弟橘比売命、若建王、布忍入姫命

若建王、
稚武王尊:わかたけおうのみこと
若猛命:わかたけおうのみこと
……
日本武尊の御子。仲哀天皇の弟。
母は両道入姫命
『古事記』では倭建命は、弟橘比売命との間に若建王をもうけた。

『日本書紀』では日本武尊は、 第十一代・垂仁天皇の皇女である両道入姫皇女(布多遅能伊理毘売命)を娶って、 稲依別王、足仲彦天皇(第十四代・仲哀天皇)、布忍入姫命、稚武王をもうけた。

布忍神社(ぬのせじんじゃ)は大阪府松原市にある神社。
速須佐男之尊 八重事代主之尊 建甕槌雄之尊
「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている

田島神社 旧國幣中社

肥前國松浦郡 田嶋坐神社 名神大
御祭神
田心姫尊 市杵島姫尊 湍津姫尊
配祀 大山祇神 稚武王尊(仲哀天皇の弟)
唐津から北上し、岬の先端、呼子の北にある加部島に鎮座。呼子から呼子大橋を渡り、東へ進み、島を四分の一周したところ。港に面して鎮座しており、鳥居は海に向かってたっている
宗像大社辺津宮の鎮座地が「玄海町田島」(現宗像市田島)であり、そこからの勧請ゆえ田島とするという説があるが、どうだろう。呼子の隣にも佐賀県の玄海町が存在する。

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田島神社と宗像大社の位置関係は興味深い。

古代九州王朝の存在を伊都国(前原周辺)に求める説があるが、そこを中心に見ると、東の博多湾の東方に宗像大社、西の唐津湾の西方に田島神社が鎮座。対象配置だ。

田島神社から船で北上すれば、壱岐がある。半島・大陸への交通を考えるなら、田島神社こそ「道主貴(みちぬしのむち)」にふさわしい。

創祀年代は不詳。社伝によると、天平三年(731)、稚武王を配祀したという。式内社・田嶋坐神社に比定されている古社。

境内に、佐用姫伝説で有名な佐與姫神社がある。「肥前国風土記」松浦郡の條に、宣化天皇の御代、任那平定・百済救済のため、大伴狭手彦が派遣され、この村に到着し、篠原村の弟日姫子(佐用姫)と結ばれた。そして、別れの日、鏡を彼女に渡す。弟日姫子は、鏡山に登り、任那へ船出する大伴狭手彦へ褶(ヒレ)を振り続ける。すると大伴狭手彦が戻って来て、弟日姫子と夜を過ごす、が早朝には帰ってしまう。不思議に思った弟日姫子は、麻糸を大伴狭手彦の上衣につけ、跡を追う。たどり着いた沼には、蛇頭人頭の化け物がおり、弟日姫子と共に姿を消す(死ぬ)。この蛇神との話は、三輪や祖母山にもあるモチーフ。

「仙覚抄」引用の「肥前国風土記」逸文でも、弟姫(佐用姫)は、大伴狭手彦との別れに際し、褶(ヒレ)を振る。弟姫は水神に仕える巫女であり、水神のため人柱となって命を落とす。

地元の伝承では、大伴狭手彦を追って加部島までやって来るが、とうとう石(神石望夫石)になって、夫を思い続けることになる。その加部島が、ここ田島神社の鎮座地なのだ。

田島神社
 御祭神
 当田島神社は田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫尊の 田島三神を祭神とし、相殿に大山祇神、稚武王尊を配 祀します。
 御由緒
 田島三神は遠い神代の昔に天照大御神が素盞嗚尊と剣玉の御誓にて御気吹の中よりお生れなさい ました三柱の姫神で御出現になりました。
 当社の御鎮座の年代を定めることは出来ませんが、 全国的にも九州でも最も古い神社の一つとして知ら れています。当社への朝廷の御崇敬は特に篤く、奈良 時代天平十年には、大伴古麻呂に詔命があって田島 大明神の御神号をお贈りなされた。

カグロ媛の系図
景行記中の倭建の系譜に載る。同媛は走水で倭建の身代わりになって入水した弟橘媛との子・若建(ワカタケル)王が飯野真黒比売を娶り生んだ須売伊呂(スメイロ)大中日子王の娘である。が、その飯野真黒比売の祖父は息長田別王、この祖父は倭建と一妻(アルツマ)との子とも記す。となると、カグロ媛が六代孫と記す倭建は、この一妻を娶った倭建である。ならば、この一妻を娶った倭建は、カグロ媛の祖父である若建王の親で弟橘媛の夫の倭建、つまり媛から三代前の倭建とは異世代の人物なのだ。
 さらに、このカグロ媛から四代後の忍熊王と闘う応神帝(実際に戦ったのは母親の神功皇后だが)の祖父になる倭建は、カグロ媛より一世代下の人物になり、前出の二人の倭建とも別世代の第三の人物ということになる。