大彦命: 阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山臣、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり
阿倍氏については、『日本書紀』孝元天皇七年春二月二日の条に 「欝色謎命(うつしこめ)を立てて皇后とす。后、二の男 一の女を生れます。第一をば大彦命と曰す。一に云わく、天皇の母弟少彦男心命といふ。妃伊香色謎命(いかがしこめのみこと)、彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)を生む。次の妃河内青玉繋が女埴安媛、武埴安彦命を生む。 兄大彦命は是阿倍臣、膳臣、阿閉臣、狭狭城山臣、筑紫国造、越国造、伊賀臣、凡て七族の始祖なり。彦太忍信命は、是武内宿禰の祖父なり。」とあり、氏の始まりが記されている。
大彦と阿部氏
考元天皇の長子である大彦命には5人(一に6人)の子があり、「阿倍氏」は大彦命の子である武沼河別命(大彦とともに四道将軍の一人)の二代後の阿倍阿加古が阿倍臣の祖となり、その子を大籠としている。また、「阿閉氏」は大彦命の子の中で武渟川別命の弟になる大稲輿命の子である彦屋主田心命の子が大伊賀彦命で、その子である稚子(わかこ)の子が 阿閉国見である。彦屋主田心命は伊賀臣、佐々貴山君とともに阿閉臣の祖であるとされている。
「日本書紀 (一)」(岩波文庫)の孝元天皇段、注に姓氏録、河内皇別に阿閉臣は「大彦命男、彦瀬立大稲越命之後也」とあり、「阿倍臣は兄の建沼河別命の後、阿閉臣は弟の伊那許士別命の後ということになって、両者は別の氏と見るべきであろう。」とあるが大彦族であることに変わりはない。
大彦の命の墓についての三つの比定地
1.川柳将軍塚古墳(長野県長野市篠ノ井石川)
戦国時代の合戦場として知られる川中島の一画である。すぐ近くに、『延喜式』の式内社、布施神社がある。
この前方後円墳については、「崇神天皇十年、詔あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北国を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚という。」(『石川村誌』『布施五明村誌』)という伝承がある。
出土遺物
現在、将軍塚古墳出土として布制神社に蔵するものに、内行花文鏡3・?文鏡1・珠文鏡1・管玉102・棗玉1・勾玉3・小玉560・玉杖頭2があり、他に珠文鏡1・四獣文鏡1がある。さらに前記の古記録や、それをもとにした森本の報告によれば、鏡は総計27・銅鏃17・ 筒形銅器2・筒形石製品2・車輪石1・鉄刀・鉄剣・紡錘車2などがみえ、鏡の中には方格規矩四神鏡類や素文鏡・重圏文鏡の類などが見える。さらに近年発見された、江戸時代の古記録『万伝書覚帖』によれば、鏡は42面あったといい、玉類の中にも臼玉や切子玉がみえる。なお金環2が出土品中に含まれている古記録もあるが、おそらく他古墳の出土品の混入であろう。
築造年代の決め手を欠くが、4世紀末から5世紀初頭の年代が考えられる。
2.御墓山(みはかやま)古墳(三重県上野市)
御墓山古墳の近くに敢国(あえくに)神社(伊賀国一宮)がある。阿閉(あえ)氏と関係がある。大石明神を昔の敢国神社の祭祀地ではないかと推測している。
「阿閉氏は大彦命後裔氏族の一つ。大彦命の子、彦背立大稲腰(ひこせたつおおいなこし)命を祖とする。伊賀国阿拝(あへ)郡(三重県阿山郡阿山町・伊賀町・島ヶ原村と上野市北部)を本拠とした地方豪族であるが、その一部は早くから中央豪族化した。・・・ 」佐伯有清編『日本古代氏族事典』(雄山閣刊)
築造時期としては5世紀初頭が考えられる。
「昭和6年の県道開削にともない、大岩池の西に通じていた古道に代わって池の東側に県道が通じ、池の東南に接していた大岩古墳が消滅した。内部構造は明らかでないが、須恵器・土師器の完形品が70~80個、破片だげでも12荷、ヒスイ勾玉2個、めのう勾玉数個、碧玉管玉1個が出土し(『史蹟御墓山古墳』)、またその工事に際して数個の祭祀用小形滑石製小形臼玉2個が出土した。前者は高坏3(高さ約6~9センチ、手捏(てごね)、2個に朱彩の痕がある)、盌(まり)3(手捏、4.5センチ前後、うち1個は楕円形を呈し捲上手法の痕をよく残す)、坩(かん)2個(小形丸底土器で高さ9センチ前後)であり、後者は径4ミリ・厚さ3ミリで坩のなかから出土したが、榊に掛けた臼玉が祭祀の終了後に土器の上に置かれ、やがて坩のなかに落ちたのであろう。したがって周辺の土を篩(ふる)えば、もっと多くの臼玉が発見されたのではないかと考えられる。」『日本の神々6』白水社刊
桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)
志村裕子氏は、桜井茶臼山古墳の被葬者を崇神天皇の皇后で、大彦の命の娘の御間城(みまき)姫かとする。(『季刊邪馬台国』105号)