牟佐坐神社 むさにますじんじゃ
奈良県橿原市見瀬町字庄屋垣内718
式内社 大和國高市郡 牟佐坐神社
御祭神 高皇産霊命 孝元天皇
元は、久邇郷牟佐村築田にあり、安康天皇の御代、牟佐村主青が、生霊神をここに奉祀した。
一説には、壬申の乱で大海人皇子軍が金綱井で戦った時、高市県主許梅に、身狭社(むさ)の生霊神が神がかり勝利に導いたので、篤く祀られたという。
元来、生霊神を祀る神社であったと思われるが、近世には、境原天神と称し、天児屋根命と高皇産霊命を祀り、あるいは、菅原道真を祀る天神社とも呼ばれていた。
また、天神宮とも春日明神とも呼ばれており、明治初期に、生雷と思兼神を祭神としたが、その後、当地が孝元天皇の軽境原宮跡に治定されてからは高皇産霊命と孝元天皇が祭神となった。
飛鳥坐神社が管理しているのだろう。
日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御代 牟佐村(現見瀬町)村主 青の経営であった。
当時の祭神は生雷神(即ち雷公)であり 江戸初期まで榊原(境原)天神と称されていた。
西暦672年、先帝の没後間もなく「壬申の乱」が起こります。大海人皇子方の将軍大伴吹負は近江の軍勢に打ち破られ、供の者一二名だけを率いて乃楽山から辛うじて逃げ出し、墨坂まで応援に駆けつけてきた置始連菟の軍と「偶(たまたま)」合流することが出来、更に金綱井まで後退して散り散りになった部下の再集合に努めました。この折起きた異変について書記は以下の通り記録しています。
これより先に、金綱井に軍せし時に、高市郡大領高市縣主許梅、にわかに口を閉びて、言うこと能はず。三日の後に、方に神に着して(註・神憑りして)言わく、
「吾は、高市社に居る、名は事代主神なり。また、身狭社に居る、名は生霊神なり」という。すなわち顕して曰く、
「神日本磐余彦天皇の陵に、馬および種々の兵器を奉れ」という。 [天武元年七月条]
新撰姓氏録は高市縣主を『天津彦根命十二世孫、建許呂命の後なり』と記載し、古事記も同様の系譜を伝えていますから、彼の家系は天孫の流れを汲む一族であることに間違いありません。そうすると、ここでも明らかに対立する側の後裔が事代主命の神威を称え、それらを祀ることによって大海人皇子(天武)の勝利が齎されたと正史の中で語り続けたことになります。
神功皇后は夫の仲哀帝が「神の教に従がわずして早く崩御した」後、自らが神を祭る主人役(神主)となって再び「神の教」を聞こうとしますが、その時、皇祖アマテラスと一緒に顕れた事代主命の名を書紀は『天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神』と格別な表記を採っています(摂政前紀、仲哀九年三月条)。これは恐らく、
また曰く、事代主神、八尋熊鰐に化為りて、三嶋の溝樴姫、或るは云わく、玉櫛姫というに通いたまう。
しこうして児、姫蹈鞴五十鈴姫命を生みたまう。これを神日本磐余彦火火出見天皇の后とす。 (神代紀より)
とある神武(天孫)と事代主命(地祇)の姻戚関係を殊更に強調したものと考えられる。
「天皇本紀」 事代主命は三嶋溝杭の娘、玉櫛姫と結ばれた。
「地祇本紀」 事代主命は三嶋溝杭の娘、活玉依姫と結ばれ一男一女を儲けた。
飽く迄も推論ですが「山城国風土記」逸文が記した賀茂建角身の子供二人(玉依日子と玉依日売)についての伝承を手掛かりにして、ここに在る「三嶋溝杭の娘、活玉依姫命」という女神を「田使首」「鴨氏」の系譜にある「玉依彦命」の姉妹だと仮定すると陶津耳命、賀茂建角身命(ヤタガラス)、天日鷲翔矢命そして少彦名命は、皆同じ神様を違う言葉で言い表したものだと考えることが可能になります。また物部氏を除いて、全ての神名は同一神の別名だと思われます。そこで先に見た事代主命の尊称にあった「玉櫛入彦」の文言が俄かに注目されます。ここにある「入彦(イリヒコ)」は彼が三嶋溝杭の家に「婿入り」した証ではないのか?三嶋の地に「鴨神社」が鎮座しているのも事代主命が「ワニ」に化身して大和から摂津へ移動した足跡ではないのか?そんな気がしてなりません。さて、今回のお話しもそろそろ終わりに近づきました。新参の神武帝を自ら案内役となってヤマトの中洲に迎え入れ、帝室から大変喜ばれた神様が賀茂建角身命(ヤタガラス)だったのですが、彼は神話上オオクニヌシと一緒に国造りを行った少彦名命でもあった訳です。そして少彦名命は父の天津彦根命(天若日子)が妻の兄、味鋤高彦根命と「懇意」だったように大物主命(櫛甕玉)、事代主命(玉櫛入彦)とも大変親しい間柄で、自分の娘(玉櫛姫)の婿に事代主命を選び、双方の血統を受け継いだ孫娘(姫蹈鞴五十鈴姫)をアマテラスの直系である神日本磐余彦尊の后として送り込んだのです。