任那とは、史書より

1.崇神紀 六十五年秋七月、任那国が蘇那曷叱智を遣わして朝貢してきた。任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林の西南にあたる。

2.垂仁紀 この年任那の人蘇那曷叱智が「国に帰りたい」といった。先皇の御代に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。彼を厚くもてなされ、赤絹百匹を持たせて任那の王に贈られた。ところが新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。

3.大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、… 天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ「自分の国に帰りたいか」といわれ「大変帰りたいです」と答えた。… 「そこでお前の本国の名を改めて、御間城天皇の御名をとって、お前の国名にせよ」といわれた。そして赤織の絹を阿羅斯等に賜わり、元の国に返された。だからその国を名づけてみまなの国というのは、この縁によるものである。… 新羅の人がそれを聞いて兵を起こしてやってきて、その絹を皆、奪った。これから両国の争いが始まったという。

「蘇那曷叱智」(そなかしち)と「都怒我阿羅斯等」(つぬがあらしと)とは同一人物であり、「都怒我阿羅斯等」が「天日槍」(アメノヒボコ)の別名であることは言うまでもない。

「任那」の前身は「大加羅国」であるという。

4.応神紀 二十五年 ─百済記にによると、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときに、その国の女を娶とって生んだところである。その父の功を以て、任那を専らにした。我が国(百済)にきて日本と往き来した。職制を賜わり、我が国(百済)の政をとった。権勢盛んであったが、天皇はそのよからぬことを聞いて呼ばれたのである。

5.雄略紀 七年 この年、吉備上道臣田狭 … 田狭を任じて、任那の国司とされた。(この後、天皇に田狭の嫁御の稚媛を召される)
 
6.同上 任那国司田狭臣は、… (天皇にだまされ我が身に禍が及びそうになり)「自分は任那に留まって日本に帰らない」といった。

7.雄略紀 八年春二月 天皇即位以来この年に至るまで、新羅国は貢物を奉らないことが八年に及んだ。そして帝の心を恐れて、好を高麗に求めていた。そのため高麗の王は精兵百人を送って新羅を守らせた。(その後、高麗の守りは偽りであることを知った新羅王は)任那王のもとへ人を遣わし、「高麗王がわが国を攻めようとしている。 … どうか助けを日本府の将軍たちにお願いします」といった。
 
8.雄略紀 二十一年春三月 天皇は 百済が高麗のために破れたと聞かれて、久麻那利(こむなり)を百済の文州王(もんすおう、この文は「三水」に「文」と書きます)に賜わって、その国を救い興された。

9.顕宗紀 三年春二月一日 阿閉臣事代が、命をうけ任那に使いした。

10.顕宗紀 三年 この年、紀生磐宿禰が、任那から高麗へ行き通い、三韓に王たらんとして、官府を整え、自ら神聖と名乗った。任那の佐魯・那奇他甲背らが計を用い、百済の適莫爾解を爾林城に殺した。帯山城を築いて東道を守った。食糧を運ぶ港をおさえて、軍を飢え苦しませた。百済王は大いに怒り、古爾解・内頭莫古解らを遣わし、兵を率いて帯山を攻めさせた。紀生磐宿禰は軍を進め迎え討った。勢い盛んで向う所敵なしであった。一をもって百に当たる勢いであっ
たが、しばらくしてその力も尽きた。失敗を覚り任那から帰った。
これによって百済国は、佐魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。

11.継体紀 三年春二月 任那の日本の村々に住む百済の人民の逃亡してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調べ、百済に送り返し戸籍につけた。

12.継体紀 六年冬十二月 百済が使いを送り、調をたてまつった。別に上表文をたてまつって、任那国の上多利・下多利・娑陀・牟婁の四県を欲しいと願った。「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。 … (多利はそれぞれ「口偏に多」、「口偏に利」)

13.継体紀 二十一年夏六月三日 近江の毛野臣が、兵六万を率いて任那に行き、新羅に破れた南加羅・喙己呑を回復し、任那に合わせようとした。

14.継体紀二十三年春三月 百済王は下多利国守穂積押山臣に語って、
「日本への朝貢に使者がいつも海中の岬を離れるとき。風波に苦しみます。 … それで加羅の国の多沙津を、どうか私の朝貢の海路として頂とうございます」といった。(これを百済王に賜ったが、加羅王からクレームがつき、結局、加羅は新羅と結んで日本に恨みを構えた。)

15.継体紀 二十三年夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。
─己能末多というのは、思うに阿利斯等であろう。
─大友大連金村に、「海外の諸国に、応神天皇が宮家を置かれてから、もとの国王にその土地を任せ、統治させられたのは、まことに道理に合ったことです。 … 」
 この月、使いを遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。同時に任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるように」といわれた。(この説得に失敗し、新羅の上臣は、)四つの村を掠め、─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本には多々羅・須那羅・和多・費智という─人々を率いて本国に帰った。ある人が言った。「多々羅ら四村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」と。

16.継体紀 二十四年冬十月 調吉司は任那から到着し奏上して「毛野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。和解することを知らずに加羅をかき乱してしまいました。 … 」そこで目頬子を遣わしてお召しになった。
この年毛野臣は対馬に至り、病にあって死んだ。 … 目頬子が始めて任那に着いたとき、そこにいた郎党どもが歌を贈った。

韓国如何言事目頬子来向離壱岐渡目頬子来
韓国にどんなことを言おうとして、目頬子が来たのだろう。遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。

17.宣化紀 二年冬十月一日 天皇は新羅が任那に害を加えるので、大伴金村大連に命じて、その子磐と狭手彦を遣わして、任那を助けさせた。

18.継体紀 三年春二月 任那の日本の村々に住む百済の人民の逃亡してきたもの、戸籍のなくなった者の三世四世までさかのぼって調べ、百済に繰り返し戸籍につけた。

19.継体紀 六年冬一二月 百済が使いを送り、調をたてまつった。別に上表文をたてまつって、任那国の上多利(多は口偏に多、利は口偏に利)・下多利・娑陀・牟婁の四県を欲しいと願った。 …「この四県は百済に連なり、日本とは遠く隔たっています。 …。」上表文に基づく任那の四県を与えられた。

20.継体紀 二十一年夏六月三日 近江の毛野臣が。兵六万を率いて任那に行き、新羅に破られた南加羅・碌己呑(碌は石偏ではなく口偏です)

21.継体紀 二十三年春三月 百済王は下多利国守穂積押山臣に語って、「日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみます。 … それで加羅の国の多沙津を、 … 頂とうございます。」 … 多沙津を百済王に賜った。 … このとき加羅の王が勅使に語って、「この津は宮家が置かれて依頼、私が朝貢のときの寄港地としているところです。たやすく隣国に与えられては困ります。始めに与えられた境界の侵犯です。」といった。 … このため加羅は新羅と結んで、日本に恨みを構えた。
 
22.同上 加羅王は新羅の女を娶って、子を儲けた。新羅は始め女を送るとき、一緒に百人のお供をつけた。 … (これに)新羅の衣冠を着けさせた。加羅の阿利斯等は、加羅国の制服を無視されたことに怒り、 … 新羅は面目を失った。 … ついに新羅は、刀伽・古跛・布那牟羅の三つの城をとり、また北の境の五つの城もとった。

23.同上 この月に近江毛野臣を使とし、安羅に遣わされた。詔して新羅に勧め、南加羅・碌己呑を再建させようとした。

24.継体紀 夏四月七日 任那王、己能末多干岐が来朝した。─己能末多というのは、思うに阿利斯等だろう。(新羅が度々領土を侵害してくるため。)

25.継体紀 夏四月 使を遣わして、己能末多干岐を任那に送らせた。同時に任那にいる近江毛野臣に詔され、「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させるように」といわれた。(新羅と毛野臣は不和となり、新羅の)上臣は四つの村を掠め─金官・背伐・安多・委陀の四村。ある本には多多羅・須那羅・和多・費智という。─人々を率いて本国に帰った。ある人が言った。「多多羅ら四つの、村が掠められたのは毛野臣の失敗であった」と。

26.継体紀 二十四年秋九月 任那の使が奏上して、「毛野臣は久斯牟羅に住居をつくり、滞留二年、政務も怠っています。日本人と任那人の間に生まれた子供の帰属争いについても、裁定の能力もありません。 … 阿利斯等は、毛野臣が小さくつまらないことばかりして、任那復興の約束を実行しないことを知り、 … 離反の気持ちを起こした。

27.継体紀 二十四年冬十月 調吉士は任那から到着し奏上して「毛野臣は人となりが傲慢でねじけており、政治に習熟しておりません。和解することを知らず加羅をかき乱してしまいました。… 」
そこで目頬子を遣わしてお召しになった。この年毛野臣は召されて対馬に入り、病に会って死んだ。

28.目頬子が始めて任那に着いたとき、そこにいいた郎党どもが歌を贈った。

韓国如何言事目頬子来向離壱岐渡頬子来

韓国にどんなことを言おうとして、目頬子が来たのだろう。遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。

ここまでが、『宣化紀』までに記載されている「任那」関係の記録。

『日本書紀』に寄った記載ではあるが、これを客観的に読んでみると、まず興味深いことは、「任那」の前身は「大加羅国」で、アメノヒボコの出身国であったということだ。アメノヒボコと言えば、神功皇后の母方の祖でもあることから、

「日本を父とも兄ともたてて…」『欽明紀』
という『日本書紀』の主張は、その通り。

「加羅」とは「倭国」からみた呼び方で、「新羅」からは「伽耶」と呼ばれていたらしいが、「ラ・マ・ヤ・ナ」とは国に対する発音であることから、「加羅」も「伽耶」も「カ」という国を指していたことがわかる。同地域に散在する小国家群の総称であると言われている。

ところが、「任那」=「加羅」かというと、そうではない。

「倭王武」の上表文では、

「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東太将軍倭国王」

というように「任那・加羅」は並列で記され、明らかに別の国としている。「任那」の別称と『日本書紀』がいう「大加羅」であるが、一般的に「金官加羅」が滅んだ後の「伽耶諸国」の盟主であり、現在の慶尚北道高霊郡にあった。
だが、『崇神紀』では

「任那は筑紫を去ること二千余里。北のかた海を隔てて鶏林の西南にあたる。」

「鶏林」とは「新羅」のことであるが、「任那」はその北方が海であるというのであるから、これは「金官加羅」滅亡後の「大加羅」とは全然別の地域である。
  そうかと言うと、『継体紀』にあるように「百済」に賜ったという「任那」四県は、その場所が「百済」に接していたわけである。
そして、「目頬子」(めずらこ)が「任那」に着いたときの歌、

「遠く離れている壱岐の海路を、わざわざ目頬子がやってきた。」

であるが、「壱岐」は「対馬」と「九州」に挟まれた孤島である。従って、壱岐から渡航できる地域と言えば、「対馬」か「九州」しかない。

  このように順序立てて考えていくと、一つ思い当たる文献がある。

  通称『魏志倭人伝』である。

  『魏志倭人伝』に記された『邪馬台国』までの道程の抜粋は、

「郡より倭に至るには、…韓国を経て、…その北岸狗邪韓国に到る七千余里。始めて海を度る千余里、対馬国に至る。…また南一海を度る千余里、名づけて翰(三水に翰)海という。一大国に至る。…また海を度る一千余里末盧国に至る。…南、邪馬台国に至る、…」

であるのだが、これによれば朝鮮半島南岸にあったという「狗邪韓国」は、「邪馬台国」連合に属しており、これを「加羅韓国」あるいは「伽耶韓国」の当て字だとすれば、ここは後の「任那」に含まれた可能性は高い。
(「狗邪韓国」については、「倭」の属国として否定的な見解もあるが、『魏志・東夷伝・韓伝』には「韓は、帯方郡の南にあり、東西は海で限られ、南は倭と境を接する」とあり、「狗邪韓国」が「倭国」であったことは、ほぼ間違いない。)

そうすると、「任那」とは朝鮮半島の南部から海を隔て「対馬」までを含める地域だったことになる。

さらに『欽明紀』を読み進めていくと、特定の一国を指して「任那」と呼ぶ場合と、「加羅諸国」を指して「任那」と呼ぶ場合とに遭遇する。
例えば、「倭王武」の上表文にある「任那・加羅」は一国を指しているし、『欽明紀』二十三年春一月の条では、

「新羅は任那の官家を打ち滅ぼした。─ある本には、二十一年に任那は滅んだとある。総括して任那というが、分けると加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞食(三水に食)國・稔禮国、合わせて十国である。」
とあり、これが「諸国」としての「任那」ということになる。

『欽明紀』では、その大半を「任那」復興策の記事に費やしている。
 この「任那」とは、次の「聖明王」(百済王)の言葉から、

「天皇の詔勅に従って、新羅が掠めとった国、南加羅・喙己呑らを奪い返し、もとの任那に返し、…」

「天皇が南加羅・喙己呑を建てよと勧められることは、近年のことだけではない。」

興味深いことに「南加羅」・「喙己呑」は、『神功紀』にその名を連ねている。

「四十九年春三月、荒田別と鹿我別を將軍とした。久底(氏の下に一)らと共に兵を整えて卓淳国に至り、まさに新羅を襲うとした。そのときある人がいうのに、『兵が少なくては新羅を破ることはできぬ。沙白・蓋盧を送って増兵を請え』と。木羅斤資・沙々奴跪に命じて、精兵を率いて沙白・蓋盧と一緒に遣わされた。ともに卓淳国に集まり、新羅を討ち破った。
そして比自本(火偏に本)・南加羅・喙国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七ヵ国を平定した。兵を移して西方至古奚津に至り、南蛮の耽羅を亡ぼして百済に与えた。…比利、辟中、布弥支、半古が自然に降伏した。」

『神功紀』には、「葛城襲津彦」について記されている。同紀に引用されている『百済記』には、「沙至比跪」を記すが、この者を「襲津彦」と同一人物と見なす説が大変有力である。

『雄略紀』以降のこととしてみると、『宣化紀』には「大伴金村大連」の子に「磐」と「狭手彦」が記されている。
 「沙至比跪」は「狭手彦」、と考えられないか?
「沙至比跪」は「新羅」を討ちに行ったが、「新羅」の美女を召し、逆に「加羅」を滅ぼしたというが、『日本書紀』によれば、「大伴氏」は失脚していったようであるので、数万の兵を率いて「高麗」を討ちにいった(『欽明紀』)という「沙手彦」が、「沙至比跪」同様、反旗を翻すことは、充分考えられること。

事実、この『神功紀』に名を連ねた七ヶ国+四ヶ国は、「任那」とはされていない。また「卓淳国」は七ヶ国中の「卓淳」と同国と思われるが、
この国については、『神功紀』の四十四年のこととして、次のように記した箇所がある。

「以前から東方に貴い国のあることは聞いていた。けれどもまだ交通が開けていないので、その道がわからない。海路は遠く波は険しい。」

この貴い国とは「倭国」のことか「貴国」か?

  その「卓淳国」は、そして「喙己呑」・「加羅」は、

「『…しかし、任那は新羅に国境を接してますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです』─らといったのは、喙己呑・加羅などがあるからであり、言うところの意味は、卓淳らの国のごとく亡国の禍を恐れたのである。」

とあるように、「新羅」によって滅ぼされている。

660年成立の『翰苑』新羅の条に「任那」があり、その註に

「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」
と記されているらしい。

『欽明紀』には、「百済・聖明王」との「任那」復興協議に、「安羅」、「加羅」、「率麻」、「多羅」、「斯二岐」、「子他」の旱岐が臨んでいる。その後「久嗟(古嗟)」がこれに加わっているが、これらの国はすべて、『欽明紀』に記されている「任那」十国に属している。