古事記では大山咋神は大年神の子であり、つまり、大己貴(大国主命)=大年神ということになります。
『秦氏本系帳』
初、秦氏女子、出葛野河、澣濯衣裳。 時有一矢、自上流下。
女子取之還来、刺置於戸上、於是女子無夫懐妊、既而生男子也・・・戸上矢者、松尾大明神 是也。
初め秦氏の女子、葛野河に出で、衣裳を灌濯す。時に一矢あり、上より流下す。女子これを取りて遷り来、戸上に刺し置く。ここに女子、夫なくして妊む。既にして男児を生む。・・・戸上の矢は松尾大名神これなり。
多くのサイトで『秦氏本系帳』でも「丹塗矢」が流れてきて云々、と書かれていますが、原文は「一矢」で「丹塗り」とは書かれていません。
ただし、大筋が同じ。
そして同書には、この「秦氏女子」が阿礼乎止女で、生まれた子が都駕布であったと書かれているそうです。「一矢」である松尾大明神の御祭神が大山咋神です。
『秦氏本系帳』には、大宝元年(701)、秦都里(はたのとり)が松尾神社を創建し、養老二年(718)、秦都駕布が初めて祝(はふり)となり、以降秦氏が子々孫々奉斎したと あるようです。
つまり、神(大山咋神)と秦氏女子の間に生まれた神の子、都駕布は、松尾神社の初代神主である、というのが、物語の主旨です。
御祭神の大山咋神は、大年神の子で、母は天知迦流美豆比売。
大年神の両親は、須佐之男命と大山祇神の娘、神大市比売。
妹に宇迦之御魂神がいます。大年神、宇迦之御魂神ともに穀物神です。
古事記には「大山咋神、亦の名は山末之大主神、此の神は近淡海の日枝山に坐す、亦、葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり」とあります。
日枝山とは比叡山だと言われています。「松尾に坐して」とあるので、もともと御霊は松尾山に存在しており、実際に神社が創建されたのが701年ということになります。