敏達天皇
敏達天皇と申まうしき。欽明天皇の第二の御子、御母宣化天皇の御娘、石姫皇后なり。
欽明天皇十五年甲戌正月に東宮に立ち給ふ。世を知り給ふ事、十四年なり。”今年正月一日ぞ聖徳太子は生まれ給ひし。
聖徳太子(敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) – 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))
聖徳太子の父の用明天皇は御門の御弟にて、いまだ皇子と申ししなり。御母、宮の内を遊び歩ありかせ給ひしに、厩の前にて、御心にいささかも思えさせ給ふ事もなくて、にはかに生まれさせ給ひしなり。この月までは十二箇月にぞ当たらせ給ひし。人々急ぎ抱き取り奉りてき。かくて、赤く黄なる光西の方より差して、御殿の内を照らしき。御門この由を聞こし召して、行幸なりて、事の有様を問ひ申し給ふに、またありつるやうに宮の内光差して輝きけり。御門浅ましと思して、「只人にはおはすまじき人なり」とぞ、人々にはのたまはせし。
欽明天皇の御宇、欽明天皇十五年(554)甲戌の正月に東宮に立たれました。世を治められること、十四年でした。敏達天皇が帝位に即かれた年の正月一日に聖徳太子は生まれました。父である用明天皇は敏達天皇の弟で、まだ皇子と呼ばれていました。聖徳太子の母が、宮中を歩いている時、厩の前にて、思いがけなく、にわかに生まれたのでした。この月は十二箇月目にぞ当たっていました。人々は急ぎ抱き取ったのでした。そして、赤黄色の光が西の方より差して、御殿の中を照らしました。敏達天皇はこれを聞かれて、行幸になられて、事の有様を訊ねられていると、また同じように宮中に光が差して輝きました。敏達天皇は不思議に思って、「只人ではないだろう」と、人々に申されました。
四月になると、聖徳太子は話すようになりました。この年の五月であったでしょうか、高麗より烏の羽に詩を書いたものが献上されましたが、何と読めばよいのか解らなかったので、何とかの王とか申す人が、こしき([コメなどを蒸すのに使う装置])の内に置いたままでしたが、聖徳太子はこれを写し取ってて読んだといいますがまったく並外れたことでした。敏達天皇(第三十代天皇)は、聖徳太子を褒め称えて、その王は御前近くに常にいるようにと申しました。敏達天皇二年(573)の二月十五日に、聖徳太子は東に向かって手合わせて「南無仏」と唱えました。今年御年二歳のことでしたでしょうか(聖徳太子は敏達天皇二年には生まれていない)。敏達天皇三年(574)の三月三日に、父である皇子(大兄皇子おほえのみこ。後の第三十一代用明ようめい天皇)は、聖徳太子を愛しくて抱くと、とてもよい香りがしました。その後、多くの月日を過ぎても、その移り香が消えることがなかったので、宮中の女房たちは、我も我もと争って聖徳太子を抱きました。
577年百済国より経論
敏達天皇六年(577)十月のことでしたか、百済国より経論が、また数多く伝わりました、聖徳太子が、「経論が見たいのです」と帝(第三十代敏達びだつ天皇)に申されました、敏達天皇がその訳をお訊ねになられると、聖徳太子が申されるには、「昔唐土の衡山(中国湖南省衡陽市にある山)におりましたので、仏教は知っております。今一度その経論を賜り、見てみたいと思ったのです」と申したので、敏達天皇は不思議に思って、「お主は六歳ではないか。いつ唐土におったなどと申すのだ」と申されると、聖徳太子は「前世のことを覚えておりますので申しました」と答えたので、敏達天皇をはじめ、これを聞く人は、手をうち、驚いたということです。法華経はこの年に伝わったと聞いております。敏達七年(578)と申す二月に、聖徳太子は数多くの経論を開き読まれて、「六斎日([特に身を慎み持戒清浄であるべき日とされた六日。毎月の八日・十四日・十五日・二十三日・二十九日・三十日])は梵天([仏法護持の神])帝釈([帝釈天]=[梵天と並び称される仏法守護の主神])が天から降り下られて、国の政を見られる日です。物の命を殺すことは控えるべきです」と申したので、敏達天皇はすぐに宣旨を下しました、この年聖徳太子は七歳でした。
579年新羅より釈迦仏
敏達八年(579)と申す十月に、新羅より釈迦仏が渡来したので、帝(第三十代敏達びだつ天皇)はよろこんで供養([開眼供養・鐘供養・経供養など寺院の仏教行事])を執り行ないました。山階寺(現奈良県奈良市にある興福寺)の東金堂に安置されているのはこの仏です。
583年百済国より日羅
敏達十二年(583)の七月に百済国より日羅という僧が来日しました。聖徳太子が日羅に会われて話をすると、日羅は、身より光を放ち、聖徳太子を拝み奉り「敬礼救世観世音伝灯東方粟散王(救世観世音=観世音菩薩。より伝灯=教法の灯を伝えること。法脈を受け伝えること 。された東方大和王であられる聖徳太子に礼拝いたします)」と申しました。聖徳太子は、再び、眉間より光を放ちました。聖徳太子は人々にこう申されました。「わたしが、昔唐土にいた時、日羅は弟子でした。日々わたしを拝んでいたので、身より光を放ったのでしょう。後の世には必ず天に生まれることでしょう」と申しました。
584年百済より石造りの弥勒仏
敏達十三年(584)の九月には、百済国より石造りの弥勒仏が渡来したので、蘇我馬子大臣は、堂を造り安置しました。いま元興寺(現奈良県奈良市にある寺)におられる仏です(現存しない?)。
585年仏法を廃絶するよう、宣旨
敏達十四年(585)と申す三月に、守屋大臣(物部守屋)が、帝(第三十代敏達びだつ天皇)に申すには、「先帝(第二十九代欽明きんめい天皇)の御時より今にいたるまで、世の中には疫病が絶えることはございません。蘇我大臣(蘇我馬子)が、仏法を広めようとしているからでございます」と申したので、仏法を廃絶するよう、宣旨を下されました。守屋はみずから寺に向かい、堂を切り倒し、仏像を壊し、火をつけて焼き、尼の着る僧衣を剥ぎ、笞で打ちましたが、空に雲もないのに激しく雨が降り強風が吹きました。天下には瘡([痘瘡とうさう]=[天然痘])が流行り命を失う者は数知れませんでした。瘡を病む者は、身を焼き切るほどに苦しみました。守屋が仏像を焼き滅ぼした罪によってこの病いが起こったのでした。六月に、蘇我大臣は「病いは長い間治まらぬ、やはり三宝([仏・法・僧])を仰ぐべきでございます」と申しました。敏達天皇は「ならば、お主の好きにせよ」と申されたので、また堂塔を造り出しました。仏法はこれによってようやく広まり始めたのです。こうして八月十五日に敏達天皇はお隠れになられました。
585年用明天皇即位
次の帝は、用明天皇(第三十一代天皇)と申されました。欽明天皇(第二十九代天皇)の第四皇子でした。母は、大臣蘇我宿禰稲目(蘇我稲目。宿禰は姓かばねの一)の娘、欽明天皇の妃堅塩姫でした。乙巳(585)の年の九月五日に、帝位に即かれました。世を治められること、二年。位に即かれた明くる年、聖徳太子は、父である帝(用明天皇)に向かい、「お命がとても短いように思われます。政を道理に沿ってなされるのがよろしいでしょう」と申しました。こうして、次の年の四月に、父である用明天皇は、具合を悪くされて、聖徳太子は夜昼付き添い、心の内で祈っていました。
用明天皇が、大臣以下が「三宝([仏・法・僧])を崇めようと思う。どうだろうか」と申し合わせましたが、守屋(物部守屋)は「とんでもないことにございます。我が国の神を背いて、どうして異国の神を崇めなくてはならないのですか」と申しました。蘇我大臣(蘇我馬子)は「ただ命に従って崇めることにいたします」と申しました。用明天皇は、蘇我大臣(蘇我馬子)の言葉に従い、法師を内裏へ呼び入れたので、聖徳太子はたいそうよろこんで、蘇我大臣(馬子)の手を取って、涙を流し、「三宝の妙理を人(物部守屋)は知らずに、怪しいものと思って信じようとはしないが、大臣(馬子)は、仏法を信じると申す、賢明なことです」と申したので、守屋は、たいそう怒って、腹を立てました。
587年用明天皇の没年 物部守屋滅ぶ
聖徳太子は、人々に申して、「守屋(物部守屋)は、因果を理解しようとせず今にも滅ぶでしょう。悲しいことです」と申しましたが、人がこれを守屋に告げ知らせたので、守屋はますます怒って兵を集め、様々の蠱業([呪詛])をさせました。これが聞こえたので、聖徳太子は、舎人を遣わして、守屋の味方をする者たちを殺させましたが、四月九日に帝(第三十一代用明ようめい天皇)がお隠れになられました。七月になると、聖徳太子は、蘇我大臣(蘇我馬子)とともに軍を起こして、守屋(物部守屋)と戦いました。守屋の軍数は分からなかったので、太子方の軍は怖じ恐れて、三度まで引き退きました。その時に聖徳太子は大誓願を起こし、白膠木([ヌルデ。ウルシ科])で四天王([仏教の四人の守護神。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天])を彫って、頭の上に置き、「今放つ矢は四天王の放つものである」と申して、舎人に射させると、矢は守屋の胸に刺さって、たちまち命を落としました。秦河勝に首を斬らせました。守屋の妹は、蘇我大臣(蘇我馬子)の妻でしたので、妻の企てで、守屋は討ち捕られたのだと、時の人は言い合いました。そして守屋を射殺した舎人は、赤檮(迹見とみ赤檮)と申す者でした。水田一万頃(約六万町=六千万坪)を与えました。こうしてこの年天王寺(現大阪市天王寺区にある四天王寺)を造り始められました(用明天皇の没年は587)。
日本最初の官寺 四天王寺
587年(用明天皇2)勝利を得たのを謝して、難波玉造(たまつくり)の岸上に建てたのが当寺の初めといわれ、593年(推古天皇1)現在地に移された。
六角堂の伝承 「京都の中心」:御本尊の如意輪観音5.5cm
聖徳太子が幼い頃、淡路島の岩屋に小さな唐櫃が流れ着き、太子が蓋を開けると中から黄金でできた一寸八分の如意輪観音の像が出てきました。そこで太子は、自分の持仏として大切にしました。そのころ太子は物部守屋と争っていたので、如意輪観音に勝利を祈り、「勝たせていただければ、四天王寺を建立いたします」と誓いを立てました。勝利をおさめた太子は、用明天皇2年(587年)、大阪四天王寺建立のための用材を求めてこの地に来られました。
ある日、泉のかたわらにある多良の木の枝に護持仏をかけて沐浴をされ、終わって仏を手に戻そうとされたが、どういうわけか、枝から離れません。その夜、「お前の守り本尊となってから、すでに7世が過ぎた。これからは、この場所にとどまって衆生の救済に当たりたい」、という仏のお告げを夢で見られました。信仰心篤い太子は、ここにお堂を建てようと決心しました。そこへ一人の老翁がやってきたので、「この辺りに観音のお堂を建てるにふさわしい木はないか」と尋ねました。老翁は「この近くに杉の巨木があります。毎朝紫の雲がたなびく霊木です。あの木を使うとよいでしょう」と言って去りました。老翁に教えられた場所に行くと、一本の杉の木があったので、それを伐ってこの地に六角の御堂を建てて護持仏を安置されたと伝えられます。
寺号は紫雲山頂法寺。「六角さん」の名称で、京の町の人々から親しまれています。
587年崇峻天皇即位
次の帝は、崇峻天皇(第三十二代天皇)と申されました。欽明天皇(第二十九代天皇)の第十二皇子でした。母は、稲目大臣(蘇我稲目)の娘、小姉君でした。丁未の年(587)の八月二日に、帝位に即かれました。御年六十七でした。世を治められること、五年。帝位に即かれた明くる年の冬、崇峻天皇は、聖徳太子を呼ばれて、「お主は人相を見ることができるそうだが。われを見てほしい」と申せば、聖徳太子は「たいそうよい相でございます。ただし道理に合わないことで命を危うくされるように見えます。信頼のおけない者を宮中に入れられてはなりません」と申したので、崇峻天皇は「何をもってそう申すのだ」と申せば、聖徳太子は「赤い筋が眼を通っておられましょう。これは傷害の相でございます」と申しました、崇峻天皇が鏡で見てみると、聖徳太子が申した通りでしたので、崇峻天皇はたいそう驚き恐れ入ったということです。
崇峻天皇が殺害される
そして聖徳太子は、人々に「帝(第三十二代崇峻すしゆん天皇)の相は、前世に因果のあることです、変わられることはありません」と申しました。崇峻天皇三年(590)と申す十一月に、聖徳太子は御年十九で、元服されました(聖徳太子の生年は574で計算が合わない)。崇峻五年(592)の二月に、崇峻天皇は忍んで聖徳太子に申すには、「蘇我大臣(蘇我馬子)が、内裏においては思うままに振る舞い、外には偽りで飾り、仏法を崇めるようにはみえるが、心は正しいものではない。どうすべきか」と申せば、聖徳太子は「このことは誰にも申さないでください」と申しました、十月に猪を献上しましたが、崇峻天皇はこれをご覧になられて、「いつか猪の首を斬るように、我が嫌う者を人の首を断ち斬って命を失いたいものよ」と申したので、聖徳太子はたいそう驚いて、「世の中の大事は、このお言葉より起こりましょう」と申して、急ぎ内宴([内々の宴])を行ない、人々に禄([褒美])などを与えて、「今日、崇峻天皇が申されたことは、決して他言するではない」と申しましたが、誰が漏らしたのか、蘇我大臣(蘇我馬子)に、「崇峻天皇がこのようなことを申されました」と話したので、馬子は我が身のことを申したのだと思って、崇峻天皇を亡き者にしようと企んで、東漢駒という者に命じて、十一月三日、崇峻天皇を殺害しました。
宮内の者は驚き騒ぎました、蘇我大臣(蘇我馬子)が、犯人(東漢駒やまとのあやのこま)を捕えさせたので、人々は馬子の仕業だと知って、何も言うことはありませんでした。馬子は、駒を誉めて様々の物を与えて、我が家の内に、女房などの中にも遠慮なく出入りさせ、心のままにさせていましたが、大臣の娘を忍んで犯しました。馬子はこのことを聞いて、たいそう怒って、髪を掴むと木に掛けて、自ら駒を射ました。「お前は愚かなる故に、帝(第三十二代崇峻すしゆん天皇)を殺めた」と言って矢を放つと、駒は叫んで「わたしはその時帝であるとは知りませんでした、知っていたのは大臣(馬子)だけです、大臣が殺せと申したのではありませんか」と言ったので、馬子はこの時ますます怒って、剣を持って腹を割き、頭を斬りました。大臣の悪心はますます世間に広まりました。
592年 推古天皇即位
次の帝は、推古天皇(第三十三代天皇)と申されました。欽明天皇(第二十九代天皇)の娘でした。母は、稲目大臣(蘇我稲目)の娘、蘇我小姉君でした。壬子の年(592)の十二月八日に、帝位に即かれました。御年三十八でした。世を治められること、三十六年。帝位に即かれて明くる年の四月に、推古天皇は「我が身は女人です。心にものを悟ることはありません。世の政は、聖徳太子がなさいまし」と申したので、世の人はよろこびました。聖徳太子はこの時に太子([皇太子])に立たれて、世の政を行いました。その前は皇子と呼ばれていましたが、今、話すことですので、今までも太子と呼んでいたのです。聖徳太子は御年二十二になっておられました。今年四天王寺を難波の荒陵(現大阪市天王寺区)に移されました。元は玉造りの峰(現大阪市中央区)に立っておりました。
土佐から淡路島に流れ着いた沈水香
日本書紀「推古天皇3年(西暦595年)の夏4月、ひと囲いほどの香木(沈香)が淡路島に漂着した。島民は沈香を知らず、薪と共に竈(かまど)で焼いた。するとその煙は遠くまで類い希なる良い薫りを漂わせた。そこで、これは不思議だと思い朝廷に献上した。」(香木伝来伝承地として、淡路島の枯木神社では人の体の大きさぐらいある香木(枯木)をご神体として祀っています。淡路島と縁の深い静御前がよく参拝したと伝えられます。)
推古天皇三年(595)と申す春に、沈が我が国に始めて波に乗って来ました。土佐国の南海に、夜毎にたいそう光る物がありました。その声は雷のようでした、三十日を経て、四月に淡路島の南岸に流れ着きました。太さは人を抱くほどで、長さは八尺(約2.4m)ばかりでした。その香ばしさはたとえようもないほどすばらしいものでした。これを帝(第三十三代推古天皇)に献上しました。島人には何か分かりませんでした。多くを薪にしました。これを聖徳太子は見て「沈水香([沈香。ジンチョウゲ科])と申すものです。この木を栴檀香(栴檀は、センダン科)と言います。南天竺の南の海の岸に生えています。この木は冷たくて、夏になれば、多くの蛇がまとわり付きます。その時、人は栴檀の生えている場所へ住き向かい、その木に矢を射立てて、冬になって、蛇が穴に篭った後、射立てた矢を印にて、これを取ります。その実は鶏舌香。その花は丁子(丁子は、フトモモ科)。その油は薫陸([インド、イランなどに産する樹脂が固まって石のようになったもの])。中でも樹齢の長いものを沈水香といいます。そうでないものは浅香といいます。推古天皇が、仏法を崇められているために、釈梵([帝釈天と梵天。ともに仏教の守護神])が威徳をもって
海に浮かべ送られたのでしょう」と申しました。推古天皇はこの木で観音菩薩を造り、比蘇寺(かつて現奈良県吉野郡大淀町にあった寺らしい)に安置されました。時々光を放ちました。
太秦 広隆寺の弥勒菩薩
推古天皇六年(598)と申す四月に、聖徳太子は良い馬を探させましたが、甲斐国より黒馬で四本の足が白い馬が献上されました。聖徳太子は多くの馬の中からこの馬を選び出して、九月にこの馬に乗り、雲の中に入り、東を指して行きました。麻呂という者がこの馬の右方に取り付いて、雲に入って行ったので、これを見る者は驚きびっくりしましたが、三日後に帰って来て、「わたしはこの馬に乗りて、富士山に着いて、信濃国を回って帰って来たのだ」と申しました。推古天皇十一年(603)の十一月に、聖徳太子が持っていた仏像を「この仏を、誰か崇めたいと思う者に差し上げよう」と申したので、秦河勝が進み出て申し請けて、賜わりました、秦河勝は蜂岡寺を造って、この仏像を安置しました。この蜂岡寺と申すは、今の太秦寺(現京都市右京区太秦にある広隆くわうりゆう寺)のことです。仏は弥勒菩薩と聞いております。
600年 倭王の多利思比孤と太子の利歌彌多弗利
「隋書 倭国伝」 開皇二十年(600年 推古八年)、倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩?彌、遣使を王宮に詣でさせる。上(天子)は所司に、そこの風俗を尋ねさせた。
王の妻は雞彌と号し、後宮には女が六~七百人いる。太子を利歌彌多弗利と呼ぶ。
橘寺を作る
推古天皇十四年(606)と申す、七月に帝(第三十三代推古天皇)が「我が前で勝鬘経([大乗経典。在家得道の信仰を示した経典として重要なものらしい])の講釈をしてください」と申したので、聖徳太子は、師子([仏])の床に上り三日講釈を行いました。その有様は、まるで僧のようでした。すばらしい講釈でした。おじいさんが庭で聴聞していました。果て(最後)の夜のことと思います。蓮の花の大きさが二三尺(約6〜9cm)ほどあるものが、空より降りました、不思議なことでした。帝(第三十三代推古天皇)はその場所に、寺を建てられました。今の橘寺(現奈良県高市郡明日香村にある寺)です。推古天皇十五年(607)の五月に、聖徳太子は推古天皇に申すには、昔持っていた経が、唐土の衡山(中国湖南省衡陽市にある山。道教の五岳の一)という申す所にあります。取り寄せて、我が国に渡来した経に間違いがないか確認したいと申したので、小野妹子を七月に唐土へ遣わしました(遣隋使)。明くる年の四月に妹子は、一巻の法華経を持って帰りました。九月に聖徳太子は斑鳩宮の夢殿(現奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺夢殿)に入り、七日七夜出てきませんでした。八日目の朝に枕上に一巻の経がありました。聖徳太子が申すには、「この経こそ我が前世に持っていた経でございます。妹子が持って帰ったのは、わたしの弟子の経です。この経には三十四の文字があります。今世の中に広まっている経にはこの文字はありません」と申しました。
聖徳太子亡くなる
推古天皇二十九年(621)の二月二十二日に、聖徳太子は、亡くなりました(聖徳太子の没年は推古天皇三十年(622)らしい)。御年四十九でした。帝を(第三十三代推古天皇)始め、一天下の人は、まるで父母を亡くしたように悲しみました。ほとんど聖徳太子の話は、万が一を申したところで、初めて聞くことでもないでしょうが、りっぱであられたことは皆人が知るとことでもありますが、繰り返し申しました。聖徳太子が世に出てこられなかったなら、暗いこの世はますます暗いものとなっていたことでしょうし、永遠に仏法の名字を聞くことはなかったでしょう。天竺より唐土に仏法が伝わって三百年経って、百済国に伝わり、百年後に、我が国へ渡来しました。その時、聖徳太子の力がなければ、守屋(物部守屋)が邪見に、我が国の人は従っていたことでしょう。推古天皇三十四年(626)の六月には大雪が降りました。
推古記
推古元年四月 聖徳太子を皇太子とする。太子に全権委任。
推古二年二月 天皇、皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。
諸臣連等、寺を造る。
推古三年七月 筑紫に駐屯していた将軍等が帰還。
推古五年四月 百済王、王子阿佐を遣わして朝貢する。
推古五年十一月 吉士磐金を新羅に遣わす。
推古六年四月 磐金、新羅より至りて、鵲(かささぎ)二隻を献上。
推古六年八月 新羅、孔雀一隻を貢れり。
推古七年四月 地動りて舎屋悉に破(こわ)たれぬ。則ち、地方に令して地震の
神を祭らしむ。
推古七年九月 百済、駱駝一匹、驢馬一匹、羊二頭、白雉一隻を貢れり。
推古八年二月 新羅と任那相攻む。天皇、任那を救わんと欲す。
推古八年是歳 境部臣を大将軍とし、穂積臣を副将軍として、万余の衆(兵)を持
て、任那のために新羅を撃つ。船で新羅に直行し、五つの城を
攻略する。新羅王、降伏し、六城を割譲。(日本軍が獲得した五城
も含めるか)将軍等が詮議して「新羅、罪を知りて服う。強いて撃
たんは可(よ)くもあらじ」と奏上する。難波吉師神を新羅に、難波
吉士木蓮子を任那に派遣。両国、誓紙をだすも日本軍が新羅より
退却すると、新羅は亦任那を侵した。
推古九年二月 皇太子(聖徳太子)、宮室を斑鳩に興る。
推古九年三月 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手を百済に派遣し「急に任那を
救え」と詔す。
推古九年五月 天皇、耳梨の行宮に滞在。大雨が降り川の水が宮庭にあふれた。
推古九年九月 新羅の間諜・迦摩多、対馬で捕まる。上野に流す。
推古九年十一月 新羅攻撃を決定。
推古十年二月 来目皇子を持って新羅を撃つ将軍とする。軍衆二万五千人を授く。
推古十年四月 来目皇子、筑紫に到る。大型船で兵糧を運ぶ。
推古十年六月 大伴連囓、坂本臣糠手、ともに百済から帰国。
この時、来目皇子、病に臥して征討を果たさず。
推古十年十月 百済の僧、観勒が来訪。
暦の本、天文地理の籍、遁甲方術の書を持参。暦法を陽胡史の
祖玉陳(たまふる)が学び、天文遁甲を大友村主高聡が学び、
方術を山背臣日立(ひたて)が学ぶ。
遁甲 九星の運行循環により運気を占う、と。今のホロスコープか。
方術 占候医卜と言う。総合占いのことか。占は陰陽による占い、
候は天気予報、医は治療行為、卜は亀卜による卜占か。
学んだ人たちは業を習得しその道の大家になったという。
推古十一年二月 来目皇子、筑紫にて薨ぬ。
推古十一年四月 来目皇子の兄、当摩皇子を以て新羅征討軍の将軍とする。
推古十一年七月 当摩皇子の妻・舎人姫王、赤石に薨せぬ。当摩皇子、帰還。
推古十一年十月 小墾田宮へ遷都。
推古十一年十一月 皇太子(聖徳太子)、所有する仏像を秦造河勝に与え、河勝、
蜂岡寺(今の広隆寺)を造る。
推古十一年十二月 冠位十二階を制定。
推古十二年正月 初めて冠位を諸臣にたまう。
推古十二年四月 憲法十七条を制定。
推古十二年九月 黄書画師、山背画師を定。
推古十三年四月 天皇、皇太子以下諸王、諸臣、鞍作鳥に銅と繍の丈六の仏像
を各々一躯を造るを命ず。高麗国の大興王、それを聞き、黄金
三百両を貢上。
推古十四年四月 丈六の仏像、完成。丈六の銅像を元興寺の金堂に坐せしむ。
是歳 この頃、皇太子は経典解説の講師をしているもののよう。
推古十五年二月 壬生部を定む。壬生部とは皇子女のための部。
推古十五年七月 小野臣妹子、隋(紀では大唐という)に派遣。鞍作福利を通事
とす。是歳 倭国、山背国、河内国に池、堀等を造る。
推古十六年四月 小野臣妹子、帰国。隋(紀では唐国という)では、妹子を蘇因高
という。
隋の使者裵世清ほか十二人が筑紫に来訪。接遇役、難波吉士雄成を遣わす。
推古十六年六月 裵世清等 難波津に到着。新館に泊める。接遇役、中臣宮地連烏摩呂ほか。
妹子臣、隋(紀では唐)の帝から書を授けられたが、途中、百済
にて掠み取られた、と。群臣、議りて曰く、職務怠慢、と。流刑
としたが、天皇が大国の客の手前、赦す、と。
推古十六年八月 裵世清等京に入る。大唐の国の信物を庭中に置く。裵世清、
親書を提出。
推古十六年九月 裵世清等を難波で接遇、裵世清、帰国。小野妹子大使、
吉士雄成小使、福利通事等を唐の客に副えて遣わす。
学僧等八人が随行する。
是歳 新羅人、多く来訪。
推古十七年四月 筑紫太宰「百済僧道欣、恵弥、首として僧十人、俗人七十五人
肥後国葦北津に泊まれり」難波吉士徳摩呂、船史竜を遣わし
問わしむ。
「百済王の命により呉国に行こうとしたが、其の国に乱ありて、
入れず。帰国しようとしたが暴風に逢い、日本に漂着した」と。
推古十七年五月 徳摩呂らが同行して、百済に帰ろうとしたが、途中、対馬にて
十一人の僧が日本に留まりたいと願い出て元興寺に住まわ
せた。
推古十七年九月 小野妹子等帰国。但し、通事福利のみ帰国せず。
推古十八年三月 高麗王、僧曇徴、法定を貢上。
曇徴は五経に通じ、絵具、紙、墨を作り、水臼を造る。
推古十八年七月 新羅使人と任那使人が筑紫に到る、また、十月に京に到る。
(二人は何のために来たのか全く不明)
推古二十年二月 皇太夫人堅塩媛の改葬。
是歳 百済から来訪者あり。その面身まだらなり。異形をにくみて海中の
島に棄てようとしたが、彼が「いささかなる才あり。能く山岳の形を
構く」と。依って須彌山の形及び呉橋を御所の庭に構けと命ず。
彼を路子工と言った。また、百済人味摩子来訪、呉に学びて伎楽
(くれがく)の舞を得たり」といい、少年たちを集めて伎楽の舞を習
わせた。
推古二十二年六月 犬上君御田鍬・谷田部造を大唐(隋)に遣わす。
推古二十二年八月 蘇我馬子、病に臥す。大臣のため男女併せて千人が出家。
推古二十三年九月 犬上君御田鍬・谷田部造、帰国。百済の使い人、同道。
推古二十四年三月 この頃より掖玖(今の屋久島)人、来訪多し。
推古二十六年八月 高麗の使者、方物を貢る。使者曰く「隋の煬帝が三十万の兵を興して高麗を攻めた。しかし、煬帝は我が軍に破られてしまった。依って、捕虜二人と諸々の貢ぎ物を献ずる」と。是歳 河辺臣、安芸国にて舶を造る。河辺臣が大木を伐ろうとしたら、地元の人が「雷神の木だから伐るべからず」と。
推古二十八年是歳 皇太子と馬子がともに議りて、天皇記及び国記等を録す。
推古二十九年二月 皇太子(聖徳太子)、斑鳩宮に薨りましぬ。
是歳 新羅、初めて使者に書(ふみ)を表(たてまつ)る。(新羅には外交文書という概念が無かったのか)
推古三十一年七月 新羅・任那から大使等が来朝。同時に大唐の学者・医者が同道。曰く「唐国に留学した人たちは、皆、学びて業成した。喚すべし。また、大唐国は法式備わり定まれる国なり。常に達うべし」と。
是歳 新羅、任那を伐つ。天皇、将に新羅を討たんとす。先ずは、外交交渉で、吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣したが、二人が帰国しないうちに、境部臣雄摩侶以下数万の大軍を派遣し、新羅を征討す。しかし、新羅王は大軍を恐れ服属を申し入れ、将軍たちが協議して、天皇に奏上。天皇、聴るす。
推古三十一年十一月 磐金・倉下等、帰国。大臣に状況を報告。大臣は「悔しきかな、早く師(いくさ)を遣わしつること」と。うわさでは
「この軍事は、境部臣・阿曇連、先立ちて、多(さわ)に、新羅の幣物(まいない)を得しがゆえ」と。
推古三十二年十月 蘇我馬子大臣、葛城県の割譲を求めたが、天皇、聴(ゆる)したまわず。
推古三十四年五月 蘇我馬子大臣、薨せぬ。是歳 三月より七月に至るまで霖雨(ながめ)降る。天の下、大きに飢う。
推古三十六年二月 天皇、臥病したまう。
三月二日 日蝕があった。
三月七日 天皇、崩御。
九月 天皇、群臣に遺詔して「此の年、五穀登らず。百姓大きに飢う。
それ朕が為に陵を興てて厚く葬ること勿。便に竹田皇子の陵に
葬るべし」と。