法隆寺金堂、釈迦三尊光背銘の上宮法皇

法隆寺釈迦三尊の光背銘に刻まれた「法興 32年」は622年である。この元号を定めた王が「上宮法皇」である。従って、その命日を元号「法興」を使って表 示したのである。

金 銅仏で、重さ200キロ、脇侍を含めると500キロという。古風な姿の仏像であるが、その光背には次のような銘が 刻まれている。

法興元三一年歳次辛巳十二月鬼
前太后崩明年正月二二日上宮法
皇枕病弗悆干食王后仍以勞疾並
著於床時王后王子等及與諸臣深
懐愁毒共相發願仰依三寶當造釈
像尺寸王身蒙此願力轉病延壽安
住世間若是定業以背世者往登浄
土早昇妙果二月二一日癸酉王后
即世翌日法皇登遐癸未年三月中
如願敬造釈迦尊像并俠侍及荘厳
具竟乗斯微福信道知識現在安穏
出生入死随奉三主紹隆三寶遂共
彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁
同趣菩提使司馬鞍首止利佛師造

法興の元(はじめ)より三十一年(621)、歳次未巳十二月、鬼前(神前・かむさき)太后崩ず。 明年(622)正月二十二日、上宮法皇、病に枕して、悆(こころよ)からず。 干食し(食べ物を受け付けず)、王后、仍(よ)りて以て勞疾し、並びに、床に著く。 時に王后、王子等、及び諸臣、深く愁毒(しゅうどく・うれい)を懐(いだ)き、共に相発願(ほつがん)す。 三宝を仰ぎ依りて、當に尺寸王身(しゃくすんおうしん)の釈像を造るべし。 此の願力(がんりき)を蒙(こうむ)り、病を転じ、寿(よわい)を延べ、世間に安住せんことを。 若(も)し是れ定業(じょうごう・前世からの定め)にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果(み ょうか・悟り)に昇らんことを。
二月二一日、癸酉、王后即世す。翌日法皇、登遐す。 癸未年(623)、三月中(に)、願の如く、釈迦尊像并(なら)びに俠侍及び荘厳の具(光背と台座)を敬造し 竟(おわ)りぬ。 斯(こ)の微福(みふく)に乗(よ)り、信道の知識(道を信じる施主)、現在には安穏にして、生を出でて死に 入らば三主(鬼前太后・上宮法皇・王后)に随ひ奉り、三寶を紹隆(しょうりゅう)し、共に彼岸を遂げ、六道 に普遍(輪廻)する法界(宇宙)の含識(衆生・人々)も、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。 使司馬・鞍首止利佛師、造る。

日本書紀が記録しているのは高句麗の僧、慧慈の言葉である。僧、慧慈は上宮法皇の仏法の師であった。 日本書紀では上宮法皇は「上宮皇太子」と書かれている

是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に當りて、高麗の僧慧慈、上宮皇太子薨りましぬと聞き て、大いに悲ぶ。皇太子の為に、僧を請せて設齋す。仍りて親ら経を説く日に、誓願ひて曰はく、「日本 國に聖人有す。上宮豊聡耳皇子と曰す。固に天に縦されたり。玄なる聖の徳を以て、日本の國に生れ ませり。三経を苞み貫きて先聖の宏猷に纂ぎ、三寶を恭み敬ひて、黎元(おほみたから)の厄を救ふ。 是實に大聖なり。今太子既に薨りませぬ。我、國異なりと雖も、心断金に在り。其れ独り生くとも、何の益 かあらむ。我来年の二月の五日を以て必ず死らむ。因りて上宮太子に浄土に遇ひて、共に衆生を化さ む」といふ。是に、慧慈、期りし日に當りて死る。是を以て、時の人の彼の此も共に言はく、「其れ独り上 宮太子の聖にましますのみに非ず。慧慈もまた聖なりけり」といふ。

「鬼前太后」= 神前皇后
「上宮法王帝説」
この皇后の同母の弟、長谷部天皇、石寸神前宮に天の下治めしき。若し疑うらくは其の姉の穴太部王、即 ち其の宮に坐すが故に、神前皇后を称す也 (上宮法王帝説)
上宮法王帝説の「上宮法王」と釈迦三尊光背銘の「上宮法皇」は同一人物か或いは別人か。帝説上宮法王 の命日は「壬午年(推古三十年)二月二十二日夜半、聖王薨逝也」と記している。推古30年は西暦622年であ る。その命日は622年2月22日である。釈迦三尊光背の上宮法皇の命日は法興32年2月22日、西暦622年2月2 2日である。両者の死亡年月日は同じである。

「上宮法王帝説」では「法興」 年号は使用されずに、推古30年という皇歴による年代表記法がとられている。

慧慈法師賣上宮御製疏還帰本国、流伝之間、壬午年(推古三十年)二月二十二日夜半聖王薨逝 也。慧慈法師聞之、奉為王命講経発願日、逢上宮聖王必欲所化。吾慧慈来年二月二十二日死者、 必逢聖王面奉浄土、遂如其言、到明年二月二十二日発病命終也

天皇が即位したのは法興元年である。そして亡くなったのが法興32年である。法興32年は622年であるか ら、逆算すると即位は590年である。590年から622年までが、この天皇の治世である。

この期間は、皇歴で云うと、崇峻(587~592)-推古(593~628)の二代に当たる。

伊予國風土記の上宮聖徳の皇子
湯の郡 伊社迩波の岡
・・・・・・・・・・・上宮聖徳の皇子を以ちて、一度と為す。及、侍は高麗の恵慈の僧・葛城臣等なり。時に、湯 の岡の側に碑文を立てき。其の碑文を立てし處を伊社邇波の岡と謂ふ。伊社邇波と名づくる由は、當土 の諸人等、其の碑文を見まく欲ひて、いざなひ来けり。因りて伊社邇波と謂ふ、本なり。
碑文に記して云へらく、法興六年十月、歳丙辰にあり。我が法王大王と恵慈の法師及葛城臣と、夷與 の村に逍遙び、正しく神の井を観て、世の妙しき験を歎きたまひき。意を叙べ欲くして、聊か碑文一首を 作る。
惟ふに、夫れ、日月は上に照りて私せず、神の井は下に出でて給へずといふことなし。萬機はこの所 以に妙に應り、百姓はこの所以に潜かに扉す。若乃ち、照らし給へて偏私ることなきは、何ぞ、國を寿 しくすること華台の随に開け合ひたるに異ならむ。華の台の随に開きては合じ、神しき井に沐して疹を 癒す。詎そ落る花の池に舛きて化羽かむ。窺ひて山岳の巌崿を望み、反に平子が能く往を翼ふ。椿 樹は相廕り而ち穹窿となり、実に五百の張れる蓋を想ふ。朝に臨みては啼く鳥而ち戯れ哢り、何そ暁 の乱る音も耳に聒しき。丹き花巻ける葉は而ち映き照り、玉の菓弥る葩は以ちて井に垂れたり。その 下に経過れば、以ちて優る遊びにある可く、豈洪灌霄庭の意を悟らむ歟。 才拙く実に七歩に慚づ。後の君子、幸くはな嗤咲ひそ。 (伊予國風土記)
(1) 伊予風土記に依ると、伊予の湯を訪れたのは「上宮聖徳の皇子」「高麗の恵慈の僧」「葛城臣」である。
である。「葛城臣」とは蘇我馬子か?
(2) その時、伊予の湯に感激して詩を詠んだ。碑文が建てられた。この碑文には「我が法王大王」と名前が書か れている。「法王大王」とは風土記「上宮聖徳の皇子」と同一人物である。上宮聖徳皇子は法王大王と呼ば れていた。「法王」でありまた同時に「大王」であったから重ねて尊称されたのである。
(3) 碑文には「法興六年十月、歳丙辰」と日付を記している。596年10月のことである。ここに元号法興が使われている。

日本書紀は斑鳩で亡くなった日本國天皇の名前を「厩戸豊聡耳皇子命」と書いている。「厩戸豊聡耳皇子 命」は高麗僧、慧慈によって「上宮聖王」と呼ばれ、法隆寺釈迦三尊光背が「上宮法皇」と記している王と同一 である。
日本書紀は上宮法皇を「厩戸豊聡耳皇子命」「上宮太子」「皇太子」「上宮豊聡耳皇子」と、四通りの名前で 記している。「厩戸豊聡耳皇子命」「上宮豊聡耳皇子」は明らかに日本書紀を作った近畿天皇家の大義名分に よる表記方法であろう。
日本書紀
29年2月5日、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣及び天下の百 姓、悉に長老は愛き兒を失へるが如くして、鹽酢(しほす)の味、口に在れども嘗(な)めず。少幼は慈(う つくしび)の父母を亡へるが如くして、哭(な)き泣(いさ)つる 聲、行路に満てり。乃ち耕す夫は耜(す き)を止み、春(いねつ)く女は杵(きぬおと)せず。皆曰はく、「日月輝を失ひて、天地既に崩れぬ。今よ り以後誰を恃(たの)まむ。」といふ。是の月に、上宮太子を磯長陵に葬る。是の時に當りて、高麗の僧 慧慈、上宮皇太子薨りましぬと聞きて、大きに悲ぶ。皇太子の為に、僧を請せて設齋す。仍りて親ら経を 説く日に、誓願ひて曰はく、「日本國に聖人有す。上宮豊聡耳皇子と曰す。固に天に縦されたり。玄なる 聖の徳を以て、日本の國に生れませり。三経を苞み貫きて先聖の宏猷に纂ぎ、三寶を恭み敬ひて、黎 元(おほみたから)の厄を救ふ。是實に大聖なり。今太子既に薨りませぬ。我、國異なりと雖も、心断金 に在り。其れ独り生くとも、何の益かあらむ。我来年の二月の五日を以て必ず死らむ。因りて上宮太子に 浄土に遇ひて、共に衆生を化さむ」といふ。是に、慧慈、期りし日に當りて死る。是を以て、時の人の彼 の此も共に言はく、「其れ独り上宮太子の聖にましますのみに非ず。慧慈もまた聖なりけり」といふ。
(日本書紀・推古天皇)