楯原神宮、神功皇后、息長氏、赤留比売

楯原神社

大阪市平野区喜連6丁目
祭神
武甕槌大神、大国主大神、孝元天皇、菅原道真、赤留姫命
崇神天皇御代の創建とされる式内社
赤留比売を祭神とする理由は、平野郷の赤留比売神社(現在は杭全神社の摂社)より勧請した龍王社を合祀し、境内の別宮に祀り奥の宮と称していたのを、現在は合殿しているが故である。
河内国伎人郷と言われた地域である。

「北村某の家記」に由来する喜連の息長伝説
「北村某の家記」の全文が大阪府全志(大正十一年)に紹介されています

『邑に北村某あり、一卷の家記を藏し、太古より仁徳天皇の御宇迄は若沼毛二俣王・以後醍醐天皇の延喜十七年迄は息長眞若麻呂・以後小松天皇の応永十九年迄は北村治良麻呂の撰筆なりと傳へ、もと三卷なりしも、元和の兵火に罹りしかば、其の焼残を取纏め補綴せしものなりといふ。略』と記。

その伝承によると、喜連村一帯は、往時、大々杼(オオド)国大々杼郷と称した。その由来は、この土地に鎮座する式内社楯原神社の祭神である建御雷男命の御孫建大々杼命に因むもので、その子建彦命が父の御名を国・郷につけたという。その後、神武天皇の時に功あって、大々杼彦仁(ヒコヒトか?)に大々杼の姓を賜い、大々杼の国造に任じ、かつ剱臣(つるぎおみ)の号を賜ったという。(中略)仲哀天皇のとき、(大々杼)黒城に嗣子がなかったので、天皇は日本武尊の子、息長田別王を下し給うて黒城の女、黒媛に配せしめられ、御子杭俣長日子王を挙げられたという。以下、原文を紹介する。

応神天皇8年、(妃)息長真若中女命 及 皇子若沼毛二俣王御幸あり、(中略)杭俣長日子王は息長真若中女命に宣給はく、吾に世継の彦なし、恐れ多きも此の若沼毛二俣王を下し賜ふまじくや、(中略)若沼毛二俣王は百々石城に下り、弟女(オトヒメ)真若伊呂弁王を配せられ息長氏を嗣ぎ給ひ、御子大郎子一名大々杼王・忍坂大中女命・田井中女命・田宮中命・琴節郎女一名衣通女命・取売王及び沙禰王の七子即ち三男四女を挙げられる、(中略)然るに若沼毛二俣王の長子大々杼王は、仁徳天皇の勅命を奉じて淡海の息長君となり、弟沙禰王は息長家を相続し、忍坂大中女命は男浅津間若子宿禰尊(允恭帝)の皇妃に立ち給へり。(中略)允恭天皇の御宇、息長沙禰王の女真若郎女を淡海の息長大々杼王の子彦主人王に嫁せられしが、御妊娠あり四ヶ月を経て此の百々石城に還り、王子御産あり、御名を大々杼命と称す、(中略)8年を経て雄略天皇元年、息長沙禰王は御女の真若郎女・御孫の大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り参らせられる。然るに実母真若郎女は早世せられしかば、異母福井振女に随ひ、成長せられて越前三国の君と号す。王子は後に天下を治め給へり。(継体帝のこと)

河内国伎人郷の馬国人の家にして宴せる歌
756 天平勝宝8 大伴家持・池主、伎人郷の馬国人の家で歌宴を開く。

〔天平勝宝〕八歳(やとせといふとし)丙申、二月の朔乙酉(きのととり)二十四日戊申(つちのえさる)、天皇(すめらみこと孝謙)、太上天皇(おほきすめらみこと聖武)、〔太〕皇太后(おほみおや光明)、河内の離宮(とつみや)に幸行して、信信(よよ)を経て、壬子に難波の宮に伝幸(うつりいでま)し、三月の七日、河内の国の仗人(くれの)郷(さと)の馬史國人(うまのふひとくにひと)が家にて、宴したまへるときの歌三首

三月七日に大伴家持・池主が河内国伎人郷の馬国人の家に招かれ歌宴が催され三首の歌が詠まれ、その歌を万葉集巻20-4457~4459に記載しています。これに対して歌宴の席上で詠まれたのは20-4457~4462の七首であるとする説もありますが、4460~4462の三首には右三首江邊作之と記されており、他日江邊(堀江?)で作られた歌であり「続紀」によると三月一日、太上天皇(聖武)は難波の堀江のほとりに行幸されたとあるので、家持も供奉したと思われその時に作った可能性もあり、それを国人家の歌宴で披露したものか? しかし次の4463・64の二首には右二首廿日大伴宿祢家持依興作之と記されており、4460~4462の三首は三月七日と廿日の間に記載されているので、その間に作られたとも考えられるが、作歌の日付がないのでいずれとも断定し難い。
国人の家での詠み歌が三首とは少ないと思われるが何首か詠まれていても家持の意に適った歌はこの三首であった為これが万葉集に取り上げられたとも考えられます。
下記は三月七日、馬国人の家で詠まれた歌三首。

20-4457 住吉(すみのえ)の 浜松が根の 下延(したは)へて 我が見る小野の 草な刈りそね 右一首兵部少輔大伴宿祢家持

20-4458 にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽(ことつ)きめやも 古新未詳 右一首主人散位寮散位馬史国人

20-4459 葦(あし)刈に 堀江漕ぐなる 楫(かじ)の音は 大宮人の 皆聞くまでに                             右一首式部少丞大伴宿祢池主読む

即ち云はく「兵部大丞大原真人今城先つ日に他(あた)し所にして読む歌ぞ」といふ
                                        
通釈 住吉の浜松の根の地に延びているように、人に知られず心で思って私が見る野の草を刈らないでほしい。馬国人の家からの眺望をほめた挨拶の歌。

通釈 息長川の水は絶えてしまおうとも、君に語らう言葉が尽きる事がありましょうか。
語釈 鳰鳥(にほとり)カイツブリともいう。水中に潜って息が長く続くのでオキナガにかけたものでオキはイキの古形。

息長川とは長命に縁がある言葉なので、いついつまでも末永く貴方とお付き合いが続きますように。この歌は元来恋歌であったものを家持への挨拶歌に転用したものともいわれています。当然歌宴の席上で主人の国人が場違いの「息長川」を詠みこんだ事は話題にあがったと思われます。国人からは「貴方様とは息の長い、にほ鳥やその住む川のように、いや例えその川がなくなろうとも、何時何時までもお付き合い願えますようにとの思いをこめたもので誰の歌か記憶はありませんが返歌として用いました」 

赤留比売伝承

「住吉松葉大記」によると赤留比売とは下照比売のことであると記されています。「古事記」にみる赤留比売は朝鮮半島新羅国の王子、天の日矛の妻で下照比売とは日本神話の中に登場する人物で大国主神(おおくにぬしのかみ)と多紀理毘売命(たきりひめのみこと)の娘で、天若日子(あめのわかひこ)と結婚。天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、下照比売の泣く声が高天原まで届きその声を聞いた…… と記され、「日本書紀」では天若日子(あめのわかひこ)の妻は記されて居らず、夷振(ひなぶり)を詠んだ者の名として下照比売の名が記されているのみです。
「住吉松葉大記」「攝陽群談」には下照比売神社は西成郡西高津町にありと記されており、現大阪市中央区にある高津神社(祭神仁徳天皇)の境内末社比売許曾社のことであろうか。
出自を「古事記」では『新羅の国に一つの沼あり、阿具沼という。この沼の辺に、ある賤(いや)しき女昼寝したり、ここに日の耀(ひかり)虹(にじ)ごと、その陰上(ほと)に指したるを、またある賤(いや)しき夫(おとこ)、恒にその女人の行(わざ)を伺ひき。かれこの女人、その昼寝したりし時より、妊身(はら)みて、赤玉をうみぬ。……』この卵から生まれたのが赤留比売で「卵生神話」の一種で朝鮮半島には、この種の神話が多くあるようです。赤留比売は後に新羅の王子、天の日矛(あめのひほこ)の妻になりますが、日矛が心奢(おご)りて赤留比売を罵(ののし)るので「私は貴方の妻になるべき女ではない御祖(みおや)のいる国に行く」と言って小舟に乗って逃げ渡って難波に留まります。これは難波の比売碁曾の社においでになる赤留比売という神です。古事記では阿加流比売と記されています。

「日本書記」では大加羅国(おおからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の話で誕生過程の大筋は古事記とほぼ同じですが、卵ではなく白い石になっています。石は美しい娘となり、阿羅斯等が娘を犯そうとしたが、娘に逃げられ追ってゆくと日本国にはいり難波に至って比売語曾社の神となった。また豊国の国前郡(くにさきごおり)に入り比売語曾社の神となり二ヶ所に祀られている。日本書記では赤留比売の名は見られず比売語曾社の神であり、天日槍とは関連性がなく別個の話となっています。

「風土記攝津国逸文」

『攝津国の風土記に曰(い)わく、比売島の松原。古(いにし)へ、軽島の豊阿伎羅(とよあきら)の宮に御宇(あめのしたしろ)しめしし天皇(すめらみこと)のみ世、新羅の国に女神あり、其の夫(を)を遁去(のが)れて来て、暫く筑紫国の伊波比(いはひ)の比売島に住めりき。乃(すなは)ち曰(い)ひしく、「この島は、猶是遠(なほこれとほ)からず。若し此の島に居ば、男の神尋(と)め来なむ」といひて、乃ち更(また)、遷(うつ)り来て、遂に此の島に停(とど)まりき。故(かれ)、本(もと)住める地(ところ)の名を取りて、島の號(な)と為(な)せり。』

また、筑紫国の伊波比(いはひ)の比売島とは大分県東国東郡姫島にある比売碁曾社であると考えられます。
新羅の卵生神話から生まれた赤留比売が何故日本を「御祖の国」として渡来して来るのか、住吉大社の子神になり呉人の里(伎人郷)に鎮座するのか? これも謎です。伎人郷が何時誕生して、いかなる渡来系の人が居住していたのか、赤留比売伝承から推測すると伎人郷は新羅系の人達が居住しており、その人達の産土神として赤留比売が祀られていたのでは???

楯原神社(村社)
西喜連無番地に鎮座す。明治四十年九月十二日許可、村内鎮座の無格社楯原神社、春日神社を村社天神社に合祀し、同日許可、村社八坂神社を境内社に合祀し、明治四十二年十二月九日許可を得て楯原神社と称す。旧村社天神社は菅原道真を祀り、相殿に天照皇大神、熊野大神を祀る。由緒詳ならず、明治五年雑社に列せられ、十二年十二月村社に列せらる。旧無格社楯原神社は式内の神社なり、俗に天神社と称せり、祭神は[攝津志][神社要録]等に不詳とあり、往古の社址は如願寺域なりと云う、延元の乱(1336)に兵火に罹り、文明十三年(1481)春仮社殿を造営し、明応二年(1493)三月正社殿に改造せり、元和年間(1615~24)暴風の為破損せるより、新に地を相して合祀前の地楯原神社(是より先きは天神社と称す)として崇祀し、社址は享保年間(1716~36)如願寺域とせり同寺は本宮の本願寺なり、本社の末社に雨乞祭りの奥宮及媛天神社あり、媛天神社は、元中喜連字山王に鎮座せり、祭神素戔鳥尊、明治五年村社に列せらる。旧無格社春日神社は亦東喜連に鎮座せり、祭神春日大神、末社に稲荷神社、祭神豊受媛神なり。以上の各末社も共に合祀せられたるなり。新楯原神社例祭は九月二日なり。境内官有地一反四畝十二歩。

伎人堤、茨田堤
喜連村は伎人の転訛なり。伎人郷は往古は河内国に属せり、万葉集に河内国伎人郷とあり。伎人堤は息長川の?塘なり。息長川の事は北百済村に其条あり[全文北百済村息長川絛参照]。続日本紀に天平勝宝二年五月、伎人、茨田等堤、往々決壊したる事を載せたるはこの堤なり。三代実録に貞観四年三月、摂津河内の国人、伎人堤を相争ふ事あり。是より先き古くは天平十三年四月、巨勢奈?麿、藤原仲麻呂其他を遣して攝津河内の河堤を争ふ所を検校せしめられ、又大同元年十月、攝河両国の堤を定められたり。是伎人堤の紛争に係る為なるべく、此堤は両国境に當りし故なるべし。堤の址今詳ならず

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息長氏
日子坐王系の系譜では山代大筒真若王(やましろのおおつつきまわか)-迦邇米雷王(かにめいかづち)と山背国綴喜郡(やましろのくにつづきぐん)と京都府南部の地名をもつ人の子が息長宿禰王であり、ここで突然息長姓の人物が登場し、葛城高額比売(かつらぎのたかぬかひめ)と婚姻して息長帯比売(おきながたらしひめ/神功皇后)、虚空津比売(そらつひめ)、息長日子王(おきながひこのおう)を生んでいます。息長帯比売が応神天皇を生みこの天皇が景行期の「倭建命系」の息長田別(おきながたわけ)王が、杙俣長日子(くひまたながひこ)王を生みますが別王・長日子王ともに婚姻者不明です。また、別王は帯中津日子命(仲哀天皇)と異母兄弟になりますが別王の事績等についての記述は一切無く「記」にのみその名が見られるだけで、生没年・事績等は一切不明で実在が疑問視される人物です。息長系の人物で事績等が記されているのは息長帯比売命(神功皇后)・忍坂大中津比売・藤原琴節郎女の三人でいずれも女性です。男性たちはすべて事績の記載なく系譜に名を記すのみ。息長真若中比売が応神天皇の妃になることで開化期の「日子坐王系」と景行期の「倭建命系」の息長が結ばれ若沼毛二俣(わかぬけふたまた)王から大郎子(おほいらつこ)亦の名意富富杼(おほほど)王、忍坂大中津比売(おさかのおほなかつひめ)、藤原琴節郎女(ふじはらのことふしのいらつめ)ほか四人の子女を生み、意富富杼(おほほど)王が北近江に赴き息長・酒人・三国・波多・山道君等の祖になったと「記」は記しています

「記」では御陵は、川内(かふち)の恵賀の裳伏(もふし)の岡にあり。と記していますが「書紀」には四十一年(310)春二月十五日、天皇は明宮(あきらのみや)で崩御された。時に御歳百十歳。一説では大隅宮でお亡くなりになったともいう。御陵に関しての記述はなく陵墓記述のない天皇は珍しい。「書紀」編者は何故応神の陵墓を記載しなかったのだろう。

そして応神期で息長系譜は「記」から消えて次に19代允恭天皇期(412~453)になって突如復元します。それは神功摂政期(201~269)に誕生した忍坂大中津比売と妹の藤原琴節郎女が19代允恭天皇(412~453)の后妃になって登場する矛盾記述です。神功摂政期(201~269)でこの間に生まれた忍坂大中津比売と藤原琴節郎女が允恭天皇の后妃になるなど考えられないこと

26代継体期(507~531)に先の允恭期以来途絶えていた息長系譜が突如復活して出自不明の息長真手王とその女(むすめ)麻績娘子(おくみのいらつめ)と妹、広姫(ひろひめ)が出現。姉の麻績娘は継体天皇の妃となり一女をもうけます。妹の広姫は30代敏達天皇(572~585)の皇后となり忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)、坂騰(さかのぼり)王、宇遅(うぢ)王を生みます。「書紀」によると敏達四年一月九日、敏達天皇は息長真手王の女広姫を立てて皇后とし一男二女をもうけます押坂彦人大兄皇子、逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)、菟道磯津貝皇女の皇子女です。 敏達四年冬十一月、皇后広姫が薨じられたと記されています。広姫の姉の麻績娘子が継体天皇(507~531)の妃で「書記」によると継体元年(507)三月十四日に麻績娘子を妃に迎えたと記されて居るので当年十八歳と仮定すると妹広姫の仮定年齢は十六歳、敏達即位の572年の広姫は八十歳ということになります。敏達天皇の推定生没年が538~585年とされていますから六十七歳年上の皇后を迎えたことになります。
「記」では息長真手王が女、麻組郎女(おくみのいらつめ)に娶いて、生みませる御子、佐佐宜郎女(ささげのいらつめ)一柱。敏達天皇の項では息長真手王が女、比呂比売命に娶いて、生みませる御子、忍坂日子人太子(おさかのひこひとのひつぎのみこ)またの名は麻呂古王、次に坂騰(さかのぼり)王、次に宇遅(うぢ)王の三柱。
「記紀」ともに人名の字体の違いはありますが内容は大筋で一致しています。

息長系譜といわれる系譜にはこうした異世代婚が多く有り、矛盾記述や異世代婚そして途切れる系譜と不可解な問題が山積している。