阿波の建御名方神、建布津神、タテミナカタ

建御名方神

神統譜について記紀神話での記述はないものの、大国主神と沼河比売(奴奈川姫)の間の御子神であるという伝承が各地に残る。妃神は八坂刀売神とされている。八坂刀売神は『先代旧事本紀』天神紀に「八坂彦命、伊勢神麻績連等の祖」とある八坂彦命の後裔とする説がある。

建御名方神は神(じん)氏の祖神とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ他田氏や保科氏など諏訪神党の氏神でもある。


建布都神

高天原から葦原中つ国に降り、大国主神、事代主神、建御名方神を服従させて国譲りを承諾させた建御雷神(タケミカヅチ)の別の名。

国譲り交渉のために高天原から天之菩日命(アメノホヒ)、天若日子(アメノワカヒコ)、伊都尾羽張神(イツノオワバリ)、建御雷神が順に遣わされています。
天之菩日命は式内 御県(ミアガタ)神社で祀られており、「阿波志」に「中郷村に在り、祭神一座天穂日命、… 神社啓蒙三県社中原清原秋篠菅原四姓の元祖なり」とみえる。

天若日子は徳島県渋野町入野の経塚大権現として祀られています。
天若日子は葦原中つ国に遣わされますが、大国主神の娘である下照比売を妻として八年経っても高天原に戻らないため、高天原から放たれた矢で射殺されています。
最後に伊都之尾羽張神とその子、建御雷神。

式内 建布都神社

高倉下(タカクラジ)の夢の中で天照大御神が建御雷神に「葦原中国はひどく騒がしい様子でわが御子たちは病気にかかっている。葦原中国はもともとおまえ一人が平定した国であるから、おまえ(建御雷神)が降るがよい。」と宣べたとあります。
ちなみに神武天皇軍が邪気に打たれた「熊野村」とは吉野川下流域北岸の土成町高尾字熊之庄に鎮座する「熊野神社」周辺。また高尾の地名は「高倉下」に因んだもの。

多祁御奈刀弥神社 (徳島県石井町)たけみなとみじんじゃ
下浦の北西に直線で1Kmほどの位置。
当社の創建は不詳。通称、お諏訪さん、あるいは東の宮という。
祭神は、建御名方命と八坂刀賣命。
江戸時代までは、建御名方命一柱だった。阿府志によると、高志国造の阿閇氏が、この附近に住み、
この地に産まれたという建御名方命を祀ったもの。
社傳によると、信濃諏訪郡南方刀美神社は、宝亀10年(779)、当社から移遷されたものという。
神紋は鎌の打ち合い。武神としての祭神を象徴しているのかもしれない。

由緒
当社は石井町浦庄字諏訪に鎮座し、建御名方命・八坂刀売命をお祀りしている。
延喜式内小社。歴代藩主蜂須賀候の尊崇極めて篤く、毎年当社の御例祭には参拝又は代参せられし趣にて、殊に寛永年中第四世蜂須賀光隆君疱瘡にかかられし際当社に御祈願あり奇瑞著し。又参拝道中鮎喰川の出水に遮られる事のあるため、現在の佐古町諏訪神社に分霊せしものと伝えられる。現在の社殿は享保五年(1720)の建築と言われる。 -境内案内-


建御名方神

諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜 科野国造)の妻となっています。

『延喜式神名帳』などには南方刀美神とあって、事代主神と奴奈宜波比売命との間に生まれた子となっています。

新潟県には、奴奈宜波比売命に因む奴奈川神社がありその社家は大国主と沼河比売の後裔である系譜を持ちます。

一方、神八井耳命は、母を媛蹈鞴五十鈴媛命とし母系で言えば親出雲臣族で、祖父を出雲臣富家の祖事代主神とします。神八井耳命の同母兄に神沼河耳命(綏靖天皇)がありますが、神沼河耳の名は、母の実家を表していると思われます。

事代主命は美保神社において、沼河比売と結婚し三穂津姫を生んだといい、
出雲臣富家の伝承では御穂須須美命は三穂津姫の事であると言われています。

御穂須須美命は、奴奈宜波比売命と事代主神の娘であると言われ母系で辿ると、結局、神八井耳命の祖は奴奈宜波比売命にあたる事になります。諏訪大社の神官に、多氏と神氏があるのは、この婚姻によるものと言えます。

阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。

諏訪大社上社大祝の系譜に、南方刀美神の五世孫に会知速男命がいて子に阿蘇姫があります。そして神八井耳後裔の武五百建命(磯城瑞籬宮朝定賜 科野国造)の妻となっています。

阿波国の式内社に、天村雲神伊自波夜比賣神社という神社があって、大日本史神衹志には、伊自波夜比賣について建御名方命の孫にあたる出速雄命の女。天村雲命の妃であるとします。

長野には出速雄神社とその娘である會津比賣神社があって、伊自波夜比賣が會津比賣である事が神社の伝承で分かります。これは、諏訪大社上社大祝の系譜の南方刀美神の五世孫に会知速男命があって、娘に阿蘇姫があるという伝承と同じです。

建御名方神とその関係者の神社が阿波には三座あるという事になるのです。

旧出雲大社上官家の富家伝承では、事代主命の子(子孫か)が建御名方神であるといい
ます。
富家は、大国主ではなく、事代主を祖としていたそうです。

阿波国には阿波郡と勝浦郡などに事代主命を祀る式内社があり、事代主命を祖とする長国造族が繁栄した阿波の式内社に、タケミナカタやコトシロヌシ、ミマツヒコをを祀る、事代主神社、大御和神社、多祁御奈刀弥神社、御間都比古神社などがある。

長国造の一族は、隠岐国造、都佐国造の系譜と一致しており、隠岐国造における系譜は

事代主命(味鋤高彦根命)-天現津彦命-観松彦伊呂止命-大日腹富命-建美奈命-甕男立命-麻斯命-多米津古命
(古代氏族系譜集成より)

となっています。


タケミナカタ

「神名帳」には阿波国名方郡の多祁御奈刀祢神社、信濃国諏訪郡の南方刀美神社二座が見える。大和岩雄氏は「阿波(徳島県)の名方郡の南に接する勝浦郡、那賀郡、海部郡を総称して南方と言う。御名方の意であろう。諏訪の神が南方刀美と言われ、諏訪南宮と言われるのも、阿波の南方と無縁ではなさそうである」と指摘している。また、南方の勝浦郡に事代主神社があり、諏訪神社の下社は八坂比売と事代主を祀っている。名方郡には八坂比売と似た名の天石門別八倉比売神社が見える。伊自波夜比売神社も見え、吉田東伍は「信濃諏訪神系の建御名方命の御子出速雄命の女に出速姫命あるは、伊自波夜比売神に由あり」(大日本地名辞書)として、この神を諏訪神の御子神としています。建御名方の「名方」は名方郡のタケミナカタトミ神を奉じた海人族が伊勢、尾張を経て信濃に入って諏訪湖の辺で祀ったと推測します


富家の伝承では、大国主の子としての建御名方神の国譲り神話など無かったと言う。


生島足島神社について

「建御名方富命が諏訪の地にお出でになるとき、此の地にお留まりになって二柱(生島神・足島神)の大神をお祭りされ、米粥を煮て供せられたというから、諏訪神より古い神様である」と村沢武夫氏は「信濃の伝説」で、ナカタ神は生島足島神より後であると主張しています。

小県郡には海部郷があり、他に海野、塩田、塩川、塩尻など海に関わる地名が多い。童女郷もワタツミを連想します。また小県郡には生島足島神社があり、生国・足国とも書き摂津の海人氏族が祀っていた神だという。「神名帳」には摂津国東成郡に生島足島神を祀る「難波坐生国咲 国魂神社」が見える。信濃国造(金刺舎人、他田舎人か)が6世紀後半頃に政治的要請(王権勢力の浸透)から国造の所在地である小県郡に生島・足島神(国土生成と発展の神)を祀ったものか?

この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野(うんの)郷(ごう)戸主(へぬし)爪工部(はたくみべ)君調(きみみつぎ)」と墨で書いた麻織物の布の一片が発見されている。これには年号がないが推定すると天平年間(729~41)頃の貢物であろう。このころ小県郡に海野郷という集落があって、爪工部という人々が、高貴な人が使う「紫の衣笠」を造れる高度な技術者集団がいて、かなり地位の高い姓を賜っていた人々が、この地に住んでいたことが立証される資料である。

平田篤胤 古史成文

『古史成文』[百三]

大國主神、亦邊津宮に坐す神、高津比賣命に[亦名は神屋楯比賣命。] 娶ひて、生ましめたまへる子、積羽八重言代主神。次に妹高照比賣命。亦須佐之男命の御女、八野若比賣命に御合まさむとして、屋を造らしめたまひし地を八野と云ふ。亦高志の沼河比賣命に娶ひて、生ましめたまへる子を、御穗須須美命と謂す。[亦名は健御名方神。] 此の神の坐しませる地を美保と云ふ。亦子山代日子命の坐しし處を山代と云ふ。即ち正倉有り。亦子若布都主命の御狩り爲坐しし時に、大野の鄕の西山に狩人を立たせたまひて、追はせる猪、北山の河内谷に至りて、其の猪の跡失せにき。爾の時、自然かも、猪の跡失せぬ、と詔りたまひき。故れ其處を内野と云ひき。今大野と云ふは訛なり。亦此の神、天御領田の長供へ奉り坐して、鎭まり坐しし鄕を美談と云ふ。即ち正倉有り。此の大國主神の御子、凡て百八十一神有しき。十五柱を珍子と爲て、天下四方國の人等に、みな恩賴を蒙らしめたまひき。

是に高皇産靈神、更に諸神等を曾へて、葦原中國に遣すべき神、選びたまふ時に、天思兼神、及諸神等僉曰さく、磐裂根裂神の子、磐筒之男磐筒之女神の子、經津主神、是れ佳けむ。亦天安河の河上の天石窟に坐す、名は伊都之尾羽張神、是れ遣すべし。若し亦此の神にあらずは、其の神の子、甕速日神の子、熯速日神の子、武甕槌之雄神、此れ遣すべし。且其の天尾羽張神は、天安河の水を逆さまに塞き上げて、道を塞き居れば、他神は得行かじ。故れ別に天迦久神を遣して問ふべしとまをしき。故れ爾に天迦久神を使はして、天尾羽張神に問ふ時に、天尾羽張神答白さく、恐し、仕へ奉らむ。然れども此の道には、吾が子武甕槌神を遣すべしと白して、乃ち貢進りき。故れ是の經津主神、亦名は彌加布都命。亦名は比古佐自布都命。此は矢作連が祖なり。次に武甕槌之雄神、[亦健雷神と云す。] 亦名は健布都神と謂す。亦名は豊布都神と謂す。