させざるをえなくなったようだ。
例えば、第八代アマキミのアマテルが退任した時に、ニニキネはウジ(現在の伊勢神宮内宮の地?)にいて、隣のヤマダノに新田開発を行い、今この土地はヤマダ(宇治山田?)と呼ばれるようになった。
一般国民の幸せを願うアマテルはニニキネの新田開発の功績を認め、三種神器(ミクサタカラ)を授けることにした。
祖父アマテルの意向を受けて、ニニキネは日本全国の新田開発をして回ることになった。
アスカからニシノミヤに向かい、淀川の治水工事を行い、その後丹後を経由して、コシノクニに向かった。その後ナカクニの琵琶湖西岸へと進んでいく。ここ琵琶湖西岸安曇川平野で一大新田開発に取りかかった。
「サルタヒコ」は当時琵琶湖近くの小田川(オトタマガワ)辺りに住んでいたが、隣地で新田開発を推し進めるニニキネの偉業に大いに恐れ入った。雑木林が新田に生まれ変わったら、収穫量は今までの十倍以上にもなるからである。サルタヒコは弟君のニニキネがアマカミの位につき、二人のアマカミ制になったことに疑問を持っていたが、琵琶湖西岸の新田開発の偉業を目の当たりにして、認めざるをえなくなったのだ。
(第八代アマカミアマテルから信任の厚いサルタヒコが伊勢のウジ辺りも任された)
記紀の火明命と邇邇芸
『日本書紀』によれば、天火明命(アメノホアカリ)はアメノオシホミミと高木神の娘ヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれ、 ニニギは弟だが、『日本書紀』の一書では子としている。
『先代旧事本紀』では、物部連の祖である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)と同一神としている。
「ホツマツタヱ」のホノアカリが記紀の天火明命(アメノホアカリ)で、ニニキネが天孫ニニギに比定される。
しかし、ややこしいのは、記紀では、ホノアカリがニニギとコノハナサクヤヒメの間の子となっていることだ。
つまりニニギの子のホノアカリの叔父さんが(アメノ)ホアカリとなっており、叔父、甥で似たような名がつけられていることが分かる。
日本書紀の三兄弟
天孫ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメは3人の子を産んだ。ホノスソリ(薩摩隼人の始祖)、ホノアカリ(尾張氏の始祖)、ヒコホホデミだが、妊娠を聞いたニニギは「自分の子ではなく、国津神のこだろう」と疑った。そこで、コノハナサクヤヒメは天孫の子なら火の中でも無事に生まれるだろうと、室に火を放って、子供たちを産んだのだ。
古事記の三兄弟
産屋に火を放ち、ホデリ(ハヤトの始祖)、ホスセリ、ホオリ(ヒコホホデミ)を産んだ。
ホツマツタエの三兄弟
「ホツマツタヱ」では第十代アマカミのニニキネとコノハナサクヤヒメとの間に生まれた子供たちの名前は、「ホオテミ、サクラギ、ムメヒト」と記されていて、叔父のホノアカリとは全く異なる名が記録されている。
また、ニニキネとホノアカリ兄弟の母親(オシオミミの妻)は「チチヒメ」であり、そのチチヒメはヒタカミ国を治める第七代タカミムスビのタカギの娘となっている。
猿田彦
祖先はエノ命 :第二代アマカミの「エノミコト」(初代クニトコタチの8人の子のトホカミヱヒタメの内のエノミコト)であり、シラヒケやチマタカミ、ツチギミとも呼ばれた。
また、第八代アマカミのアマテルからカンタカラ(神器)のサカホコギ(サカホコ)、ウツクシキスス(現在不明)とハイキタチ(現在不明)の三種の神器を授かり、アマカミが信頼を寄せる重要人物であった。これら三種の神器を長年にわたり、ウジミヤ(現在の伊勢神宮内宮の地:宇治)で保管したのだ。
さらに第八代アマカミのアマテルが崩御(トヨケノリ)する時には、指名されて崩御用の洞穴を掘るという大変重要な仕事を仰せつかっている。
ニニキネとサルタヒコとの対面
ニニキネの部下のアメノウスメが最初にサルタヒコに接触を試みたのである。
サルタヒコはニニキネが新田開発をなす前は、二人のアマカミ制度に疑問を持ち、ニニキネと会ったなら、一言物申そうとか考えていたのだ。しかし、新田開発の偉業を見て、逆に勉強させてもらおうと、オトタマガワの川辺に昼寝しながら、その巡行の到着を待っていた。
ニニキネはというと、第八代アマキミのアマテルの信任が篤く、三種の神器をも預かる重要人物で、初代クニトコタチの「トノオシデ」(トの教え)を重んじ、かつ、身長が普通の人の倍の十七尺もあり、顔が赤くてかり、目の玉がギラギラ光っておる異形人物でもあるという噂から、慎重に接する思いを持っていた。サルタヒコにアマキミの(並立の)位を否定されても困るのだ。
実は、巡業には武勇優れるタチカラオも同行していたのだが、タチカラオは噂を聞いて、物おじしてしまった。その、タチカラオは第八代アマテルの甥で、ハタレの乱の時には、首領ハルナに飛び掛かり、力づくで抑え込んでしまったほどの強者だ。同行者にはオオモノヌシのコモリや八十人の騎馬軍団がいたが、大将のタチカラオの物おじには一同面喰ってしまった。
そこで、ニニキネは女性のウスメに先駆けを命じた。
ウスメは「噂は噂で、そんな怪物みたいな人がいるもんですか」と、「サルタヒコさんの気持ちをほぐす手立てを考えた」。おりしもサルタヒコは川辺に昼寝して寝そべっていた。
そこで、サルタヒコの眠気を覚ます作戦を考えた。ウスメは胸元を少し開け、さらにモ(現代のスカート)の紐をぐっと下に下げて、おへそのあたりのふくらみを光らせて微笑みを浮かべながら、近づいたのだ。
近づいてみると、サルタヒコは噂の怪物ではなかった。サルタヒコはニニキネの巡行を待っていたのだ。
そして、近づいてきたウスメに声をかけた。「なんじ、かく、する、何ゆえぞ」ウスメはサルタヒコに敵意がないことを一瞬で見抜いた。
ウスメは問うた。「八代アマテルカミからお許しの下にニニキネさんが巡幸為さっておいでです。かく、ここにお昼寝なさっておられるのはどちら様でございましょうか?」
サルタヒコは答えた。「アマテルカミのミマコのニニキネさんが巡幸なさるとお聞きし、私もそのご意志に全く賛同しております。この先のウカワにて仮屋を設けて、おもてなしをしようと、この私サルタヒコはお待ち申し上げていました」
「そして、サルタと申す故は、ここからの地を離れようと決意するに至ったからであります」
ウスメはまた問うた。「どのような理由でこの地を去るのですか」
しかし、「ワレユカン」の一点張りであった。
さらにウスメが理由を問うた。
すると、「ニニキネさんは尊い事業を全国に展開なさっていく方である。最終的にはツクシ(九州筑紫)のゆかりのタカチホ(高千穂)に行かれるのが、よろしかろう。私サルタヒコは、イセのアマテルカミの下で栄(サ)えの基(もとい)を学ぼうと思っている。私の血筋は由緒深いといっても、ナカタカ(中ぐらいの尊さ)にしか過ぎない、ワ(私)なのです」
ちなみに、サルタヒコはナガタ(滋賀県高島郡内?)に生まれ「ミオノカミ」という褒め名をもらっている。
サルタヒコが言う、「私の真意をご理解下さったら、私は喜んで協力(イタサン)いたしましょう」
さて、サルタヒコは遠来の客人をもてなそうと、魚介類を採ろうとしたときに、ヒラコ(現代では不明)に噛まれるという、思わぬ事故にあってしまって溺れてしまったのだ。
そこで、アマカミニニキネはウスメをサルタヒコの下に派遣し、手当てして一命を取り留めることが出来た。
ウスメに助けられたサルタヒコは妻に求めることのした。
記紀の猿田彦とウズメ
岩戸隠れで天照大神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になったとき、神々は大いに困り、天の安河に集まって会議をした。思兼神の発案により、岩戸の前で様々な儀式を行った。
「槽伏(うけふ)せて踏み轟こし、神懸かりして胸乳かきいで裳緒(もひも)を陰(ほと=女陰)に押し垂れき。」
つまり、 アメノウズメがうつぶせにした槽(うけ 特殊な桶)の上に乗り、背をそり胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、女陰をあらわにして、低く腰を落して足を踏みとどろかし(『日本書紀』では千草を巻いた矛、『古事記』では笹葉を振り)、力強くエロティックな動作で踊って、八百万の神々を大笑いさせた。その「笑ひえらぐ」様を不審に思い、戸を少し開けた天照大神に「あなたより尊い神が生まれた」とウズメは言って、天手力雄神に引き出して貰って、再び世界に光が戻った。
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われたアメノウズメが名を問い質すと、その神は国津神の猿田彦と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。
アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、石凝姥命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。一説にはサルタヒコの妻となったとされる。
「ホツマツタヱ」には天岩戸前の踊りなどはない。下記の記述は記紀、ホツマツタエとも同じ。
『天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われたアメノウズメが名を問い質すと、その神は国津神の猿田彦と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。』
記紀では、サルタヒコは国津神となっている。
記紀では次の説明がある。
天照大神は手に宝鏡(たからのかがみ)を持ち、天忍穂耳尊に授けてた。そして、高皇産霊尊の女(むすめ)名は万幡姫(よろづはたひめ)を天忍穂耳尊に配(あわ)せて妃とさせ、降(あまくだ)らせた。その途中に虚天(あめ)に居(いま)して天津彦火瓊瓊杵尊が生まれた為、この皇孫を親に代わって降らせようと考えた。
この部分を「ホツマツタヱ」と比較すると面白いことが分かる。
「ホツマツタヱ」では、第八代アマカミのアマテルカミの子はオシオミミであり、またオシオミミの子はホノアカリでありニニキネとなっている
記紀では天照大神の子が天忍穂耳尊(オシオミミのミコト)で、その子が天忍穂耳尊(ニニギノミコト:ニニキネ)と記していることから見ると、「男性神アマテルを女性神アマテラスオオミカミにした」ことになる。
富家の伝承の猿田彦
大麻比古と縁のある猿田彦は富家では稲田宮主大麻比古の事と言われている。それならば、大麻比古神社の祭神が猿田彦から大麻比古に変わったことの説明がつきます。
足名椎神
出雲国肥河の川上に住いする翁嫗の夫婦神で、夫は足名椎、妻は手名椎といい、八人の娘をもっていたが、 八俣大蛇に、年に一人ずつ人身御供に求められ、すでに七人の娘を奪われていた。 最後に一人残った櫛名田比売命もやがて捧げねばならず、泣いているところを、 高天原を追われて出雲へ降った須佐之男神に助けられた。後に須佐之男之宮の首となり、稲田宮主須賀之八耳神の名を与えられる。『日本書紀』では、脚摩手摩と一人の神として記され、 妻は稲田宮主簀狭之八箇耳とある。
富家の伝承では、本来大伴は、天村雲命にお供をして倭に行った
斐伊神社
斐伊神社の祭神は須佐之男命・稲田姫命・伊都之尾羽張命である。
木次町に伝承されている八岐大蛇退治の物語に因む神社。
しかし、伊都之尾羽張命が祀られているのは何故か?
斐伊川の北側に「引那伎」という地名が残されており、さらに南側に「伊弉冊」という地名が残されている。伊弉諾尊と伊弉冊尊の時代に、伊弉諾尊が軻遇突智尊を斬った天之尾羽張、伊都之尾羽張と呼ばれた「十拳の剱」を祀った場所だったのかもしれない。
伊都之尾羽張と呼ばれた伊弉諾尊の「十拳の剱」という八岐大蛇に先行する因縁に引き寄せられて、八岐大蛇の早子と九頭龍の持子はこの斐伊川流域にやってきたのかもしれない。
『秀真伝(ほつまつたゑ)』は、素盞鳴命は八岐大蛇を退治した後、安潟神として祀ったとしている。
『古語拾遺』に、須佐之男命が八岐大蛇を斬った天十握剣の名を天羽羽斬といい、羽羽は大蛇であるという。 よって羽張は、雄々しい大蛇とする説もある
斐伊川堤防桜並木は、「日本さくら名所百選」に認定された中国地方随一の … 住所, 島根県雲南市木次町木次.
佐肆布都神社
長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触
祭神 武甕槌命、高貴神、天照大神、猿田彦命、天鈿女命、甕速日命、樋速日命、経津主命、稜威雄走神、天児屋根命、大己貴神、事代主命
由緒 『神社明細帖』に「佐肆布都神社、但式内無氏子。社記云弘仁二年(八一一)冬十月朔日勧請。社地一反 八畝十歩半」、『壱岐国神社田畑帳』に「佐肆布都神社、廿四座内、新田之内ニ而高三斗三舛三合并畑方三舛蒔 付居」と記されている。
延宝の改め以前は平江大明神と言っていたので(『名勝図誌』)、現在でも「おひらえ様」と呼ばれている。延喜式巻 十の壱岐島二四座の一に佐肆布都神社が見え『壱岐国神社総覧』も当者を延喜式壱岐二四座の内としているが、 『特選神名牒』は「今按神社考に箱崎郷大左右村に平江大明神と云社ありしを延宝の調に大左右の地名を左右大 と上下になして佐肆布都とすと云り沿革考には黒崎村天道宮なりとあれど其證をあけす故今姑明細帳長崎県式内 社記に従ふ」としている
伊豫國桑村郡 布都神社
御祭神 布都主神
配祀
武甕槌神 天照皇大神 武布都蛇麁正剱
倭武命 高倉下神 神倭磐余彦神
愛媛県西条市(旧東予市)にある。壬生川駅から西へ直線で4Kmほどの石延に鎮座。南北に走る道路の西脇に、南向きの狭い境内がある。
案内板にある「秘密祭神」が気になるところ。
スサノオの宮殿があったとされる地には須佐神社(島根県出雲市)がある。代々須佐神社の神職を務める稲田氏(後に須佐氏)は大国主の子孫であり、アシナヅチ・テナヅチから数えて2010年現在で78代目であるとしている。
須佐神社 すさじんじゃ
島根県出雲市佐田町須佐
島根県出雲市(旧佐田町)にある神社。
島根県出雲市(旧佐田町)にある神社。
鳥居脇の社号標には「須佐大宮」と刻まれている。境内正面に上の御前と呼ばれる天照社があり、本社向き。参道左右に東末社・西末社が参道を向き。本殿後ろに下の御前と呼ばれる三穂社があり、これも本社向き。
つまり、本社に参拝する者は、四方から睨まれている配置になっている。
出雲国風土記に「須佐社」とある神社。須佐之男命を祖神とする須佐氏の本貫。
十三所御所・十三所大明神とも称していた。
古くは、北の宮尾山に鎮座していたといい、天長年間(824~834)に現在地に遷座。
配祀の稲田姫命・手摩槌命・足摩槌命は、もとは須佐川の対岸に祀られており、古社地跡が残っているらしい 。
スサノオ
この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。爾に御歌を作みたまひき。其の歌は、
八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに
八重垣作る その八重垣を
是に其の足名椎神を喚びて、「汝は我が宮の首任れ。」と告言りたまひ、且名を負せて、稲田宮主須賀之八耳神と号けたまひき。
ホツマツタエの饒速日命:国照 クニテル
ホノアカリムメヒトとタマネ姫の子。ニニキネとコモリの孫にあたる。斎名:クニテル(国照)。
世嗣のなかったクシタマホノアカリの死後、アマテルの命でアスカ国を継ぐ(2代目カグヤマ央君)。
テルヒコの十種の神宝を譲り受ける。
クシタマホノアカリは世嗣欲しさにアメミチ姫を娶るが、やはり子ができなかったので、アメミチ姫の兄・タクリの子であるタクラマロを養子とする。しかし后のハセ姫に憎まれ、アメミチ姫共々捨てられる。アスカを継いだニギハヤヒは、アメミチ姫を母として召すが、子のタクラマロは応じなかった。
ナガスネヒコの妹ミカシヤ姫を后にしてウマシマチを生む。
神武の東征に屈し神武に降伏。
後にウマシマチにより十種の神宝は神武天皇に捧げられる。
『旧事』天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)。
天照(アマテラス)・国照(クニテル)・[彦天火明櫛玉]・饒速日尊(ニギハヤヒ)。 ”クニテルを嗣 天地照らす ニギハヤヒ君”
邇邇芸(妻 木花咲耶姫)ーーー火明命(コモリの次女タマネ姫が妻)ーーークニテル 饒速日
コモリ 子守神/守 とは
クシヒコとミホツ姫 (タカキネの娘) の子で、第3代オオモノヌシ。スサノオの曾孫
斎名:ミホヒコ。幼名:ヨロギマロ。