広瀬の大忌神と竜田の風神、天武天皇、持統天皇

伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。

皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈って薬師寺を建立させている。ただし、この薬師寺の建立地は飛鳥であり、現在の地ではない。

日本での暦法は、日本書紀によれば、持統天皇4年11月11日「勅を承ってはじめて元嘉暦と儀鳳暦を行う」とある

藤原京は壬申の乱に勝利した天武天皇が、律令国家の象徴として計画した都城である。存命中にその夢を実現できなかったが、皇后の持統天皇が夫の夢を引き継いだ。持統5年(691)10月27日、持統女帝は使者を遣わして藤原京の地鎮祭をおこなわせ、翌年の5月23日には、難波王らを遣わして、藤原宮を築く場所の地鎮祭をおこなわせている。

藤原宮は、それから16年間、持統・文武・元明三代の天皇が宮居としたところである

天武天皇のころ、美濃王の佐伯広足をつかはして、竜田の社に 風神 ( かぜのかみ ) をまつらせ、また 間人 ( はしひと ) 大蓋をつかはして川の合流する広瀬に 大忌神 ( おほいみのかみ ) をまつらせたといふ
天武天皇四年(六七五)、大山中曾禰連韓犬を遣わし大忌神を広瀬川の曲に祀らせた。この神は伊弉諾・伊弉冊二神が風神〔竜田〕を生み、飢えんとした時生れた神で、倉稲魂命というのがこれである〔水神であり、竜田と同体〕。
持統天皇の御世になって、
朱鳥4年4月3日より11年7月12日まで、毎年、4月と7月に2回、「広瀬・竜田の神を祭った」の記録があります

広瀬大忌神社,竜田風神の2神は,飛鳥,藤原時代,最も崇敬されたので,奉祀は毎年数度に及び,天皇は,7月12日に吉野宮から帰り,15日に使者を遣わして祀らしめている。須波神が,諏訪郡建御名方富神,八坂刀目神の上下社であることは明らかであるが,これと並んで,特に大和朝廷から奉祀された水内神は頗る由緒の古い社であったことが知られる。この時より217年後の延喜式神名帳によるに,須波神のことは,諏訪郡,南方刀美神社−名神代−と見えて明らかである

『禁秘鈔考証』に引用された『神祇令義解』によると,「広瀬大忌祭」は「山谷の水が甘水となって,水田を潤し,五穀を稔らせるべく祈る祭」であり,「竜田風神祭」は「台風の発生を防ぎ,水稲を稔らせる祭」であると考えられる。詰まり,「竜田神」は風神であり,「広瀬神」は水神であると思われる。

天武天皇4年(675年)4月10日に、美濃王は佐伯広足とともに遣わされて竜田の立野で風神を祀った。現代の地名では奈良県三郷町立野にあたる。
・持統天皇の時代、壬申の乱での論功行賞の記載。

・持統天皇の数多い吉野宮への行幸。

・天武〜持統にかけて、「広瀬大忌神と竜田風神」の祭祀が非常に多い。

「遣小柴美濃王 小錦下佐伯連広足 祠風神 竜田立野」(日本書紀天武天皇4年4月条)
日本書紀 巻第十四雄略天皇の段
延喜式祝詞 風神講 雷神講
延喜式 竜田風神祭祝詞
「悪しき風、悪しき水」に遭い、凶作が続いたので、祟りをなした天御柱命、国御柱命を、「吾が宮は朝日の日向かふ処、夕日の日隠る処の、竜田の立野の小野に定め(中略)」
神社辞典(東京堂出版)

大内郡水主神社[みぬし]「倭迹迹日百襲姫命」 当社は大水主大明神又大内大明神と言われ文武、元明天皇の時代より「洛陽の坤の方 なる 讃岐の国に霊地あり、大水主御社と号す」

持統5年(西暦691年)持統天皇は、それまで収穫祭であった新嘗祭を 拡充し、皇位継承の公式儀礼として大嘗祭を行った

西暦691年に持統天皇が織女星と牽牛星を祭る七夕の宴が開催

地鎮祭
最古の記録は日本書紀に持統天皇五年(西暦691年)とあります。土地の悪霊を祓い、神々を鎮めご加護によって工事の安全と無事な完成をお祈りするお祭りです

日本書紀の公式な成立は、養老4年(西暦720年)5月といわれていますが、 帝紀が、持統天皇で終っていることから、文武天皇の元年(西暦697年)以降であれば、成立した可能性があります

持統天皇の西暦691年に、下記の2神社の古文書、16家の家系図を、没収

古文書・家系図

石神神宮・古文書、大神神社・古文書、春日氏・家系図、大友氏・家系図、佐伯氏家系図、
雀部氏・家系図、阿部氏・家系図、膳部氏・家系図、穂積氏・家系図、釆女氏・家系図、
羽田氏・家系図、巨勢氏・家系図、石川氏・家系図、平群氏・家系図、木角氏・家系図、
阿積氏・家系図、藤原氏・家系図、上毛氏・家系図