歴代皇后の出自と有力氏族

『古事記』において皇族出身の皇后の出自が、父である天皇の系譜で明らかでないのは、春日大娘皇女のほかは、宣化天皇の皇后・橘仲皇女のみである

1.神武  皇后 媛蹈鞴五十鈴媛命  三輪大物主神(スサノオの子孫大国主)と勢夜陀多良比売の娘である。

媛蹈鞴五十鈴媛命(紀) 事代主の女

  天皇との子は、上から順に、日子八井命、神八井耳命、綏靖天皇である。
物部連の遠祖の宇摩志麻治命
『石上神宮』縁起

神武天皇東征のおり、国土平定に偉功をたてた霊剣(平国之剣=フツノミタマ)とその霊力を布都御魂大神と称し、また饒速日命降臨に際し、天神から授けられた鎮魂の主体である天璽瑞宝十種と、その起死回生の霊力を布留御霊大神と称し、この二神を物部連の遠祖の宇摩志麻治命をして宮中に奉斎せしめた。
布都(フツ)=スサノオの父、布都斯(フツス)=スサノオ、布留(フル)=ニギハヤヒ。このスサノオ家三代を祀った宗廟が石上坐布留御魂神社(石上神宮)である

2.綏靖 皇后  河俣毘売(記)

 天皇との子は師木津日子玉手見命  師木縣主の祖 河俣毘売と結婚して、師木津日子玉手見命を生みます。父は古事記では美和の大物主神としています。

五十鈴依媛命(紀) 事代主の次女、母は、五十鈴依命

  
3.安寧  皇后 皇后 阿久斗比売(記)師木県主波延(ハエ)の女である。

安寧天皇(あんねいてんのう、綏靖天皇5年 – 安寧天皇38年12月6日)は、日本の第3代天皇(在位:綏靖天皇33年7月15日 – 安寧天皇38年12月6日)。和風諡号は、『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)」、『古事記』では「師木津日子玉手見命」。

磯城氏の皇后

阿久斗は摂津芥川に由来するとみられるから、これも葉江宗家の女という伝承を傍証する。

日本書紀では、皇后は渟中底姬命といい、天日方奇日方命の娘

なお、『古事記』での皇后は、師木県主波延の娘 阿久斗比売、 『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛、第2の一書での皇后は大間宿禰の娘である糸井媛。

日本書紀では、渟名底仲媛命は、安寧天皇の皇后。息石耳命と懿徳天皇と磯城津彦らの生母。

『日本書紀』本文での皇后。渟名襲媛とも。『事代主の子鴨王の娘。母は不明。安寧3年に皇后になる。 『先代旧事本紀』では「三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美良姬 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底姬命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子彥耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津彥命 次 手研彥奇友背命也」とあり渟中底姬命といい、天日方奇日方命の娘。

なお、『古事記』での皇后は、師木県主波延の娘 阿久斗比売、 『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である川津媛、第2の一書での皇后は大間宿禰の娘である糸井媛。

4.威徳 皇后      賦登麻和訶比売(飯日比売) 磯城県主太眞稚彦の娘

皇后は磯城県主の娘

天豊津媛命は、懿徳天皇の皇后。孝昭天皇と武石彦奇友背の生母。『日本書紀』本文での皇后で、息石耳命の娘。

なお『古事記』での皇后は、師木県主の祖である賦登麻和訶比売(飯日比売)、『日本書紀』第1の一書では磯城県主葉江の男弟猪手の娘である泉媛、第2の一書では磯城県主太眞稚彦の娘である飯日媛である。

5.孝昭 皇后 余曾多本毘娘 尾張連祖奥津余曾の妹

日本書紀では 世襲足媛(よそたらしひめ)は、孝安天皇と天足彦国押人命の生母。
『日本書紀』本文では尾張連祖瀛津世襲の娘である世襲足媛である。
なお『日本書紀』第1の一書での皇后は、磯城県主葉江の娘である渟名城津媛、第2の一書では、倭國豊秋狭太媛の娘である大井媛。

6.孝安 皇后 孝安天皇の姪の忍鹿比売

日本書紀には、皇后は押媛。

押媛(おしひめ)は、孝霊天皇と大吉備諸進命の生母

『日本書紀』本文の皇后で天足彦国押人の娘かつ孝安天皇の姪である。『日本書紀』第1の一書での皇后は磯城県主葉江の娘である長媛、第2の一書での皇后は十市県主五十坂彦の娘である五十坂媛。

皇子であった孝霊天皇自らが伯耆国に出発。兄の大吉備諸進命を吉備国へ、長女の3歳になる倭迹迹日百襲姫を讃岐へ派遣した。

  

7.孝霊 皇后 細比売 十市県主祖大目の娘である

孝霊53年、兄の大吉備諸進命の二人の子である兄稚武彦と弟稚武彦を先に山陽道に派遣し、自らは讃岐国経由で吉備国に入った。

日本書紀に、細媛命は、孝元天皇の生母。
『日本書紀』本文における皇后で、磯城県主大目の娘
なお、『日本書紀』第1の一書での皇后は春日千乳早山香媛(かすがのちちはややまかひめ)。第2の一書の皇后は十市県主等の祖である真舌媛(ましたひめ)。

孝霊天皇の妃に大倭玖迩阿禮比賣命(記では意富夜麻登玖邇阿礼比売命)がいる。三代目安寧天皇の子師木津日子の子和知津美命の娘であり、和知津美命は淡道(淡路島)に宮を置いた。淡路の大倭と言えば、式内社の大和大國魂神社が鎮座、この大和に縁の名だろうか。

細媛命は孝霊天皇の御后にて國牽(クニクル)皇子、即ち第八代孝元天皇の御母にあたり、磯城県主大目命の女なり。

8.孝元 皇后 内色許売命 内色許男命の妹。また、倭迹迹姫命の代わりに少名日子建猪心命(少彦男心命)と生んだとしています。大彦命、少彦男心命、開化天皇の母 。

古事記では、
内色許売命を娶して生みましし御子、大毘古命、次に少名日子建猪心命、次に若倭根子日子大毘々命。三柱。また内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶して生みましし御子、比古布都押之信命。また河内青玉の女、名は波邇夜須毘売を娶して生みましし御子、建波邇夜須毘古命。一柱。

日本書紀に、欝色謎命は、孝元天皇の皇后。父は大矢口宿禰命(大水口宿禰命とも)で、母は坂戸由良都姫。同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいる。大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)。

欝色謎命は、倭迹迹姫命、大彦命、少名日子建猪心命、開化天皇を生む。

  

9.開化 皇后 伊迦賀色許売命、父は大綜麻杵命、母は高屋阿波良姫(記)

伊香色謎命は、孝元天皇の妃、開化天皇の皇后。古事記には伊迦賀色許売命とある。父は大綜麻杵命で、母は高屋阿波良姫。同母兄に伊香色雄命がいる。彦太忍信命(父は孝元天皇。武内宿禰の祖父(記では父)。磐之媛命の高祖父(記では曾祖父))・崇神天皇(父は開化天皇)の母。
孝元天皇2年(前213年)、孝元天皇の妃となった。開化天皇6年1月14日(前152年2月25日)、亡夫孝元天皇と叔母(伯母)・皇后欝色謎命の皇子である開化天皇の皇后となった。崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)、崇神天皇の即位と同日に皇太后となった。

夫:孝元天皇   子:彦太忍信命

夫:開化天皇子:崇神天皇・御真津比売命  孫:垂仁天皇(崇神天皇の皇子)・八坂入彦命(崇神天皇の皇子。八坂入媛命の父)

和邇氏
丸邇臣(わにのおみ)の祖、日子國意祁都命(ヒコクニオケツノミコト)の妹、意祁都比賣命が開化天皇(カイカテンノウ)の妃となり、日子坐命を生んだ。

10.崇神 皇后 御真津比売(御間城姫) 父は大彦(孝元天皇の子)

阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、「活目入彦五十狭茅命」という。

御間城姫(みまきひめ、生没年不詳)は崇神天皇の皇后。父は大彦命。垂仁天皇の母。
「日本書紀」によれば,崇神天皇元年皇后にたてられた。それ以前に垂仁天皇,彦五十狭茅命,国方姫命,千千衝倭姫命,倭彦命,五十日鶴彦命を生んだという

父の大彦命は、崇神天皇の父開化天皇の兄(孝元天皇の第一皇子)なので(実際、古事記(武埴安彦の乱の条)では、崇神天皇は大彦命を伯父と呼んでいる)、夫・崇神天皇と従兄妹である。

「御間城姫」と崇神天皇の名「御間城入彦五十瓊殖尊」が同じ「御間城」を含んでおり、また、古事記の開化天皇条には崇神天皇(御真木入日子印恵命)の同母妹に后と同名の「御真津比売命」があることから、二人はもともと同母兄妹の伝承であったのを、記紀編纂時に変えたとの見方もある。

和知都美命(ワチツミノミコト)は、淡道(アハヂ)の御井宮(ミヰノミヤ)に坐しき。 故、この王、二の女ありき。兄の名は蝿伊呂泥(ハヘイロネ)。亦の名は意富夜麻登久邇阿札比売(オオヤマトクニアレヒメノミコト)。弟の名は蝿伊呂杼(ハヘイロド)なり。

檜原神社、大和神社、大神神社

崇神天皇は即位してまもなく疫病が流行り、これを鎮めるため、宮中に祭られていた天照大神と倭大国魂神を皇居の外に移し、更に大物主命を祭った。
天照大神は、現在の檜原神社に移し、その後60年をかけて各地を移動し、次の垂仁天皇の時代に、現在の伊勢神宮内宮に鎮座した。
倭大国魂神も、何度も場所を移動し、最終的に現在の大和神社に鎮座した。
大物主命は占いにより祟りをなしている事が判明したため、大物主の子孫である太田田根子に託して祀らせた。現在の大神神社で、三輪山を御神体としている。

  

11.垂仁 皇后 狭穂姫、彦坐王女(紀) 日葉酢媛、丹波道主命女(紀)
記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命に作る。

『古事記』に見えるように、彦坐王は春日・沙本・山代・淡海・旦波ら諸豪族を血縁で結ぶ地位に位置づけられている。このことから、彦坐王の系譜は和珥氏や息長氏を中心とする畿内北部豪族らにより伝えられたとする説があるほか、そうした畿内北部における広域的な連合政権の存在の暗示が指摘されている。
垂仁天皇朝に見える狭穂彦王(沙本毘古王)の反乱伝承から、「崇神 – 垂仁」に対立する「彦坐王 – 狭穂彦」の皇統があったとする説もある。

12.景行 皇后 播磨稲日大郎姫、稚武彦命女(紀) 八坂入媛、八坂入彦命女(紀)

建稲種命(たけいなだねのみこと)

建稲種公(たけいなだねのきみ)とも称す。父は尾張国造乎止与命(オトヨ)、母は眞敷刀婢命(マシキトベ、尾張大印岐の女)で、宮簀媛は妹。妃玉姫(丹羽氏の祖大荒田命(オオアラタノミコト)の女)との間に二男四女。息子尻綱根命(シリツナネノミコト)は、応神天皇の大臣。その下の娘志理都紀斗売は五百城入彦皇子(景行天皇皇子)の妃で、品陀真若王の母。更にその下の娘金田屋野姫命(カネタヤネノヒメノミコト)は品陀真若王の妃で、応神天皇の皇后仲姫命及び2人の妃の母。

景行天皇と成務天皇の二代の間、朝廷に仕え、ヤマトタケル東征の際、副将軍として軍を従え、軍功を挙げたとされる。熱田神宮・内々神社・羽豆神社・成海神社・尾張戸神社・八雲神社などに祭られている。

13.成務 皇后

吉備氏と穂積氏から妃を迎える。

妃:弟財郎女(おとたからのいらつめ。穂積氏の遠祖・建忍山垂根の女)

和謌奴気王(わかぬけのみこ)を生む

妃:吉備郎姫(稚倭根子皇子の女。天皇の姪)

14.仲哀 皇后 気長足姫、気長宿禰王女(紀)
皇妃 大中比売命 おおなかひめのみこと

  • 大江王(景行天皇と訶具漏比売の子)と銀王の子
  • 書記では景行天皇皇子の日子人之大兄王の娘という
  • 仲哀天皇の妻となり香坂王、忍熊王を生む

彦人大兄命(ひこひとおおえのみこと)または大江王は、古墳時代の皇族。景行天皇の皇子で、母は伊那毘若郎女(稚武彦命の女)。真若王という同母兄がいる。『古事記』では、母は迦具漏比売とされる。しかし、彼女は大江王の異母兄日本武尊の曾孫に当たり、景行天皇は直系の卑属を娶ったことになる上、景行天皇が長寿であれば一応理論上は不可能ではないものの年齢的にかなり無理がある(現に、『日本書紀』では応神天皇の妃となっているし、『古事記』でも彼の名前の重複が認められる)ことから誤記と思われる。異母妹の銀王(しろがねのみこ)を娶り大中姫(甥の仲哀天皇妃)等を儲けた。

15.応神 皇后 仲姫、品陀真若王女、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)(紀)

仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。因みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。

応神朝の大臣は建稲種命の息子尻綱根命(シリツナネノミコト)

応神天皇は、尾張氏の建稲種命の娘を皇后に、和邇氏の和珥日触使主の娘を皇妃に迎えている。

宮主宅媛【みやぬしのやかひめ】.<宮主矢河比売(古事記)>

15代応神天皇の妃。和珥日触使主の娘。所生の皇子女

菟道稚郎子皇子(応神天皇皇太子)、 八田皇女(仁徳天皇后)、雌鳥皇女(隼別皇子妃)

袁那弁郎女(古事記)   応神天皇の妃。

和珥日触使主の娘。宮主宅媛の妹。

所生の皇子女

菟道稚郎姫皇女(仁徳天皇妃)

「応神天皇の妃兄媛は吉備出身であった。天皇が淀川べりの大隅宮に居た時、兄媛が故郷を懐かしく思い、吉備へ
帰りたいと言うので許可した。ところが、天皇は兄媛が恋しくなって、吉備に出向き、葉田の葦守宮に逗留した。兄媛の兄の御友別は、膳夫として饗宴を行なった。
天皇は大いに悦び、吉備国を割いて、御友別の一族それぞの御友別は一族を挙げて天皇を歓待し、帰順の意を表した。

16.仁徳 皇后 磐之媛、葛城襲津彦女(紀) 八田皇女、応神天皇女、母は和邇氏の宮主宅媛(紀)

葛城氏と和邇氏から皇后が出ている。磐之媛は葛城襲津彦の娘、八田皇女は、和珥日触使主の孫

履中朝から雄略朝まで、草香部氏が皇妃を擁立している。五世紀中葉以降、皇妃の家柄は唯一草香部氏である。継体の元妃、「尾張連草香の女、目子媛」という時の草香もやはり草香部氏であろう。

(履中)草香幡梭皇女
(允恭)忍坂大中姫
(安康)中蒂皇女(長田大娘皇女)=大草香皇子の妻
(雄略)草香幡梭姫皇女

仁徳天皇の大后、石之日女は、自分の留守中に仁徳天皇が妹八田若郎女と婚(まぐは)いしたことを知り、嫉妬して難波から淀川、木津川を遡り、山代から葛城(かづらき)の高宮(たかみや)へ行こうとして、一時、筒木(つつき)で奴理能美(ヌリノミ)の家に入った。その時、仁徳天皇が石之日賣をなだめるために歌を送ろうと、丸邇臣(わにのおみ)口子(クチコ)を遣わした。

17.履中 皇后 草香幡梭皇女、応神天皇女(紀)

飯豊青皇女
葛城市忍海。飯豊青皇女がこの地に宮殿を置いたのは、母方葛城氏だったためらしい。飯豊天皇陵の所在地は同市北花内。全長90㍍の前方後円墳。築造は6世紀前半。
飯富王、青梅皇女、忍海郎女王、忍海郎女など、さまざまな呼び方がある。青皇女は履中天皇の娘で、母は葦田宿衝 (損城襲津彦の子)の娘の黒媛と言われるが、別伝では市辺押羽皇子の娘で、母は蟻臣(葦田宿衝)の女藻(はえ)媛とも伝えられている。『日本書紀』によれば、清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず、久しく空位が続いたために、飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから臨時に政(まつりごと)をしたとあり、一時は天皇に準ずる地位にあった可能性を伝えている。 記紀では天皇という言葉を使っていないが、『扶桑略記』では「飯豊天皇」としている。
多氏の一族で飯富とか飫富と書かせてオウと読む例が多くあり、飯豊もオウと読むことができることから、谷川氏は飯豊青皇女を多氏と同族であることを暗示するとしている。

18.反正 皇夫人:津野媛(大宅臣の祖和珥木事の女)

反正天皇は、仁徳天皇の第三皇子。母は葛城襲津彦の女・皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)。履中天皇・住吉仲皇子の同母弟、允恭天皇の同母兄に当たる。
皇夫人:津野媛(つのひめ。大宅臣の祖和珥木事の女)

  • 香火姫皇女(かいひめのひめみこ、甲斐郎女)
  • 円皇女(つぶらのひめみこ)

妃:弟媛(おとひめ。津野媛の妹)

  • 財皇女(たからのひめみこ、古事記に財王で男性)
  • 高部皇子(たかべのみこ、古事記に多訶弁郎女で女性)

なお、「皇夫人」と称されたのは史上津野媛ただ一人である。(「皇太夫人」とは異なる。)

皇后を立てなかったのは、成務天皇に次いで史上2人目。

丸邇の許碁登臣(コゴトノオミ)の娘、都怒郎女(ツノノイラツメ)が反正天皇の妃となり、甲斐郎女、都夫良郎女を生んだ。また都怒郎女の妹、弟比賣(オトヒメ)も妃となり、財王(タカラノミコ)、多訶辨郎女(タカベノイラツメ)を生んだ。
19.允恭 皇后 忍坂大中姫、若野毛二俣王女(紀)父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)

忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。
日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。

20.安康 皇后 中蒂姫、履中天皇女(紀)、母は皇后草香幡梭皇女
中磯皇女(なかしのひめみこ)は大草香皇子の妃、のち、安康天皇の皇后。古事記には中蒂姫命(なかしひめのみこと)とある。父は履中天皇、母は皇后草香幡梭皇女(応神天皇皇女)。
はじめ仁徳天皇皇子である大草香皇子の妃となり眉輪王をもうけた。大草香皇子が根使主の讒言がもとで安康天皇により殺されたのち、安康天皇の妃とされ、安康天皇2年1月17日(455年)皇后となった。日本書紀によれば、安康天皇の寵愛は深かったという。安康天皇3年8月9日(456年)、子の眉輪王は実父大草香皇子が母の夫となった安康天皇に殺されたと知り、中磯皇女の膝枕で寝ていた安康天皇を刺殺した。

允恭天皇42年1月に允恭天皇が崩御する。皇太子の木梨軽皇子には近親相姦の前科が有ったために群臣は皆従わず、弟の穴穂皇子の側に付いた。
軽皇子は穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めるが、群臣が離反していく不利な現況を悲嘆して、物部大前宿禰(もののべのおおまえのすくね)の家に潜んだ。穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられたが、軽皇子は自裁した(尚、『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。こうして、穴穂皇子は12月に践祚した。

安康天皇元年、根使主の讒言を信じて大草香皇子(仁徳天皇の皇子)を誅殺し、翌年にその妃であった中蒂姫を皇后に立てた。
同3年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により暗殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56、『帝王編年記』に享年54と伝えられる。皇太子を指名することなく崩御したが、従兄弟の市辺押磐皇子(履中天皇の皇子)を皇位継承者に立てる腹積もりであったとされる。

『書紀』の安康紀は、オシサカ氏、草香部氏、物 部氏という三人の有力な皇位継承者がことごとく排される。
排される理由が、婦女淫行だとか、珠 蔓を横領した人物による讒言だとか、七歳の子どもによる 殺害だという

21.雄略 皇后 草香幡梭姫皇女、仁徳天皇女(紀)

草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、生没年不詳)は雄略天皇の皇后。古事記には若日下(部)王(わかくさかべのみこと)或は波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)とある。父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)。大草香皇子の同母妹。子女は無し。

安康天皇元年(454年)2月以降、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃となった。雄略天皇元年3月3日(457年4月12日)、雄略天皇の皇后に立后された。古代の部民である日下部氏は、この皇后の生活の資用に充てられた料地等の管理に従事した人々とする説があり、各地に配置された屯田兵のような軍事集団でもあったとされる。
古来より、履中天皇の皇后である草香幡梭皇女と同一人物であるとする説もある

吉備上道臣の女稚媛(一本に窪屋臣の女):雄略天皇の皇妃

上道臣田狭の妻となって兄君、弟君を生み、後に雄略天皇の皇妃となって磐城皇子と星川皇子を生み、清寧天皇即位前紀の星川皇子事件において皇子と共に殺される

星川皇子の反乱と吉備の山部

星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ、生年不詳 – 雄略天皇23年(479年))
雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、磐城皇子の弟。雄略天皇の死後に反乱を起こしたという。一般に「稚宮」を省略して星川皇子と呼ばれることが多い。『古事記』は系譜・反乱伝承ともに欠いている。

雄略天皇は吉備上道臣田狭が自分の妻・稚媛の美しさを自慢するのを聞いて、田狭を任那の国司として派遣した後で、稚媛を奪って妃とした。こうして磐城皇子と星川皇子が生まれた。稚媛は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子と稚媛のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺された。吉備上道臣氏は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。清寧天皇はこれを非難して、吉備上道臣が管理している山部を召し上げたという。
なお、滋賀県米原市の朝妻神社には、皇子の墓と称する宝篋印塔がある。

また顕宗天皇元年(485年)4月丁未条には、前播磨 国司来目部小脈が後の仁賢・顕宗両天皇兄弟を発見した功紙により、山官に任ぜられ、山守部の領有を認められた。そして、山部連の氏姓を与えられ、吉備臣を副官とされたとの伝承がある。二つの記事は 密接に関連する内容であり、前者で上道臣から奪った山部を、後者で山部連に与え、吉備臣(上道臣) は改めて副とされたと解釈される。「典金吹く吉備」と はこのような占備の製鉄集団を讃美する言葉と思わ れる。美作国は和銅六年備前国の六郡割いて置かれたものであるが、その国の一の宮中山神社の祭神は、吉備三カ国の場合とは異なり、鏡作神・石凝姥神・天糠戸神であり、鍛冶、採鉱の守護神とされている。(ただし、大日本史は備中の吉備津神社と同神と述べている)。中世には中山大明神、または南宮とも称せられた

雄略天皇(ユウリャクテンノウ)は、丸邇の佐都紀臣(サツキノオミ)の女(むすめ)、袁杼比賣を婚(よば)ひに、春日(奈良県の東部)に幸行した時、媛女(をとめ)に道で逢った

雄略朝では東漢氏は王権の中枢にいる。

『書紀』によれば、 雄略は臨終にあたって、大伴室屋大連、東漢掬直に遺詔し たという。掬は阿知使主の子である。また雄略が愛寵した 人物は、檜隈民使博徳、身狭村主青の二人だったというが、 檜隈は東漢氏が応神より与えられて住んだ土地であり、身 狭も、檜隈の入り口にある土地である。檜隈の人、つまり 東漢氏が雄略王権を動かしている

葛城氏の没落と東漢氏の勃興

葛城韓媛は、葛城氏が雄略に贖罪として入れた姫だとさ れている。しかし葛城氏は、
允恭 葛城玉田宿禰が討たれる
雄略 葛城円大臣が討たれる
という形で二代に渡って勢力が削がれている。葛城氏は雄 略朝頃没落したと見てよい。しかし葛城韓媛の子が清寧(白 髪皇子)であり、清寧が皇位についてからは皇太夫人と呼ばれたとされている

22.清寧天皇 皇后 皇妃なし
清寧天皇の父親は雄略天皇、母親は葛城韓媛

御名の「白髪皇子」の通り、アルビノで生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を縦にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。

安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間飯豊青皇女が執政した。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位3年で崩御した。これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。

22.顕宗 皇后 難波小野王、丘稚子王女(紀)

難波小野王(なにわ の おののみこ、生年不詳 – 仁賢天皇2年(489年)9月)は、顕宗天皇の皇后。難波小野女王とも。古事記には難波王(なにわのみこ)とある。
父は紀に丘稚子王(磐城皇子の子、磐城皇子は雄略天皇の皇子)、記に石木王(磐城皇子と同一人物と考えられる)とある。母は未詳。子女無し。仁賢天皇2年(489年)9月崩御(自殺)。

23.仁賢 皇后 春日大娘皇女、雄略天皇女(紀)

仁賢天皇は、履中天皇の孫、市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)の子。母は荑媛(はえひめ、葛城蟻臣の女)。顕宗天皇の同母兄。(ただし、『播磨国風土記』は母を手白髪命とする。)

『古事記』に春日大郎女、『日本書紀』に春日大娘皇女。雄略天皇皇女、仁賢天皇皇后。母の名は『日本書紀』にのみ和珥氏系統の春日臣深目の娘・童女君とある。『日本書紀』では、仁賢天皇元年2月2日(488年2月29日)に立后し仁賢天皇皇后となった。高橋大娘皇女・朝嬬皇女・手白香皇女(後に継体天皇皇后、欽明天皇母)・樟氷皇女・橘皇女(後に宣化天皇皇后・石姫皇女母)・小泊瀬稚鷦鷯尊、武烈天皇)・真稚皇女を生んだとされる。『古事記』では高木郎女、財郎女、久須毘郎女、手白髪郎女、小長谷若雀命、真若王とある。

『日本書紀』によると、雄略天皇は采女の童女君がたった一夜で身ごもったために、生まれた春日大娘皇女が自分の娘であるかどうかを疑い、養育されなかった。あるとき物部目大連が庭を歩くある少女の姿を見て、天皇の姿によく似ていると述べた。天皇はそれで、彼女の母が一夜で身ごもったのは異常であるため、自分の娘であるか疑っていると答えた。物部目大連は天皇に一夜のうちに何度童女君を召したかを尋ねた。天皇は7度召したと答えた。物部目大連は天皇を諌めて、身ごもりやすい人は褌が体に触れただけで身ごもりますと述べた。そこで天皇は少女を認知し皇女とし、母の童女君を妃とした。z

一方『古事記』にはこの出自の記述が見られず、雄略天皇の段にも母・娘ともに名を欠いており、仁賢天皇の段にやっと皇后として名が挙げられるにとどまる。なお、娘で宣化天皇皇后となった橘仲皇女も『古事記』には宣化天皇は橘中比売命を娶ったとだけ書かれている。したがって日本書紀の記述によってのみ、後に継体天皇の皇后となった手白香皇女の皇后の系統が雄略天皇からの直系であるとの証左を与えることになる。皇后の出自が書かれていない例は春日大娘皇女と橘仲皇女以外には見られない。

物部木蓮子大連

『旧天孫本紀』
物部木蓮子大連 (イタビノオオムラジ)。ニギハヤヒ(饒速日命)十二世の孫。父は布都久留、母は依羅連柴垣の娘の全姫。仁賢天皇の代に大連となり、石上神宮を奉斎し、御大君の祖の娘の里媛を妻にして、二児を生んだ。

丸邇の日爪臣(ヒツマノオミ)の女、糖若子郎女(ヌカノワクゴノイラツメ)が仁賢天皇(ニンケンテンノウ)の妃となり、春日の山田郎女(ヤマダノイラツメ)を生んだ。


24.武烈 皇后 春日娘子
、父母とも不詳(紀)

武烈天皇の父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)らがいる。
皇后:春日娘子(かすがのいらつめ) – 『古事記』に見えず。
皇子女なし
『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある。

25.継体 皇后 手白香皇女、仁賢天皇女、母は春日大娘皇女(紀)

『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確かめて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。
手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年))は、継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。

継体天皇は大和に入る以前、現地で複数の妃(尾張目子媛ほか)をもち沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女とのあいだの皇子である天国排開広庭尊(のちの欽明天皇)が正式な継承者とされていた。

継体天皇の元妃は尾張連草香女、目子媛とされ、この妃 の皇子が安閑天皇・宣化天皇となり皇統を継いでいる
草香目子媛の草香が草香部氏を表す。

26.安閑 皇后 春日山田皇女(仁賢天皇の皇女)

皇妃は、紗手媛、香香有媛、宅媛
安閑天皇の母親は、尾張目子媛。
安閑天皇について、記紀に皇子女の記述はない。『本朝皇胤紹運録』に「豊彦王(とよひこのみこ)」を挙げるが、所拠不明である。
妃:紗手媛(さてひめ。許勢男人大臣の女)
妃:香香有媛(かかりひめ。紗手媛の妹)
妃:宅媛(やかひめ。物部木蓮子大連の女)
宅媛は物部木蓮子の娘で、物部麁鹿火の叔母にあたります。

27.宣化天皇 皇后 橘仲皇女父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女(雄略天皇の皇女)
継体天皇の母親は、尾張目子媛

橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前-没年不詳)は宣化天皇の皇后。古事記には橘之中比売命(たちばなのなかつひめのみこと)とある。父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女(雄略天皇の皇女)。石姫皇女(欽明天皇の皇后、敏達天皇の母)の母。宣化天皇元年3月8日(535年4月25日)に宣化天皇の皇后に立后された。崩御後、宣化天皇陵に合葬された。天皇と合葬された皇后は、他には天武天皇の皇后である持統天皇だけである。
橘仲皇女の同母兄弟:高橋大娘皇女・朝嬬皇女・手白香皇女・樟氷皇女・武烈天皇・真稚皇女

子女 石姫皇女 小石姫皇女 倉稚綾姫皇女 上殖葉皇子 火焔皇子 日影皇女 宅部皇子 他

先先代の娘と結婚したのは何も継体帝一人だけではなかったという話

継体帝が手白髪皇女と夫婦になる前に娶っていた尾張連等祖、凡連(おおしむらじ)の妹、目子郎女(めこのいらつめ)との間に生まれていた二人の皇子にも、それぞれ春日の豪族である和邇氏(わにし)出身の母・祖母を持つ娘たちが嫁いでいたのです。第28代の皇位を継いだとされる宣化天皇(せんかてんのう,467~539)には春日大娘皇女(母は雄略天皇の娘)が生んだ橘仲皇女が嫁入りしており、その子供たちのうち三人までが欽明の后妃になっていますが、其のうちの一人・石姫が産んだ皇子が敏達天皇(びだつてんのう,538?~585)です。