天孫降臨、邇邇芸命、神武天皇

邇邇芸命は天照大神の孫にあたる神で、一般的に天孫と呼ばれます。
父は天照大神の子である天忍穂耳尊で母は高皇産霊尊の子である栲幡千千姫命。
天忍穂耳尊は栲幡千千姫命との間に天火明命と邇邇芸命をもうけます(古事記)

葦原中国を平定後、高天原から地上に降りたとされ、これを天孫降臨と呼びます。

 高木神域の神奈備、英彦山には「天忍穂耳尊」が祀られる。高木神は自身の領域を天忍穂耳尊に譲り、女(むすめ)の萬幡豊秋津師姫命(栲幡千千姫)を娶らせている。
 神話では天照大御神と高木神は、天忍穂耳尊に天降って葦原中国を治めよとさせる。が、天忍穂耳尊は萬幡豊秋津師姫命との間に生まれた「邇邇藝尊」を降すべきと答え、天孫、邇邇藝尊が降臨する。

高木神の子神たち、思兼神は邇邇藝尊に副い、天太玉命は五伴緒として随伴し、天忍日命は邇邇藝尊を先導する。そして高木神は天忍日命の供に、天磐靫、天梔弓、天羽羽矢、頭槌剣を帯びさせている。高木神氏族は天孫の降臨に従っている。
この地域に高天原神話の原初をみる。

別名
邇々芸(天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命)
忍穂耳(正勝吾勝勝速日天忍穂耳命)

降臨の場所
大日孁貴(天照大神)の子である天忍穂耳尊と、高皇産霊尊の娘である栲幡千千姫命(萬幡豊秋津師比売命)の子が瓊瓊杵尊です。天孫瓊瓊杵尊が天下ったところは高千穂の山です。
古田氏の研究によれば、天上からの邇邇芸命(ニニギ)の降臨神話を、対馬海流上の島々の亦の名が、例えば壱岐は天比登都柱で対馬が天之狭手依比売と天の一字をもつことから、そここそが天(海人)国だとし、そこからの邇邇芸命の九州への侵攻が天孫降臨であったとした。これは、これまでの天上からの荒唐無稽と思われた降臨神話を海人族による征服事業とした。加えてその降臨地を、通説が南九州の宮崎や鹿児島に比定したのに対し、『古事記』の「竺紫の日向の高千穂の久志布留多気」とあるところから、それを筑前の高祖山連峰の糸島郡の日向にあるクシフル岳がふさわしいとし、それを「天照の反乱」とした。その根拠として、対馬のアマテル神社を「天照大神の原産地」とし、氏子総代の話から天照大神は「出雲の一の子分」に位置づけたことはよく知られている。
 しかし記紀はこの天孫降臨の命令主体について、高皇産霊命(タカミムスビ)、あるいは高皇産霊命と天照大神の二人、また天照大神とする三説を載せているのは周知のところである。

高皇産霊命(高木神)
高良山にはもともと高皇産霊神(高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。高牟礼から音が転じ、「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

日本書紀での「天孫降臨」
 「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」

古事記での「天孫降臨」
 「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。」

日向國風土記逸文での「天孫降臨」
 「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。
時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」

天孫降臨の場所
天孫降臨地の高祖神社の現在の祭神は天津日高彦火火出見命・玉依比売命・息長足姫命と皇神に関係ある神々を祭っているが、江戸時代までは社名は高祖比[口羊]神社(『筑前国続風土記附録』)あるいは高祖大明神社(『筑陽記』)とあり、高皇産霊命系の高祖比[口羊]が祭祀されていたことは確実である。これは天孫降臨の命令主体を高皇産霊命とするものであろう。

「日本書紀」によると、「一説」として、天孫降臨の地とは「日向の襲の高千穂の添(そほり)の山の峯〈第六、一書〉」であると書かれています。「そほりの山」とは、明らかに「祖母山」のことと思われます。

邇邇芸の名前の意味
また、天邇岐志国邇岐志天津日高彦番能邇邇芸命は、天のニキシ国のニキシの天津ヒダカヒコと読むのが正しいと考える。ニキとは、官名であろう。
志こそが地名を示すものと考えられる。そして、壱岐の一大国の跡地である原の辻遺跡から二、三キロのところに志原がある。志原こそ邇邇芸命の本貫の中心地ではないのか。

この名前は高皇産霊命の天孫であることを示す名前であり、高皇産霊命の命令により、壱岐の長官(ニキ)に任じられたことをあらわす。伊都国に置かれた一大率の長官名が「爾岐=ニキ」であることにみごとに符合する。玄界灘に開けた志摩町の海岸線は、始祖ニニギを連想させる「ニギの浜」である。

降臨後の到着地は、吾田の長屋の笠狹碕という。
これらの吾田、長屋(南さつま市加世田町)、笠沙、竹屋(同加世田町)の地名は、なんと、全てこの地に現在まで残っているのである。

南さつま市加世田と大浦の間に長屋山は存在する。標高は513㍍で、それほど高い山ではない。長屋山は、山頂まで、なだらかな丘状になっている。だから、山頂まで車道が通っていて、車で楽に登ることが出来る。

天津彦彦火瓊々杵尊が『竺紫の日向の高千穂の久士布流多気』に天孫降臨の後、向かったところは、古事記に拠ると、『此地は韓国に向かひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。』となっている。
同じところを、日本書紀本文では、『吾田の長屋の笠狭碕』とし、そこに居た人物を事勝國勝長狭と言う人とする。日本書紀(一書第二)では、國主事勝國勝長狭とする。日本書紀(一書第四)では、『吾田の長屋の笠狭の御碕』で、事勝國勝長狭とする。日本書紀(一書第六)では、『吾田の長屋の笠狭の御碕』とし、事勝國勝長狭とする。

古事記は、「ニニギ命は『ここは韓国に向い、笠沙の御前を真来とおりて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。いとよき地だ』といって宮殿をたて」、さらに神阿多津比売を娶ったと伝えている。その場所を確認していこう。
ここには、「韓国に向い」という地理的条件と、「笠沙(かささ)の御前(みさき)」の地名、「阿多津(あたつ)」という地名由来の比売の名前を伝えている。
「笠沙」と「阿多」の地名は、薩摩半島の南西端にある。
「笠沙」の地名は薩摩半島南西端の野間半島(南さつま市笠沙町)にしかない。「阿多」の地名も九州ではこの地(南さつま市笠沙町金峰町)にしかない。
問題は、「韓国に向い」という条件である。古田武彦氏はここに着目し、この地を玄界灘に面した地とした。
ところが、薩摩半島西南端の野間半島から真北に進むと、九州の西岸に沿って韓国に一直線なのである。
もし、古田氏の言うように、津島から海を渡ってニニギが九州北岸に上陸したのなら、後ろを向いて「ここは韓国に向かっている」と言うであろうか?あまりにも自明のことを言うはずもないし、それが伝わることも考えられない。「ふりさけ見れば」ではなく、新天地に到達して前を向き、「ここは九州制圧の拠点となるよき地である」と言うはずである。
一方、古事記のようにニニギが九州山地を南下したのなら、薩摩半島の西南端にたどり着いて、「ここから真北に向かえば韓国に行ける」と聞いて、「よき地」と言ったのは、非常にリアルな、感動のこもった表現である

これらを総合して考えると、大きな国名が『吾田』であって、次に『長屋』の地名、最後に『笠狭の御碕』となっている。そしてどうやら、この地を治めていたのが、國主事勝國勝長狭と言う人物であったらしいことが分かる。

だから、「笠狭の御碕」は、どうも長屋の一地域か。従来のように、笠沙の御崎を野間岬とするかいずれにせよ鹿児島の御崎の地であろう。後の世薩摩隼人の出征地か

長屋山
ここは、何百年も前から、もともと『神代聖跡長屋之地』であったはずである。山頂にあるこの碑文が置かれた由縁である。地元の人々にとって、尊敬すべき山が長屋山である。

宮崎県日南市の吾田神社
田ノ口神社ともに崇敬が篤かった。「日向地名録」によると、田ノ口大明神、一名火焼ノ宮と称し、本社の東北の田の中にあったものを明治五年合祀した。また手研耳命は、神武天皇と吾平津媛命の間に生まれられた長子であり、命は天皇が宮崎におられたころは、平山の駒山あたりに住まわれたので、駒宮辺りを別府、宮崎を新別府と称した。手研耳命が亡くなられると、吾田の小埼は、今の神社の下を昔から小埼といっており、宮の上の古墳とみるべき地があるのを手研耳命御陵としている。(飫肥伝説録)
昭和十五年には、県奉賛会が「神武天皇巡幸伝説地吾田」の石碑を献納、「神武天皇御東遷ニ先立チ宮崎ノ宮ヨリ妃吾平津媛命及皇子達ヲ随ヘ妃ノ御出生地タル此ノ地ニ至リ暫ク御駐輦アラセシト伝フ」と刻されている。

神武天皇

神武天皇は国譲りを受けた天津神の直系の子孫。高千穂(九州)に降り立った邇々芸から数えて4代目のお方です。
吾平津姫(あひらつひめ)は、神武天皇の妃。吾平津媛とも表記される。『古事記』では阿比良比売(あひらひめ)。阿多小椅の妹。神武天皇日向在住時に嫁し、手研耳命と岐須美美命を生んだ。

式内社 壹岐嶋石田郡 天手長男神社 名神大
旧村社 壹岐國一宮
御祭神 天忍穂耳尊 天手力男命 天鈿女命
合祀 仁徳天皇 仲哀天皇 日本武尊 比賣大神

合祀 式内社
壹岐嶋石田郡 天手長比賣神社 名神大
栲幡千々姫尊
左二座 稚日女尊 木花開耶姫命
右二座 豊玉姫命 玉依姫命
壹岐嶋石田郡 物部布都神社
布都主命
さらに、若宮神社、宝満神社を合祀

天日神命(あまのひのかみ) 対馬県主らの祖
 対馬県主は、姓氏録未定雑姓・摂津国神別に津島直・津島朝臣が天児屋根命から出るとあり、中臣氏系と見ることができるかもしれません。

神武天皇の系譜

記紀によると天孫降臨した火瓊瓊杵尊が娶ひたのが大山祇神の女の鹿葦津姫で、 この二神は三嶋社の大山祇神・木花之開邪姫神である。木花之開邪姫は神吾田津姫ともいうから、その子の火闌降命は吾田 君小橋等の本祖、つまり吾田隼人の神だつたことになる。
姓氏録の山城神別の 阿多隼人は富乃須左利乃命の後とある。
次子の彦火火出見尊の妻は海神綿津見神の女豊玉姫で、武位起命と神武の父に なる鵜草葺不合命を生んだ。武位起命の名は記紀には出てこず、旧事紀の皇孫 本紀にのみ出てきて、大和国造祖というから神武東征の導きをした珍彦の先代 にあたることになる。神武と珍彦は従兄弟同志なのだ。
その神武が日向で娶ひたのが、祖父の彦火火出見尊が出た吾田隼人の女の吾平 津媛であった。記には阿多小橋君の妹の阿比良比売とあるから、火闌降命の孫 あたりになろう。だから神武東征はその子の手研耳命、つまり吾田隼人を連れ た海人の一行だったことになる。

都万(つま)神社
由緒、「天孫ニニギが木花開耶姫に『汝を妻とせん』と勅言したことにより当社を都万宮と称し、この地方を妻という」中に見つかる
ここでは木花開耶姫の夫がニニギとなっているが実は正史『続日本後紀』巻六、承和四年(837)条に当社の記録があり、「日向国、子湯郡都濃神、妻神」と並んで書かれており、仲良く官社に預かっている。
都濃神とは日向国一の宮都農神社の祭神大己貴であって、ここに木花開耶姫と大己貴が夫婦であったらしきことを、正史がにおわしているのである。

穂北神社から2、3㌔南の男狭穂塚、女狭穂塚と笠沙
おそらくこのあたりが笠狭の中心であって、そこから一ッ瀬川河口、あるいは大淀川河口に延びる台地の東側あたりまでを笠狭碕と呼んだのであろう。その痕跡が以下に見られる。
 男狭穂塚、女狭穂塚から3㌔ほど南の西都市清水(きよみず)にある清水(きよみず)神社は、火闌降(ほすそり)を主祭神とし、ニニギと木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を相殿(あいどの)に祭っているが、その由緒に「火闌降が上古清水字(あざ)松本の地に住んだとして、今なおこの地に命(みこと)の御手洗または神籬(ひもろぎ)の里と称する奇跡を存し、古名笠狭の原中に大陵があり、命(みこと)の山陵とつたえる」とあって、西都原台地から谷を挟んで南西に位置するこの清水台地もかつては笠狭の原とされている。
 さらに5㌔ほど南の西都市荒武にある荒武神社にも、「天孫が笠狭の碕に行幸されたとき、大山祗(おおやまつみ)の二女木花開耶姫をもって皇妃とし、云々」と伝わっており、この地も笠狭に含まれていたことがわかる。