大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋が雄略朝で大連となり、それまでヤマト王権に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。
武烈朝で大連となった大伴金村の時代が全盛期で、その後継体・安閑・宣化・欽明まで5代にわたって大連を務める。この間、金村は越前国から継体天皇を皇嗣に迎え入れるなどの功績により、ヤマト王権内に確固たる地位を築いた。しかし、任那の運営を任されていたところ、欽明朝における任那4県の百済への割譲策について、同じ大連の物部氏から失政として咎められて失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に引退した。以後、蘇我氏と物部氏の対立の時代に入る。
大伴金村 おおとものむらじかなむら
生没年 未詳
系譜 室屋の孫。談の子。磐・咋子・狭手彦の父。
略伝 仁賢天皇11年(498年)、天皇崩後、大臣平群臣真鳥・鮪(しび)父子の横暴に怒った太子(後の武烈天皇)の要請により兵を起こし、真鳥らを攻め滅ぼす。同年末、太子を即位させ、自らは大連となる。武烈天皇8年(506年)、継嗣のない天皇が崩ずると、翌年1月、物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人大臣らを越前三国へ派遣し、応神天皇の五世孫、男大迹王(おおどのみこ)を迎えさせる(古事記には淡海国より迎えたとある)。同年2月、王を河内国葛葉宮で即位させる(継体天皇)が、大和に入るまで20年を要し、この間王位継承を巡って戦乱があったと推測される。継体6年(512年)、百済が任那の4県の割譲を要求し、金村はこれを承認。翌年、この代償として百済は五経博士を貢上する。継体20年(526年)、ようやく大和磐余に都を移す。翌年、筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火を将軍として派遣し、継体23年(528年)、鎮圧する(注)。安閑天皇が即位すると(534年)、引き続き大連となり、皇后・妃のため各地に屯倉を設定する。宣化2年(537年)、新羅が任那に侵攻すると、子の磐・狭手彦らを派遣して任那を救援。しかし欽明天皇1年(540年)、物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退いて住吉の自宅に引き篭る。大伴氏は政治的指導権を物部氏・蘇我氏に奪われ、室屋の時代から続いた最盛期は幕を閉じた。なお江戸時代成立の『摂津名所図会』は住吉に近い大帝塚山古墳(前方後円墳)を金村の墓とするが、考古学的に年代が合わず、無理があるという(小笠原好彦)。奈良県北葛城郡新庄町大屋には金村を祀る金村神社がある。
(注)古事記では麁鹿火と金村の二人を派遣して磐井を討ったとある。また継体紀には、天皇の征討命令に対する麁鹿火の返答に大伴氏の祖先について言及する矛盾があり、本来は金村が将軍の任に当たったのではないかと推測される。紀では金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど、金村に対し批判的な視点が目立つ。
v岩戸山古墳は、『筑後国風土記』によれば筑紫君磐井の墓と云われており、筑後平野南部の八女丘陵の中ほどにあります。八女丘陵には、石人山(せきじんざん)古墳、弘化谷古墳など、多くの古墳群が所在します。石人山古墳は、磐井の祖父か曾祖父の墓といわれている地域でいちばん古い前方後円墳で、5世紀前半に造られたものです。その後円部には家形石棺が祀られており、その前を石の武人が守護しております。その隣にある弘化谷古墳は、磐井の縁者のものかとみなされており、円墳の装飾古墳です。こうした筑紫君磐井をめぐる古墳群は、機内のヤマト王権に対峙する政治勢力として、筑紫を拠点とした九州王権の存在を示唆しております。
磐井が継体天皇21年(527)に叛乱
この物語は、『古事記』と『日本書紀』で、語りの構造に大きな落差があります。『古事記』は、「この御代に、筑紫君石井(いわい)が、天皇の命に従わず、秩序に背くことが多かった。それで物部荒甲之大連(もののべのあらかいのおおむらじ)・大伴之金村連(おおとものかなむらのむらじ)の二人を派遣して、石井を殺した」と、さらりと書き流しています。しかし『日本書紀』は、新羅をめぐる朝鮮半島の状況に対応し、磐井がヤマトに反旗を翻し、やがて鎮圧されるまでを詳細に述べています。
近江の毛野臣(けなのおみ)が軍衆6万人を率いて任那に行き、新羅に奪われた朝鮮半島南部の南加羅(ありひしのから、洛東江下流域の金海の金官国)・喙己呑(とくことん、現慶尚北道慶山)回復に出兵しました。そこで新羅は、筑紫君磐井に「賄賂」を届け、毛野臣の侵攻を阻止しようとします。磐井は、火(肥前・肥後)・豊(豊前・豊後)に勢力を伸ばし、ヤマトの軍勢を邪魔し、海路を封鎖して高麗・百済などの朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、毛野臣に「今でこそ使者となっているが、昔は同じ仲間として、肩を並べ肘を触れ合せて、一つ器で共に食べたものだ。使者になった途端に、私をお前に従わせることなど、どうしてできようか」と言い、毛野臣軍と交戦しました。天皇は、毛野臣軍が阻止されたため、「筑紫の磐井は反逆して西戎の領地を占領した。今、誰を将軍にしたらよかろう」と、大伴金村・物部麁鹿火(もののべにあらかい)・許勢男人(こせのおひと)らに将軍の人選を聞いたところ、物部麁鹿火が推挙されました。そこで天皇は、8月1日に物部麁鹿火を将軍に任命し、「お前が行って征伐せよ」といわれた。物部麁鹿火は、「磐井は西戎の狡猾な輩です。川の阻みを頼みにして朝廷に従わず、山の険しさを利用して叛乱をおこしました。徳を破り道に背き、驕慢であり、自惚れております。帝を助けて戦い、民を苦しみから救って来ました。昔も今も変わりません。謹んで征伐しましょう」と申しあげた。天皇は、「良将の戦とは、厚く恩恵を施し、慈悲をもって人を治め、攻撃は川の決壊のように激しく、戦法は風のように早いものだ」と仰せられ、重ねて「国家の存亡はここにある。力を尽せ、謹んで天罰を加えよ」と。そして自ら斧と銊(まさかり)とを麁鹿火に授け、「長門以東は私が統御しよう。筑紫以西はお前が統御せよ。もっぱら賞罰を実施せよ。頻繁に奏上する必要はない」と、磐井鎮圧に関する天皇の統帥権を与えたのです。
物部麁鹿火は、528年11月11日に筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)で磐井軍と交戦、激戦の後、磐井軍を敗北させ、磐井を斬りました。12月に磐井の子、筑紫君葛子は、父の罪に連座して誅殺されることを恐れ、糟屋屯倉(現福岡県糟屋郡付近)を献上して、死罪を免除されます。
龍野市「誉田町」に鎮座する阿宗神社
祭神は息長日子王と一族の象徴的存在の神功皇后・応神帝親子です
この社には欽明帝の頃、大将軍を務めていた大伴金村の息子・狭手彦が宇佐から八幡神を勧請したとの「伝説」もある
佐用姫物語と狭手彦
宣化天皇二年(537年)、朝廷の命を受け、隣国の新羅に侵略されていた朝鮮半島 の任那、百済を救援するための兵を率いて唐津へとやってきた大伴狭手彦(おおとも のさでひこ)は、出陣のための軍船の建造や準備の為にしばらくここ唐津に留まり、 その際、篠原長者の館に滞在することにしました。篠原長者には、佐用姫というとて も美しい娘がおり、佐用姫が挟手彦の身の回りの世話をするうち、二人はお互い惹か れ合って恋仲となり、やがては夫婦の契りを結びました。
やがて軍船は出来上がり、いよいよ船出の日となりました。別れのとき、挟手彦は 佐用姫に「これを私と思って待っていて欲しい」と言って、銅の鏡を手渡しました。
そして、狭手彦の乗った船は松浦の港を出港。佐用姫は玄界灘を見渡す山(鏡山:唐 津市浜玉町~鏡)に登り、遠ざかり行く狭手彦の船に領巾(ひれ)を振りつづけまし た。(この山は別名、領巾振山と呼ばれるようになりました)
船が遠ざかるにつれ、狭手彦を慕うあまり船を追って山を駆け下りた佐用姫は、栗川 (唐津市久里(くり)、松浦川)を一気に飛び渡り、川岸の岩(佐用姫岩:唐津市和 多田)に飛び移りました。しかしその時、狭手彦からもらった大事な銅の鏡の緒が切 れ、鏡は川に落ち川底深く沈んでしまいました。(このあたりは「鏡の渡り」と呼ば れていました)
しかし佐用姫は、遠ざかる船をさらに追い、途中、川で濡れた衣を乾かし(衣干山: 唐津市西唐津)、呼子の浦まで追いかけ、最後に加部島の天童山に登って船の影を探 します。しかし海原にはすでにその姿は見えず、佐用姫は悲しみのあまり七日七晩泣 き明かし、とうとう石になってしまいました。
~肥前風土記・民間伝承~