大神神社、日向神社、高宮 神社

奈良県桜井市三輪の大神神社は大物主大神を主神とし、大己貴神、少彦名神を配祀している。

大己貴命とは第5代大物主の蕗根命のこと??
『秀真伝(ほつまつたゑ)』によれば

これの先 原見(はら)の天押雲命(おしくも)
召(め)し上(のぼ)す 弟(おとうと)日立命(ひたち)は  
若(わか)きゆえ 阿波(あわ)の事代主命(ことしろぬし)
侍(はべ)る宮(みや) はらからなれば  
西(にし)東(ひがし) 通(かよ)ひ勤(つと)めて  
要(かなめ)しむ 名も積葉八重(つみはやゑ)  
事代主命(ことしろ)が 三島(みしま)に至(いた)り  
原見(はら)に行(ゆ)き また三島より  
伊予(いよ)に行(ゆ)く ついにちなみて  
溝咋命(みぞくい)の 玉櫛姫(たまくしひめ)も
孕(はら)むゆえ 鰐船(わに)乗(の)り阿波(あは)え  
帰る内(うち) 生む子の諱(いみな)  
鰐彦命(わにひこ)は 櫛甕玉命(くしみかたま)ぞ
次の子は 諱(いみな)中彦(なかひこ)  
櫛梨命(くしなし)ぞ 青垣殿(あおがきとの)に  
住(す)ましむる 先(さき)に筑紫(つくし)の  
神立命(かんだち)は 襲緒(そを)の船津(ふなつ)の
太耳姫(ふとみみ)お 夜須に娶りて  
蕗根命(ふきね)生む のち諸(もろ)ともに
神となる 大物主(おおものぬし)は  
蕗根命(ふきね)なり 豊祇彦命(とよつみひこ)と  
治(をさ)めしむ 野業(のわざ)教えて  
民(たみ)お生(う)む    

 第5代大物主の蕗根命が「日向神」と呼ばれた可能性がある。
 三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「日向御子神」とは「第6代大物主の櫛甕玉命」の可能性も排除でない。「第6代大物主の櫛甕玉命」が「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられて、「日向御子神」として祭られた可能性がある。
 これは『秀真伝(ほつまつたゑ)』による解釈である。
 大三輪神社の摂社神坐日向社が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
しかし、摂社の神坐日向社が櫛御方命(くしみなかた)を祭神とする。
 櫛御方命(くしみかた)と櫛甕玉命(くしみかたま)では一字違うだけ。
 一番最後の「ま」があるか、ないかで雰囲気が違ってくる。

「叢雲剣(むらくも)」は、第5代大物主の蕗根命(大己貴命と尊称)の手元に留め置かれていたようだ。
第6代大物主の櫛甕玉尊(鰐彦)に「神武天皇の誕生祝いとして奉げるように」と託した。

神武天皇の誕生に祝いの品として。神武天皇が誕生する直前に、蕗根命(ふきね)と刺国若姫が夜須で神上がり御亡骸は夜須に納められた。

香川県仲多度郡象郷村下櫛梨に櫛梨神社がある。
祭神は、神櫛皇子命となっている。

神坐日向神社(ミワニマス ヒムカイ)

延喜式神名帳に、『大和国城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗』とある式内社で、今、大神神社の摂社として三輪字御子ノ森に鎮座するが、本来の日向神社は三輪山山頂・即ち現高宮神社(コウノミヤ・大神神社末社)の地にあったのではないかという。

◎神坐日向神社
 大神神社の南約200m。山辺の道を南下、平等寺前四辻の少し手前(北)の西側。
祭神:クシミカタ・イヒカタスミ・タケミカツチの3柱
古事記・崇神記に、
 「河内国美努村から見いだされたオオタタネコに、天皇が『そなたは誰の子か』と尋ねたところ、オオタタネコが『吾は、オオモノヌシ大神の子・クシミカタの子・イヒカタスミの子・タケミカツチの子・オオタタネコなり』と答えた」とある神々で、祟り神・オオモノヌシを奉祀したオオタタネコの曾祖父・祖父・父、即ち大神神社の祭祀を掌った大神氏(三輪氏・南北朝末期に“高宮”と改姓)の祖神を指す。

しかし日本書紀・崇神紀には、“オオタタネコはオオモノヌシの子”とあり、上記3神は出ていない
また高宮氏系図によれば、
 “大国主命-八重事代主命-○-天日方奇日方命(アメノヒカタクシヒカタ=クシミカタ)-イヒカタスミ-建甕尻命(タケミカジリ=タケミカツチ)-○-○-オオタタネコ”
とある(先代旧事本紀では、オオクニヌシ-コトシロヌシ-アメノヒカタクシヒカタ-以下同じ)。

大神神社の神主・高宮家(大神氏の直系後裔)がその祖神を祀った社と思われる。

◎高宮神社
 三輪山山頂に鎮座する摂社(H≒447m)で、すぐ上(東側・H≒467)杉木立の中に奥津磐座群(オクツイワクラ)がある。今、山麓にある摂社・狭井神社から登拝することができる(社務所に届け出、その許可が必要)。

 倭姫命世紀(鎌倉時代)によれば、崇神天皇6年、宮中から出されたアマテラスを倭笠縫邑に祀ったトヨスキイリヒメは、その後、アマテラスを奉じて丹波の吉佐宮など各地を巡った末に
 「崇神58年(辛巳)、倭美和乃御室嶺上宮(ヤマトミワノミムロミネカミノミヤ、美和之御諸宮ともいう)に還り、二年間奉斎・・・」
したという(この後、ヤマトヒメによる伊勢巡幸遷座に続く)。
 ここでいう“御室嶺上宮”(御諸宮)を当社とみれば、その祭神は伊勢の地に鎮座する以前の日神であるプレ・アマテラス(通常、アマテルミタマ神)を指すとも解される。
 三輪山山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境・高見山(1249m)の彼方、伊勢の方角から昇ることから、当山頂は冬至の朝日を拝する日向の地であったと解され、三輪祭祀の原点には日神信仰があったと推測される。

その日向の地に坐す神を日向御子神(あるいはアマテルミタマ)とするが、別に式内・神坐日向神社(三輪に鎮座する日向神社)があるにもかかわらず、これを高宮神主家の祖神を祀ると思われる高宮神社とするのは解せない

平安後期の史書には、当社祭神を“日本大国主命”(ヒノモトノオオクニヌシorヤマトノオオクニヌシ-大神崇秘書・1119)あるいは“天日方奇日方命”(アメノヒカタクシヒカタ・前記-元要記)とする書がある。

神坐日向神社と高宮神社との関係
 今、日向神社は三輪字御子の森に鎮座し、三輪山山頂には高宮神社が鎮座するが、明治初頭になって両社の間で神社名を取り違えられたとする説がある(反論もある)。

明治18年(1885)、時の大神神社宮司から明治政府に対して、
 「現高宮社に、弘仁3年(1846・江戸末期)付けの“神ノ峯殿内峯遷坐神坐日向神社幸魂奇魂神霊”と記した標札があるのを証拠に、式内・神坐日向神社は古来から三輪山頂にあったが、維新後、これを高宮神社としたのは誤りだから、訂正してほしい」(大意)との願いが出されたが、政府から
 「(それを証する)旧記確書等が無いから、従前の通りとする」(大意)
として却下された、という。

 明治政府の裁可書には「旧記確書なし・・・」というが、実際には

・大神崇秘書(1119・平安末期)
日向神社--高宮亦上宮(いずれもコウノミヤ)と曰ふ。三輪山峯青垣山に在り。神殿無く神杉有り、奥杉と称するは是也。
神名帳に云ふ大神坐日向神社一座、一所日本大国主命(ヒノモトノオオクニヌシ)也。

・大神分身類社鈔(1265・足利時代)
三輪上神社一座--神名帳に云ふ神坐日向神社一座、大、月次新嘗
日本大国主命 神体杉木
などの古史料があり、他の中世から江戸時代にかけての史料・絵図にも、三輪山山頂に鎮座するのは日向神社で、高宮・上宮ともいった、とするものが多い

また、大神崇秘書は、
 「(日向神社は)孝昭天皇(第5代天皇)御宇の御鎮座也。天皇元年4月上卯日前夜半、峯の古大杉の上に日輪の如き火気があり、光を放って山を照らす。その暁に神が天降り官女に託宣して、『我は日本大国主命也、今此の国に還り来たれり也。山田吉川比古をして我が広前を崇秘奉れ』と謂った。天皇、この御託宣により、吉川比古命(クエヒコ命8世の後、川辺足尼の子也)に勅して高宮神主と定めた」(大意)
との鎮座伝承を伝えている。

この伝承は、鎮座時期を、実在が疑問視されている孝昭天皇の御宇とすること、祭祀氏族・高宮神主をクエヒコの後裔とするなど、今の定説とは異なる記述が見える(高宮神主家は大神氏の後裔という)。

 加えて、明治になっても、大神神社摂末社御由緒調査書(明治6年・1873)には、高宮神社について、社伝を引用して
「祭神は日向御子神なり。本社境内神峯に鎮坐す。
旧平等寺所蔵の古絵図に神坐日向神社と見え、又当社所蔵の古絵図には神上ノ宮(ミワコウノミヤ)と見えたり」
とあり、これらを提示すれば、結論も替わったのかもしれない。

 しかし、国つ神の代表としてのオオモノヌシを祀る大神神社に日神的神格があったとするのは認めがたいことであり、たとえ上記諸史料が提示されていたとしても、大神神社の山宮(元宮)的存在である三輪山上の神社を式内・神坐日向神社とは認めなかったのではないか、ともいう(大和岩雄説)。

日向神社と高宮神社の関係を山宮・里宮とする見方がある。

 わが国の古代信仰は、里近くの秀麗な山をカミの山・神奈備山(カンナビ)として仰ぎ見、山頂あるいは山腹にある巨石(磐座)あるいは巨木をカミが降臨する聖地・神木とした、カミ祀りからはじまるという。
 その山頂(あるいは山腹)にあるカミ祀りの場を“山宮”と称し、この山宮を麓から遙拝する場(カミ祀りの場)として設けられた社を“里宮”という。

天火明命の六世孫として建麻利尼命〔たけまりね〕があげられて、「石作連、桑内連、山辺県主」の祖