稲背入彦は景行帝の「御杖」となって兵主神を祀った。
稲背入彦命の系譜の原型と思われるのは、景行天皇の皇子ではなく、垂仁天皇の女婿で、応神天皇や稚渟毛二俣命(継体天皇の先祖、息長>氏族の祖)等の父であり、針間国造の祖です。讃岐国造は稲背彦命の弟・千摩大別命から出ています。
稲背入彦命-御諸別命-阿良都 [播磨国造]
近江野洲の兵主大社
縁起:当社は大国主神の異名、八千矛神を祀り「つわものぬし」と呼称する。その鎮座は大国主神、天孫の勅に応じて皇御孫命に国土を譲られた時に、御杖とされた広矛を授けられてより宮中に「国平御矛」として御鎮祭になったが、景行天皇御矛の神威をかしこみ宮城近き穴師に神地を占し兵主大神と仰ぎ、皇子稲背入彦尊(日本武尊の弟)をしてこれを祀らしめた。後、景行天皇が近江国滋賀郡に遷都される時、同皇子が社地を宮城近き穴太に求められ、部属を率いて遷し祀られた。後、欽明帝の御代、播磨別等(兵主族の祖先)琵琶湖上を渡り東に移住するに際し、再び大神を奉じて今の地に鎮祭し、御神徳を仰ぎ、稲背入彦尊を乙殿神と崇め同境域に祀り神主(氏上)の祖神と仰いだ。
大和の日代宮近くに穴師坐兵主神社を創始したのも稲背入彦皇子だと云うことになります
景行紀四年条には、妃の五十河媛が神櫛皇子(讃岐国造の始祖)・稲背入彦皇子(播磨別の始祖)の生母と見えますが、神櫛王は景行記に小碓命(倭建命)の同母弟と見えて、記紀が合致しません。景行記に、神櫛王は宇陀酒部等の祖とあることで、宇陀の御杖君につながります。
古事記
この天皇(景行)、針間之伊那毘能大郎女を娶して生みませる御子、櫛角別王、次に大碓命、次に小碓命、次に倭根子命、次に神櫛王なり。
神櫛王は、木国の酒部の阿比古、宇陀の酒部の祖なり。 櫛角別王は茨田の下の連らの祖なり。
国造本記: 讃岐国造 応神天皇の御世に、景行天皇の子・神櫛王の三世孫、須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定められた。
新撰姓氏録
讃岐公 (右京皇別) 大足彦忍代別天皇(景行帝)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
酒部公 (和泉国皇別) 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
羽咋公 (右京皇別) 垂仁天皇皇子、磐衝別命の後なり。亦名、神櫛別命なり。続日本紀に合えり。
【由良・清水神社】
清水神社 祭神 神櫛明命
由緒
景行天皇五十四年(784)の創祀と言う。古くは好井社・由良明神・正一位清水大明神と奉称せらる。『全讃史』によれば、「景行天皇の皇子神櫛王封を山田郡に受け屋島の下に止り給ふ。千摩命・能摩命(須米保禮命)・森葉摩命・大別命・古美大人を経て油良大人封を山田郡油良に移す油良氏の祖なり。」
大鳥羽衣浜神社
祭神:両道入姫皇女
説 明:境内看板を転載
「謹みて惟みるに創祀せられしは、文武天皇の御代にして、慶雲三年鎮座、延喜式内の古社であります。古くより井戸の守大明神と申し上げ、尊崇せられてまいりました。
住 所:大阪府高石市羽衣5-2-6
この神社は堺市にある大鳥大社の摂社にあたる
御祭神、両道入姫皇女は、大和武尊の后で、仲哀天皇を生んでお られます。 古事記では、「布多遅の伊理毘売」と表記され、垂仁天皇の女とされてます。 生んだのは、帯中津日子お一方とされています。 ちなみに、同じく倭建命の妻に、「布多遅比売」という名が見え、この姫は、近江安国造の祖・意富多牟和気の女。御子は稲依別王一方、日本書紀によれば、「日本武尊は、両道入姫皇女を妃とし、稲依別王・足仲彦天皇・布忍入姫命・稚武王を生まれた。」としていますので、古事記にある、「布多遅の伊理毘売」と「布多遅比売」 は、同一人物なのかもしれません。 ヤマトタケル命は、天皇となっていませんから、両道入姫皇女がよほど有力 だったのでしょうか。
南海治乱記
鷲住王は履中の帝の皇后の兄なり。父を喪魚磯別王と云う人なり、腕力あり軽捷にして遠く遊び、帝しばしば召せとも応ぜず。摂津・住吉また阿波内喰にあり。一男野根命を生む後、讃岐富熊郷に居住し、多くの少年之に従う。薨して飯山西麓に葬る。里人祠を建て、之を奉す。飯山大権現また力山大明神とも称す。飯山(讃岐富士)山麓の坂本神社に石碑あり。
景行天皇─ー神櫛別命(神櫛王)──千摩大別礼命─〔讃岐国造〕須売保礼命─ー鮒魚磯別王──鷲住王──田虫別乃君──吉美別乃君──油良主乃乃君
景行天皇(稲日大郎姫)ー日本武尊(妻 両道入姫) ー稲依別王・足仲彦天皇(仲哀天皇)・布忍入姫命・稚武王
『旧事』稲依別王(いなよりわけのきみ)。犬上君、武部君らの祖。
『旧事』稚武王(わかたけのみこ)。近江建部君の祖、宮道君の祖。
彦坐命―水之穂真若王―大多陀牟夜別ー両道入姫 であり、日子坐王の曾孫が両道入姫。(ホツマツタエ)
吉備津彦 ー 吉備武彦 ー 穴戸武媛 (日本武尊の内妻) ー 武卵王、十城別の兄弟
『書記』武卵(たけかいご)王。 讃岐綾氏の祖。『旧事』武卵王(たけかいこのみこ)。讃岐綾君らの祖。
景行天皇(稲日大郎姫)ー日本武尊(妻 弟橘姫) ー稚武彦、稲入別命、蘆髪蒲見別王、健貝児王(または武殻王)、息長田別王、五十目彦王、伊賀彦王の7子をもうける
弟橘姫。
タジマモリとハナタチバナ姫の娘。タジマモリの死後、オシヤマ(穂積押山宿禰)が養父となる。
『旧事』五十目彦王命(いめひこのきみのみこと)。讃岐君らの祖
『旧事』息長田別命(おきながのたわけのみこと)。阿波君らの祖
日本武尊の系図 日本書記
日本武尊ははじめに両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女(ひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)が生まれました。
この中の第一子の稲依別王は犬上の君、武部の君の二つの族の始祖です。
日本武尊は又、吉備の武彦の娘、吉備の穴戸の武姫を妃として、武卵王(たけかひごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)が生まれました。
兄の武卵王は讃岐の綾の君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。
また次の妃の穂積氏の忍山の宿禰の娘の弟橘姫は稚武彦王を生みました。
52年の夏5月4日に景行天皇の皇后の播磨の太郎姫(おおいらつめ)が亡くなりました。
(太郎姫は日本武尊の生母)
秋7月7日に八坂入媛命を皇后としました
ヤマトタケのスケ妻。ワカタケヒコ、イナリワケ、アシカミカマミ、タケコカヒ、イキナガタワケ、ヰソメヒコ、イガヒコの七男子を儲ける ホツマツタエ
稲背入彦命[播磨別の祖]。豊国別命[喜備(吉備)別の祖]。武国皇別命[伊与(伊予)御城別、添御杖君の祖]。大稲背別命[御杖君の祖]。
豊門別命[三嶋水間君、奄智首、壮子首、粟首、筑紫火別君の祖]。息前彦人大兄水城命[奄智白幣造の祖]。櫛角別命[茨田連)の祖]。
「筑紫」と「火」は明らかに別の国ですから「筑紫火別」は「火別」から「筑紫」に分かれた(移動した?)一族を表現したものと考えることが出来ます。
『日本書紀』によれば、第12代景行天皇と、妃の五十河媛(いかわひめ)との間に生まれた皇子である。同書では、同母弟として稲背入彦皇子(いなせいりひこのみこ)の名を挙げる。
建部大社 近江一宮
創祀年代は不詳。社伝では、景行天皇46年稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳4年、勢田郷へ遷座したという。
祭神は、現在、日本武尊を主祭神とし、相殿に、天明玉命を祀り、天平勝宝7年、大和三輪より大己貴命を勧請し、権殿に祀る。
祭神に関する考証は古来多く行われ、日本武尊説、大己貴命説、稲依別王説の3通り。
建部大社が、建部君がその祖神を祀ったと考えられ、大己貴命は、後から勧請されたと考える説が有力。建部君は、日本武尊の子・稲依別王から発した犬上建部君と、おなじく日本武尊の子・稚武王を祖とする近江建部君があり、どちらが、当社の創祀にたずさわったかによって、稲依別王とする説も、考えられないことではないが、どちらにしろ、日本武尊で良いのではないかと思う。
稲依別王に関しては、古事記では、日本武尊と安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売との間に生れた子。日本書紀では、両道入姫皇女との子。
大江王(彦人大兄)が生んだ大中比売命(大中姫)が仲哀天皇に嫁して香坂王・忍熊王を生んだことも記紀に記されております。大江王は仲哀の「叔父」だと仲哀紀に見えますが、それが父・倭建命の弟という位置づけだと、景行紀に景行の皇子とされる稲背入彦命に重なりあいます。この者の別名を息長彦人大兄水城命とも咋俣長日子命(くいまたながひこ)ともいい、息長田別命(武貝児命)kの子であって、息長君の祖・稚渟毛二俣命の父に位置づけられます。
神櫛皇子(讃岐国造の始祖)
一方『古事記』では、景行天皇と、針間之伊那毘能大郎女(播磨稲日大郎姫)との間に生まれた皇子とする。また同母兄として、櫛角別王・大碓命・小碓命(日本武尊)・倭根子命の名を記載する。
なお、『続日本後紀』承和3年(836年)3月19日条では、「神櫛命」の名で景行天皇第十皇子である旨が記されている。
息前彦人大兄水城命という名前を見て、はて、どこかで何度も見たような名前だと思われる方も多いことでしょう。先ず「息前」は「息長」の誤植ではなく「おきさき」と読ませるのだそうです。その息前命が「奄智白幣造」の祖先の役柄を振り分けられている訳ですが、珍しい「奄智(あんち)」という名前も筑紫に関連があるとも考えられます。それは、
日本書紀雄略二十三年是年条に、
百済の調賦、常の例よりまされり。筑紫の安致(あち、あんち)臣・馬飼臣ら、船師を率いて高麗をうつ。
とあって「先代旧事本紀」天孫本紀が『ニギハヤヒ九世孫、物部竺志連公、奄智蘰連らの祖』と伝え、この物部十市根命の孫に位置付けられている竺志連の異母妹・五十琴姫が景行帝の妃となって輿入れしている。
ただ九州北部に「安致」という地名が在ったという事実は確かめることが出来ず、逆に大和国十市郡内に「庵知村」が存在していた事が分かっています。それは「日本霊異記」第二冊(下左の画像)が『聖武天皇の御代、鬼魅(オニ)に食われた女人』が大和国十市郡庵知村に住む大きに富める「鏡作造」の娘であったと書き残しているからなのです。
稲背入彦と酷似した「大稲背別」が「御杖」の祖だというのですから、この二人は同一人物だと思います。「御杖」を字義通りに「神や大王」を補佐して祀り事を執り行う「代理人」と解釈すれば、兵主大神を祀って景行帝の権威を高めた稲背入彦は正に「御杖」そのものです。だとすれば孫の「阿曽武命」が白幣山で白幣を立てて神々に祈願した「実績」を重く見て、息前彦人大兄もまた稲背入彦の別名と判断できるでしょう。
茨田連は、屯倉の管理者で、かつ継体帝との姻戚関係にある小豪族の名字であり、古事記は、この一族が神武の子供・日子八井命の後裔だと記していました。茨田氏と帝室の紐帯は健在だったという証と見るべきなのかも…。(「息前彦人大兄」については、古事記景行段にある伊那毘能若郎女が産んだ日子人之大兄王と同一人ではないかという指摘があります)。
「息前彦人大兄=稲背入彦=日子人之大兄王」という等式が成り立つのであれば、彼が仲哀の妃・大中姫の父、つまり「神功皇后」たちに反乱を起こしたとされる香坂王、忍熊王の祖父に当たることになります。
「新撰姓氏録」山城国皇別には「茨田勝(すぐり)、景行皇子、息長彦人大兄瑞城の後なり」とあって、ここでも茨田氏が景行子孫となっています。
先代旧事本紀の「天皇本紀」は、
景行皇子・豊門別皇子は、三嶋水間君、奄智首、筑紫火別君、壮子首、粟(阿波)首らの祖
としているのに対して日本書紀は、襲武媛の生んだ三人の皇子のうち、
兄の国乳別皇子は、これ水沼別の始祖なり。弟、豊戸別皇子は、これ火国別の始祖なりとある。
日子八井耳命と茨田連
『古事記』では、日子八井命について茨田連・手島連らの祖とする。
『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
- 右京皇別 茨田連 – 多朝臣同祖。神八井耳命男の彦八井耳命の後。
- 山城国皇別 茨田連 – 茨田宿禰同祖。彦八井耳命の後。
- 摂津国皇別 豊島連 – 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。
- 摂津国皇別 松津首 – 豊島連同祖。
- 河内国皇別 茨田宿禰 – 多朝臣同祖。彦八井耳命の後。同条では、子に野現宿禰の名を挙げる。
- 河内国皇別 下家連 – 彦八井耳命の後。
- 河内国皇別 江首 – 彦八井耳命七世孫の来目津彦命の後。
- 河内国皇別 尾張部 – 彦八井耳命の後。
新撰姓氏録は、
茨田連 右京皇別、山城皇別 茨田宿禰と同祖、彦八井耳命の後なり
河内皇別 茨田宿禰、多朝臣同祖、彦八井耳命の後なり、仁徳天皇御代、茨田堤をつくる
茨田勝 山城国皇別 景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後なり
この皇子、息長彦人大兄瑞城命の名前は、日本書紀には見えず、先代旧事本紀にはよく似た息前彦人大兄水城命(奄智白幣造の祖)の名が天皇本紀に見えており、古事記には伊那毘若郎女(播磨出身、皇后の妹)との子供に日子人大兄王が居たとあります。また、書記の仲哀二年春正月条には、
気長足姫尊を立てて皇后とす。これより先に、叔父彦人大兄が女、大中姫を娶りて妃としたまう。香坂皇子、忍熊皇子を生む。
旧事本紀の「奄智」に注目してみると、同書は「豊門別命が三島水間君、奄智首、壮子首、粟(阿波)首、筑紫火別君の祖」であり「櫛角別命が茨田連の祖」だと記録しています。(書紀は襲武媛との子・豊戸別皇子が火国別の始祖であるとする)
茨田連(九州・彦八井耳)--茨田勝(山城・景行・息長)--彦人大兄(景行・息長)--豊門別命・豊戸別(奄智・火別君・火国別)--茨田連(讃岐、櫛角別命)
神八井耳の系譜
古事記は神八井耳命を始祖とする19氏族名を列いる。
「意富臣、小子部連、坂谷部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫の三家連、
雀部臣、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、
常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の祖なり」と分注に記載している。
神八井耳命ー-武宇都彦命-武速前命-敷桁彦命-武恵賀前命-武諸木命
-武敷美命-武忍凝命-武裳見宿禰-多稲見(多臣)-
意富那比命の意富はオフであり,多氏???。事実海部氏は自らを国津神ではなく,天津神に連なると宣言しています。さらに多氏系図と勘中系図を並べると 6代の建諸隅命と武諸木命が類似する。
初代 神武天皇 天村雲命
二代 神八井耳命 倭宿禰命
三代 武宇都彦命 笠水彦命
四代 武速前命 笠津彦命
五代 武恵賀前 建田勢命
六代 武諸木命 建諸隅命
「五十」の系譜
神武帝の皇后、姫蹈鞴五十鈴姫命であり、その妹も五十鈴依姫ですが、事代主命(コトシロヌシ)の後裔と伝えられている十市県主は五十坂彦といい、その娘は当然、五十坂媛でした。少し時代が下って第七代孝霊帝の息子で四道将軍の一人として山陽道に派遣され吉備を統治したとされる吉備津彦の別名(本名)も彦五十狭芹彦命(ヒコイサセリ)という。
先ず、初期王朝の大王名から見てみると、
崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖、ミマキイリヒコ) 垂仁天皇(活目入彦五十狭茅、イクメイリヒコ)
の諱が共に「五十(イ)」を含んでいますし、崇神・垂仁帝の子供にも「五十日鶴彦(イカツルヒコ)」「五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)」の名前を持つ皇子が存在し、更に次の世代には「五百城入彦(イオキイリヒコ)」という名前を持つ皇子が居たことも分かっています。
一方、大王家と同じ位古い家系であるとされている物部の系譜にも「五十」の入った名前を持つ人物はいます。神功皇后の頃に活躍したとされる「五十琴宿禰」や、その弟妹の「五十琴姫命(イコトヒメ、五十功彦命の母親)」「五十琴彦命」などがそうです。古くは、景行天皇の記事で紹介した「五十河彦」「五十河媛」がある。
また、物部一族の重要人物で崇神帝の母親でもある「伊香色謎命」と兄の「伊香色雄命」の兄妹です。この二人の場合「伊香(イカ)」という文字が使われ、読みも「イカ」となっています。
「東国諸国造、天津彦根命之裔」系譜では始祖天津彦根命の孫にあたる神様が「意冨伊我都命、オオイカツ」であり、その系譜は、
天津彦根命—-天御影命—-天麻比止都禰命—-意富伊我都命—-彦伊賀都命—-天夷沙比止命—-川枯彦命—-坂戸毘古命—-国忍富命—-天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)—-鳥鳴海命—-八倉田命—-室毘古命
と連なる。
物部連の祖とも言われる「大禰命」あるいは「彦湯支命」に嫁いで出石心大臣命を産んだ淡海川枯媛、そして中臣連の祖・御食津彦命に嫁いだ御食津媛命(又の名、伊香刀自比売命、イカトジヒメ)の姉妹はいずれも川枯彦命の妹であり、坂戸彦命の妹の坂戸由良都媛命は出石心大臣命の許に輿入れして孝元帝の皇后となった内色許売命(ウツシコメ)を産んだとされています。同系譜は重ねて、国忍冨命の姉妹二人がそれぞれ内色許男命と中臣祖・梨迹臣命の妻となったと伝えていますから、天津彦根命を遠祖に仰ぐ一族の間では、物部連、中臣連そして三上祝など古くから神々を祀ってきた由緒ある氏族は、同族(五十族)かもしれない。
鈴木真年『百家系図』『諸系図』の御上祝の系図
(天若日子)
天照大神 -- 天津彦根命ー天御影神(天目一箇命、天津麻羅命) 刀自ー意富伊我都命
└ 比売許曽命 息長大姫刀自命 = 赤留比売(天日矛の妃)
古事記の応神天皇段
天日槍命は赤玉を持ち帰り、置いておくと、うるわしい乙女になった。そして結婚して妻とした。 阿加留比売は天日矛命の為に、「種々(クサグサ)の珍(タメ)つ味(モノ)を設けて、恒にその夫に食はしめき。」とあります。ところが天日槍は心が奢り妻を罵るようになった。妻は「そもそも、私はあなたの妻となるような女ではありません。私の祖先の国に行きます。」と言いました。「阿加留比売は逃遁(ノガ)れ度り来て、難波に留まりぬ。天日矛、難波に到らぬとする間(ホド)に、その渡し神塞(サ)へて入れざりき。」と書かれています。
これが難波比売碁曾社に坐す阿加流比売神と言う。
記紀は筑紫の伊都国の五十跡手を新羅系の天日鉾の苗裔と記している。
イカガ:五十河、五十日は、イカカともイカコとも読まれる、
イカガという語は、古くは伊迦賀色許男命、伊迦賀色許売命がある。兄妹だと書かれている。
伊迦賀色許男命は、崇神天皇の三輪山伝説、「即ち意富多多泥古命を以ちて神主と爲て、御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命に仰せて、天の八十毘羅訶を作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき」(記)。「伊香色雄に命せて、物部八十手が作れる祭神之物を以ちて」(紀)。三輪山を祀った氏族の筆頭格のようである。『姓氏録』でも、穂積氏や矢田部氏など実に多くの物部氏系氏族の祖神となっている。
「此の天皇、穂積臣等の祖、内色許男命の妹、内色許売命を娶して、生みませる御子、大毘古命。次に少名日子建猪心命。次に若倭根子日子大毘毘命。又内色許男命の女、伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、比古布都押之信命」「此の天皇、旦波の大縣主、名は由碁理の女、竹野比売を娶して、生みませる御子、比古由牟須美命。又庶母伊迦賀色許売命を娶して、生みませる御子、御真木入日子印惠命。次に御真津比売命。又丸邇臣の祖、日子国意祁都命の妹、意祇都比売命を委娶て、生みませる御子、日子坐王」(開化記)。
枚方市に伊加賀という所がある、『和名抄』の河内国茨田郡伊香郷で、高山寺本は「以加古」、東急本は「以加加」と訓している、ここが伊迦賀色許男命などの本貫地と考えられている。式内社の意賀美神社が鎮座する、
オカミはヘビである、三輪山の神はヘビ、そうしたことでイカカのカカがヘビである可能性が高まる。
高尾山の内山(五十河集落)の伝承
三重長者五十日真黒人の屋敷跡といわれ、五十日真黒人が、億計・弘計の二王子をここにかくまったという。屋敷跡と伝える所に石組の跡が残る。また内山観音堂は妙法寺の跡という。内山のブナ林が有名だが、体長10㎝ばかり山椒魚が生息する、「内山の山椒魚」として知られる。内山は、落山か?庵智山かもしれない。
内山地区は大宝(七○一~七○四)の昔、この地に真言宗の高尾山妙法寺が建立され、山内百姓として人々が住み始めたといわれている。昔はこの山懐に二町歩余りの田畑が開かれており、妙法寺が焼失した後も、その住民はあらゆる悪条件を克服して営々と近年まで農業を続けていた。内山の呼称について「三重郷土志」は次のように説明している。
「又曰く皇係(億計・弘計三皇係のこと)御零落の故を以て落山といふ」
と書いて、雄略帝の頃三重長者五十日真黒人を頼って二皇孫がこの地に落ちて来たので「落山」というという説をあげている。
地名を伝説に附会することはよくみられるところであるが、昔この地を落山と呼んだのは事実とみえて、もと内山観音堂内に把られていた観音像の台座の裏に、仏像を修理した塗師の書き入れがあり、
「奉しんじん 貞享五辰年(一六八八)(中略)いかがさとおち山村」
の文字がある。この「おち山村」が誤記でないとすれば、享保一九年(一七三四)の観音堂の棟札には「三重の庄五十河村内山」と記されているので、内山と呼ばれたのは元禄(貞享五年は元禄元年)以後のことであり、それ以前は落山といっていたようである。(丹哥府志)五十河村(延利村の東古名五十日今五十河に作る)
(村誌)本村昔時は丹波郡三重郷に属せしか其年号干支等不詳中郡五十河村とは村内人家続に字五十河谷と唱ふる深谷あり依て其字名を取り村名となすと云ふ然れとも何れ頃より称へ来るや年号干支等不詳
八尾市の恩智神社
恩智集落は、高安山麓の中でも最も広い扇状地の上にあり、地理的に集落としての好条件を備えた所であった。
恩智神社
祭 神:大御食津彦神(天児屋根命の五世の孫) 大御食津姫神(伊勢神宮外宮の御祭神豊受姫大神異名同神)ご由緒書「当社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社である。『恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉圭行神事云々』 と記されている(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国『現香取神宮』より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って当社は元春日と呼ばれる所以である。神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道 案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜った。以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬十月に行幸されて以来、称徳天皇(第四十八代)天平神護景雲二年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第五十五代)嘉祥三年(850)十月に正三位、清和天皇(第五十六代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載される。以後醍 醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和三年)の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わる。また、一條天皇正暦五年(994)四月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り疫病等の災難除けを祈った。これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされている。尚、三代実録によれば当神社は下水分社といわれている。これは建水分神社(千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも楠一族が崇拝した神社である。 明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対して、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていた。社殿は、当初天王森(現頓宮)に建立されていたが建武年間に恩地左近公恩智城築城の折、社殿より上方にあるのは不敬として現在の地恩智山上に奉遷され、現在に至っている。
八尾市立歴史民族資料館の「寺院と神社の成り立ち」に「和銅三年、玉祖神が周防から住吉浦に渡来し、住吉大明神に鎮座地を乞うと、恩智神は土地をたくさん持っているから、河内国へ行ってみなさい、と言った、という話が恩智大明神縁起に出ている」 恩智左近とは、楠木正成公の右腕と言える人物で、宮司さんに伺ったところ、この恩智左近は恩智神社の神官だそうです。
玉祖神渡来時のやりとりを見れば、住吉大社とは、何か、「盟友」であったかもしれない。例えば、江戸時代まで、摂津の住吉大社と、河内の恩智神社は、合同で夏祭を催行されていたらしいのです。六月二十七日、住吉大社も恩智神社も、摂津と河内の国境である、平野鞍作のお旅所まで神輿を巡行したそうです。そして、その後、住吉浦へ行き禊をされ、そして、各々の神社へ戻って、そ こでまた夏祭りが行われたのだとか。また、神功皇后、三韓侵攻の時、住吉・恩智両神が道案内をした、とありますが、詳しくは、海路は住吉神が、陸路は恩智神が先導したのだそうです。そして、先導するとき、それぞれの神は兎の姿に変じたのだそうです。